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虹の柱が示されて…

 8月もあますところ、あとわずか。ツクツクボウシを耳に見上げると、いたる所で咲き誇っていた百日紅の花も、夏の終わりを告げています。「夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれに さまよう・・・八月は夢花火 私の心は夏模様」との歌詞が浮かんできました。


 この曲が流行った90年代から2000年代の初めにかけて、私は牧師業の傍ら、大学院で神学研究を深めました。その折にお世話になった指導教授の退官記念感謝会が先週行われ、参加しました。久しぶりにお会いした恩師や当時の旧友たちとも出会え、楽しい時を過ごせました。


 そんな余韻に浸りつつ、その翌朝は「六地蔵めぐり」を行いました。家の近隣の六地蔵の大善寺から始まって、京都市内の地下鉄、嵐電、市バスに乗り継ぎ、ひとり汗かきかきのウォーキング。私にとっては毎年の恒例行事、「楽しい修行」です。(なお「京の六地蔵巡り」については、2020824日付ブログ記事に記しています)。この夏は幾分バテ気味だったのですが、行事に参加することによって、心なしか元気を取り戻せたようです。


 さらに先週後半、早朝家の前で、大きな虹を見ました。偶然虹を目にすることは、無条件に嬉しいものです。また、それは縦に立った虹、まさに「虹の柱」でした。高浜虚子が71歳の終戦の年に詠んだ「人の世も 斯く美しと 虹の立つ」の句を思うと共に、太古の洪水後に、神がノアに語られた「世々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く」という創世記9章の御言葉が脳裏を走りました。


 ノアとその家族は、この神の約束から、立ち上がる勇気と力とを得、新たな世界の歴史を築き上げて行ったのです・・・。今も同じ約束の中に私たちがいる事を心に刻みます。


 ちなみにネットで調べると、「縦の虹」は「幻日」と呼ばれる現象だそうです。「幻日は幸運のサイン」だとも言われます。有難い。何か、これからよい事が起こるような予感を頂けます。 耳を澄ませば、「恐れるな」「安んじて行け」との御声が心に響いて来るようで・・・。共々に元気で、新たな9月へと歩みを進めたいと願います。



93日説教「光の子」要約:

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい・・・」(エフェソ51516

  「時をよく用いなさい」とは「神から与えられた機会を、十分に生かしなさい」ということです。すなわち、「神に聞き従う生活をなす」ということです。そこで鍵となるのは「霊に満たされる」ということ。それは、神への感謝から始まります・・・


# by aslan-simba | 2023-08-28 10:50 | Comments(0)

人生、迷い道があっても

  昭和50年代、渡辺真知子の「迷い道」と題する歌が流行りました。「現在、過去、未来、あの人に会ったなら」「・・・ひとつ曲がり角 ひとつ間違えて迷い道くねくね ・・・」。


  さて、私たちは過去、現在、未来へと人生の道のりを生きています。これまでを振り返って見ると、案外短かったような気もしますが・・・。その中で私も人生の岐路に於いて、どちらの方向に進むべきかを悩むこともありましたし、歌詞と同じく人生の「曲がり角」を間違えて右往左往した経験もあります。


  ともあれ、私たちは本当に不確かな存在だとも、あらためて思わされます。私たちには明日何が起こるかを見抜く力もありません。心のどこかに、何らかの「迷い」や「闇」を抱えながら、恐る恐る今を生きている面もあるのではないでしょうか。また人間は変化を恐れる者です。わけても今の時代、物事が急速に変化しています。新たな未来について行けるのだろうかと、漠然とした不安もよぎります。


  今朝、詩編130編を黙想しながら、旧約の詩人の思いも同様だったと、あらためて気づかされました。詩人はその思いを、「主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。 わが主よ、私の声を聞いてください。 嘆き祈る声に耳を傾けてください」(1-2)と必死に神に訴えかけます。ここでいう「深い淵」とは、現実に疲れ、未来への希望が持てず、先の見えない状況を言います。彼は、その淵の中で、もがきつつ、神に必死に祈っているのです。


  その祈りは「わたしの魂は望みます。 主の言葉を待ち望みます。 わたしの魂はわが主を待ち望みます」(5)と主に委ねる境地へ導かれ、淵の中から立ち上がる力を頂くのです・・・。詩人は、さらに「主によって望みを抱け」(7節、口語訳)と・・・。「主に全幅の信頼を寄せて、希望を持ち続けなさい」ということです。未来に向けて新たな一歩を踏み出す時に、神さまはしっかりと支えて下さる事を信じるのです。


  この詩編を愛した宗教改革者ルターは、これをもとに讃美歌258番を作詞しました「貴きみかみよ 悩みの淵より 呼ばわる我が身を 顧みたまえや・・・」、そして「底いも知られぬ 恵みの御手もて 救いし御神は、げに我が牧者」と。 迷い道に遭遇することがあっても、主に祈り、委ね、主に導かれる道のりを歩む者でありたいです。




827日説教「岩の上に」

「岩の上に自分の家を建てた賢い人・・・雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(マタイ福音書725

  私たちの人生の歩みは、根底から揺さぶられるような事態に遭遇することがあります。 御言葉は、私たちに、神の権威という揺らぐことのない岩の上に人生の土台を建てる限り、何があっても大丈夫だ、と語るのです・・・。


# by aslan-simba | 2023-08-21 10:44 | Comments(0)

  亡くなられた方々に思いを馳せる8月。お盆と終戦が記念されるこの月は、私たち日本人にとって、特別な時のように思われます。  私には、この月に決まって思い起こす短編小説があります。昭和40年に34歳の若さで夭逝した戦後作家、山川方夫(やまかわまさお)の『夏の葬列』です。現在この作品は教科書にも掲載されている由。


  ストーリーは、戦後十数年後、ある青年が出張帰りに、かつて学童疎開していた町の駅に降り立った所からはじまります・・・。そこで偶然出合った葬列を見つめながら、彼の苦い記憶が蘇ります。終戦前日、疎開中に仲良くなった二歳上の少女と一緒にいた時、空襲に遭ったこと・・・。その際、彼は自分をかばおうとした少女を、空襲の恐怖から、慌てて突き飛ばしてしまった。そのため少女は艦載機の銃撃を受けるはめに・・・。が、そんな少女のその後は分らないままに疎開を終える。


  この再訪の日、目の前の葬列の遺影が、成長したあの少女のものだと直感した彼は、あの時の自分に、彼女の死の責任がなかったと不思議な安堵感を覚えます。しかしそうではなく、故人は少女の母親でした。母親は一人娘の少女を、あの銃撃で失ったことにより、発狂していたことを、葬列の子供たちの話で知るのです・・・。


  何とも辛く重い結末で物語は閉じられます。 戦争末期、米軍は広島、長崎に原爆投下をしましたが、このような艦載機による機銃掃射も、地方都市に対して頻繁に行っていたのです。 そのせいで、物語の青年は「罪」ともいうべき、重い心の傷を負わされました。民間人をも巻き込む戦争の悲惨さを、あらためて思います。


  同時に、私はこの物語から、人は「赦されなければ、生きることができない」ということに、深く思いを寄せるのです。それは戦争という不条理な場面だけでなく、日々の日常においても、命をもって今を生きるとは、そういうことなのです。


  以前、あるお坊さんが、私たちが、亡くなった人々を供養する意味を、こう述べていました。「自分の命とは、決して自分だけのものではない。数限りない方の命が受け継がれ、あらゆる命に支えられ、赦されて今の自分がここにあるのだ」と。


  聖書は「眠っている人々については、無知でいてもらいたくない」(テサロニケ一413口語訳)と・・・。私たちは自分の命を守るために、他の命を踏み台にしてしまうこともあります。傷つけてしまった命をも背負い、今を生きる存在です。赦されていることを自覚し、亡くなられた先人への供養としたいものです。




820日説教「求めよ」要約:

「求めよさらば与えられん」(マタイ福音書77文語)

  キリストの有名な言葉の一つです。それは、私たちが天の父に全き信頼を置き、「一心に願い求めよ」という事。その時、必ず与えられます。使徒パウロも、「思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧めます(フィリピ46)。全幅の信頼を持って祈り求めましょう。


# by aslan-simba | 2023-08-14 09:03 | Comments(0)

楽しく、らんまんに!

  連日の猛暑、しのぎがたい毎日が続いています・・・。 


  早朝はりきって歩き、讃美歌の聞こえる家の前を通るのが楽しみでしたが、6月頃から讃美歌が聞こえなくなりました。「明日」は聞こえるかと思いながらも、今日に至ります。家人は入院されたのか、はたまた施設に入られたのかと、全く見ず知らずの人ですが心配になります。


  さて、昼間は机の前で、時折うつらうつら。やはり寄る年波か・・・。「らんまん」の牧野富太郎氏は、数え年95歳の時に、「私は、今日でも、老だとか、翁だとか、爺などといわれることが大嫌いである」、「わが姿 たとへ翁と見ゆるとも 心はいつも花の真盛り」とまで詠んでいます。その健康法については「植物採集をしながら、楽しい心で歩くと良い運動になる。勉強しながら、健康を築く。一挙両得」と記される(『草木と共に』)。なるほど・・・。彼は良い意味で、いつまでも老いることのない、少年の心を持っていたのでしょう。奥さんの壽衛(すえ)さんは大変だったと思いますが。


  ところで、「若い」とか「年寄り」というと、「若者は未来に生き、老人は過去に生きる」とか、「青年は希望に幻影を持ち、老人は思い出に幻影を持つ」(キルケゴール)、「青年期は躓き、壮年期は苦闘、老年期は後悔」(ディズレーリ、英ヴィクトリア時代の宰相)などと言われます。


  ただパウロは、このように述べます。「神の恵みによって今日のわたしがある “But by the grace of God, I am what I am.”」(コリント一1510)と。なお、私たちの新共同訳には、原語ギリシャ語の「しかし(But)」が訳出されていませんが、パウロは過去がどうあれ、「今、生かされている」ことが恵みだというのです。「本来なら恵みを受ける価値のない自分。<しかし>神の恵みによって、こうして今を生かされている」と。 この恵みが、私たちに働き、私たちを支えてくれることに思いを馳せたいと願います。


  「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書4027-31参照)。まさに牧野富太郎が実践した所でしょうか。今を恵みとして、暑さにも負けずに!




813日 説教「解放の御業」要約:

  「安息日に・・・群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」(ルカ131017参照)

  聖書の伝える安息日とは、神の御業を覚え、感謝し、共に喜ぶ日です。そこから安息日は礼拝の日となりました。さて、その安息日に、主イエスは会堂で、病気で苦しむ一人の女性を癒やされ、会堂は喜びに満ち溢れた物語が記されています。私たちの礼拝も、神の御業を共に喜ぶ時となりますように。


# by aslan-simba | 2023-08-07 13:39 | Comments(0)

  連日、強い日差しの猛暑日が続いています。この極暑、炎暑、酷暑・・・日本ばかりではなく世界的な傾向で「温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」由。(国連事務総長の発言)。このような状況が続けば、大変な事になります。まずはこの暑さを、乗り切りことができますよう願います。


  さて、少し前に近所の印刷屋さんから、この7月下旬に店を閉じる旨の挨拶状が届きました。年賀状や名刺の印刷等を頼んでいる所です。その程度のお付き合いでも、福音派の教会に通う印刷屋さんは、牧師である私に親しみを憶えて、私たちの教会の礼拝に来てくれたこともあります。 今回の閉店理由は「昨年冬に大病を患い、限界を感じ・・・」とあり、驚きました。私より一回り以上も若い人なのに。


  このところ顔を合わせていなかったので、先日、妻と印刷屋さんを訪ねました。店頭に出て来た彼は、いつも通りのにこやかな表情をされていたので、ほっとしましたが、脳腫瘍で20時間にも及ぶ大手術を受けたとの事。彼は「これからは、家のことをしたい。神さまに委ねて歩んで行きたい」と。本当に、神さまに命を救われたと思っておられる彼の心意を感じました。


  ところでこの718日に亡くなった阪神の元外野手、横田慎太郎氏もこの脳腫瘍を患い、苦しんでいました。期待され入団した彼は、全力で野球に取り組んでいましたが、球が二重に見える目の異常から検査を受けます。脳腫瘍と分かり、即18時間に及ぶ手術をしました。術後の回復は思わしくない中も、リハビリを真剣に行い、人一倍練習を積み重ねましたが回復に至らず、野球をやめる決意をします。自身の引退試合でもボールがよく見えない中、外野に飛んだボールを正確に受け、矢のようなノーバンド返球で、走者の本塁生還を阻止する超ファインプレーを果たしました(「奇跡のバックホーム」)


  彼は試合後「誰かが私の体を前に押し出してくれました」、「本当に神様は見ていてくださる」との言葉を残しています。神さまは、力を尽くす人に働いてくださることをあらためて思わされます。彼は全ての人々に感謝していました。


  私たちの地上の日々は、神さまから与えられたものです。良い日もあれば、悪い日もあります。私たちには限界がありますが、そんな中でも「神さまが見ていてくださる」ことを心に刻み、「神さまに委ねて歩みたい」ものです。大病と闘った印刷屋さんと、天に召された横田選手のように。



☆8月6日説教「十字架を誇る」要約:

「わたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤの信徒への手紙614)

  パウロは、キリストの十字架こそが、彼の「誇りである」と断言します。この思いを、私たちにも求めています。つまり、彼は「自分を捨て、一切をキリストに委ねよ」と述べているのです。彼の確信には圧倒されます。


# by aslan-simba | 2023-07-31 10:56 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29  京阪桃山南口より徒歩8分、ほっこりした教会   天に在る牧師の愛犬たちです。

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