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月に吠える

  10月に入りました。日中はまだ暑い日が続きますが、日暮れは早くなっています。「秋の日はつるべ落とし」と・・・。 道元禅師が「春は花 夏ほととぎす 秋は月・・・」と詠ったように、秋は月が美しい季節。春とは違って空気が澄むこの時期は、月を鑑賞するには最高です。


  先週の金曜日は仲秋の名月でした。妻と出掛けた帰り道、丸い大きな「盆のような月」を愛でつつ、立ち止まって写真を撮りながら家路につきました。今年は雲一つなく美しかったです。 月にはロマンがあると言いますが、日本ではウサギが住むといいます。竹取物語では、竹から生まれた小さな女の子が、美しいお姫様に成長し、やがて月へと帰って行きます。


  なお、この地球に最も近い天体が月です。人類が降り立った唯一の天体・・・。そういえば、1970年の大阪万博ではアメリカ館のアポロの「月の石」が目玉でした。当時、私は見に行けなかったのですが、20年ほど前に学校の研究旅行でワシントンDCに立ち寄った際、航空宇宙博物館で、何と「月の石」に触れることができました。驚くことに「触れてください」というプレートが掲げてあったからです。


  前回、我が家の犬のことに言及しましたが、アスラン、シンバの二匹を連れて、満月の夜に散歩したことがありました。あの時アスランが月を見上げて、遠吠えしたのです。それにつられてシンバも、もの悲しげな声で・・・月に吠える。やはり犬の先祖はオオカミなのだ、とつくづく納得すると共に、その声は住宅街に響くので困りました。


  萩原朔太郎の処女詩集『月に吠える』がありますが、その序文に北原白秋が「月に吠える。それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。() 天を仰ぎ、真実に地面(じべた)に生きてゐるものは悲しい」と記しています。


  月に吠えるという心理は、旧約聖書、詩編の詩人の「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」(130)との思いに重なるような気がします。この「深い淵の底」とは、悲しみと苦しみの現実から逃れるすべのない人間の境遇を表しています。しかしそのような生涯を生きねばならない人間であってもなお、私たちには主を待ち望みつつ、希望に生きることのできる道が拓かれているのです。



108日説教「取り成す」要約:

「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」(フィレモン17節)

 この書は、パウロが獄中から書き送ったフィレモン宛の短い私信です。他の書簡とは趣を異にし、そこに教理や信仰生活上の勧めは書かれていません。しかし、この書にはオネシモという解放奴隷をめぐり、神の救いの恵みが生き生きと働いた実例が記され、証しされています。是非、一気に通読してみて下さい。


# by aslan-simba | 2023-10-02 10:02 | Comments(0)

   朝の散歩より戻り、家の周囲の掃除を済ませた後、書斎でラジオの語学番組を聞き流しながら日記を記す。日々の私のライフスタイルです。数日前、そのラジオからこんな英文フレーズが流れてきました。「Are you a dog person or a cat person(あなたは犬派ですか。ネコ派ですか)」。今の私なら「I like both of them.(両方好きです)」と答えるところですが、本音は犬派かな。


  ともあれ、こんな英語をここで耳にしたのは何かの偶然でしょうか・・・。 実はこの日の早朝、妻と一緒に裏山の住宅街を下りながら、妻が、昔飼っていたアスラン、シンバと名付けた二匹のスコッチテリアに言及し、「この辺りまで散歩に連れてきたね」と語っていました。その直後、四つ角に差し掛かかると、右手の少し遠くから、二匹の黒い犬を連れた若い女性がこちらの方に歩いてきたのです。


  「あっ!まさか」と思って立ち止まり、近づいて来る二匹を確認すると、何とスコッチテリアでした。連れているその女性は、立ち止まっている私たちを怪訝そうに見ながら、犬二匹をさっと引き、反対方向へと上って行きました。私たちは後ろを振り向き、離れて行く犬たちを見つめていましたが、犬たちもこちらに何度も振り向いてくれていました。妻は「アスラン、シンバの生まれ変わりかな」と涙を流していました。ちょうどお彼岸入りの前日でした。


  あまりの驚きに声もかけられず、今更ながら本当に残念・・・。それにしても、犬を連れて散歩されている人をよく見かけますが、スコッチを見たのは初めてです。我が家の犬について話していたすぐ後だったので、不思議に思いました。


  その後、犬の転生を描いた「僕のワンダフルライフ(原題A Dog’s Purpose}」という映画を思い出しました。八歳の少年に助けられ、その家族の一員となった主人公の犬。永遠に少年のもとから離れないと心に誓うのです。遊ぶときも寝るときもいつも少年と一緒。しかし犬の寿命は短く、先に亡くなる・・・。それでも「大好きな少年に会いたい!」との一途な思いで、50年間に3回生まれ変わったその犬は、遂に少年(この時は初老のおじさんになっていましたが)と再会を果たしたのです。


  映画は最後に、主人公の犬のこんなナレーションをもって閉じられました。「犬生を繰り返して学んできたのは 楽しむこと 人助けすること 一緒にいる好きな人を見つけること 過去をいつまでも悲しまず 未来を憂いずに 今日を生きること」と・・・前向きですね。 我が家のアスランとシンバも、そう思って今を生きているのでしょうか。


  ふと思い出したのですが、アスランが亡くなった3日目、空に「大きな虹」を見ました。ネット情報によると「虹の橋」は、天国の手前にあり、ペットが飼い主を待つ楽園だとか。我が家のせっかちな二匹が、私たちを待ちきれずに、「虹の橋」からとりあえず我が家の近所に戻ってきたということでしょうか。そう思いたいです。また、その犬たちに会えることを願いつつ、オハギを食べています。




101日説教「福音の前進」要約:

「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(フィリピ112

  我が身に降りかかった災難をも通して、神さまは福音を前進させてくださる。その事実と確信をパウロは力強く語ります。自由を奪われ、命さえ奪われかねない状況下でも、なお信じて、喜びをもって生きるパウロの姿に励まされる思いです。


# by aslan-simba | 2023-09-25 11:04 | Comments(0)

  彼岸花の似合う季節となりました。もうすぐ秋のお彼岸。お彼岸の風習は日本独自のもので、最初に行ったのは聖徳太子と伝えられます。古くは宮廷の行事だったのが、江戸時代に広く庶民の間に定着したそうです。なおキリスト教では、11月に永眠者記念の行事が行われますが、お彼岸の時期に合わせて行う教会もあります。


  ともあれ、この時期に亡くなった方やご先祖に思いを馳せ、墓参りをされる方も多いと思います。あるお坊さんによると「お墓は仏様の世界と繋がる窓口・・・お墓や仏壇の前で手を合わせれば、いつでも仏様の世界とつながれる」と。本当にそうだろうと思います。


  実は先日、妻から娘婿の体験談を聞きました。なお娘家族は97歳の妻の母と同居してくれていますが、今年の3月頃から義母は、夜中に「独り言」を話すようなりました。毎週、実家に泊り込む妻や娘夫婦も、夜通し続く独り言に大変心配し、クリニック等に色々相談もしました。


  義母の独り言は誰かと話しているような様子です。そんな中、娘婿が夜中トイレに目覚めた時に、独り言の話し相手の「声」を聴いたそうです。最初は義母の寝室に「泥棒が入り込んで来たのか」と構えながら聞き耳を立てていると、その声はやさしく頷く男の声で・・・ 勇気を出して寝室を開けると、幸いそこには義母の他は誰もいなかったとのこと。ほっと胸をなで下ろし、安堵したようですが、「不思議なこともあるものだ」とその声について思いを巡らしたそうです。「もしかしたら、その声の主は亡くなられた御主人の声なのかな」と。


  私もそれを聞いて、妻の父が傍で、話相手になっておられるのではないかと思いました。ただ義母以外の第三者にも、その声が聞こえるのは興味深く思いました。 私は、亡くなられた方々の魂は、神さまと共に私たちを見守り、傍にいてくれていると思っています。個人的にも、そのように感じることがあります。 が、私にとっては、それは個人的な誰かというよりも、全ての魂と一つとなった神さま、キリストではないかと思うのですが・・・。


  ただ、この時期、身近で亡くなられた親族と捉える方が、具体的で分かりやすく、その亡くなられた方々の平安を神仏に委ねることで、心の安らぎも憶えられると思います。 いずれにせよ「御国はあなたがたの只中にある」(ルカ1721参照)ということなのでは・・・。あの世とこの世、天国と現世、彼岸と此岸は、決して遠いものではなく、それは隣り合わせかな・・・などと、彼岸花をさがしながら思いを馳せています。




924日説教「主に喜ばれ」要約:

「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(コリント二59

  「体を住みかとする」とは「肉体をもって生きている」ということです。つまり、この世で生きているということです。「体を離れている」とはこの世の生は終えているということです。どちらに於いても、私たちの魂は主のものなのです。
# by aslan-simba | 2023-09-18 11:39 | Comments(0)

白露の候

  まだ日中の暑さは続きますが、いつしか法師蝉の声は遠のき、夕べと早朝には、虫の音色がはっきり響くようになりました。空を仰げば、行く雲が新たな季節の訪れを告げています・・・。


  そういえば、先週8日は暦の上で「白露」(はくろ)でした。白露とは秋分の15日前の事だそうで、「大気が冷え、野の草に露が宿って白く見える頃」を意味する由。何年か前に記した事がありますが、私は白露(はくろ)というと、中島敦『山月記』の「時に残月、光冷ややかに、白露は地に滋く」という言葉が思い浮かびます。


  ところで「白露」は「しらつゆ」とも読ませます。今、趣味で学んでいる『源氏物語』の初めの方に登場する、清楚な女性「夕顔」が光源氏に宛てた歌にこうあります。「心あてに それかとぞ見る白露(しらつゆ)の 光そへたる夕顔の花」(もしや光源氏さまでしょうか。垣根の夕顔の花に白露の光を添えておいでの貴方さまは)と・・・。夕顔は、はかなき死を遂げる、薄幸の女性でした。


  先週、北山の京都学・歴彩館で、1951年のモノクロ映画「源氏物語」を見る機会がありました。英語字幕付きで、外国人も見に来ていました。若き日の光源氏のエピソードを描こうとしたこの映画。残念だったのは、そんな夕顔が出てこなかった事。他にも二人の女性を一人の女性として描いたりとか・・・。まあ光源氏が恋多き、まめな男だったから、映画をつくるのも大変だったのでしょう。


  ちなみに長谷川一夫が光源氏役でした。女性陣は木暮美千代、乙羽信子など往年の大女優たち。当時の超大作。なお、この映画の作られた年に、私は生まれています。


  ところで、白露というと、私は旧約聖書の「露が降りる話」も思います。紀元前13世紀の出エジプト、「朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄く壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた」(出エジプト記1613,14)、「夜、宿営に露が降りると、マナも降った」(民数記119)・・・。旧約の民が荒れ野にあった時、露を合図に、神さまはマナという食物を、天より与えてくださいました。


  またゼカリヤ書8章にも、「平和の種がまかれ、ぶどうの木は実を結べ 大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。・・・恐れてはならない。勇気を出すがよい・・・」とあります。これは紀元前5世紀、捕囚の地にある民に、預言者ゼカリヤが語った預言です。この言葉は時空を超えて、今の私たちにも伝わってまいります。私たちも実りの季節へと、踏み出したいものです。「さあ、共に行って主の恵みを求め 万軍の主を尋ね求めよう」(821)と。




917日説教「深きかな、神」要約:

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか・・・」(ローマの信徒への手紙1133

 使徒パウロの心からの賛美の言葉です・・・。神は御子を通して御自身の憐れみを現してくださいました。すべての人を救うために計り知れない「富、知恵、知識」をもって今なお働いておられるのです。私たちも、その神の憐れみの中にある者として、感謝と賛美をパウロと共にしたく願います


# by aslan-simba | 2023-09-11 10:46 | Comments(0)

希望の根拠・・・

  9月を迎えたというのに、むし暑い日が続き、湿度も高いせいか、空気が重たく感じられます。実際は、「湿度が高いと空気が軽くなる」ということだとか。人間の体感とは不思議ですね。そんな中、昨今の世の中の事を考えると、何とはなしに、明日への不安が脳裏をよぎることもあります・・・。「未来は希望と不安でできている」。何年か前に話題となった保険会社のコピーですが、言い得て妙です。


  ところで戦後から70年代初めにかけて、フランス人のサルトルという作家が話題になりました。無神論的実存主義者で、「実存は本質に先立つ」というフレーズを残しています。「自分の人生は、自分で切り拓ける」ということです。


  そういった思想と共に、作家のボーヴォワールと「契約結婚」するなど、当時の社会規範を無視した勝手気ままともいえる行動が、若者たちに先駆的なものと捉えられ、人気を博しました。またノーベル文学賞を辞退したことも有名です。彼は、ソ連、中国などの共産主義に期待を持ち、「社会参加」「革命」や「反乱」等のキーワードで若者を扇動しました。


  しかし、彼の晩年は大変だったようです。机とベットだけの狭いアパート暮らし。しかも失明していた右目に加え、左目の視力も失い、執筆活動が出来なくなりました。それでも残された対談集(『いまこそ、希望を』)で語っています。


世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の、静かな絶望さ・・・」「私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望を根拠付けなければね」と。


  彼は強がりのように、死ぬ間際まで、どんな状況下に於いても、彼なりの変革の希望を失っていない自分自身を、説明したかったように見えます。 


  ただ、私は単純に、使徒パウロの示す「希望がみえない時にも、なお希望する」という言葉を大事にしたいと思っています(ローマ418参照)。パウロによれば、希望の根拠はどこまでも神です。「見えるものに対する希望は希望ではありません。・・・目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマ82425)。


  神を信じつつも、見えるものに心を奪われて、落ち込みそうになる時には、讃美歌「心を高くあげよ!」(讃美歌21 18番、讃美歌二編 1番。「スルスム・コルダ」)を口ずさんでいます。「こころを高くあげよ! 主のみ声に従い、ただ主のみを見あげて、こころを高くあげよう・・・」。自分の気持ちは心の持ちようで、心を神さまに向けることを忘れないようにと願います。




910日説教「愛に根ざし」要約:

「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ319

 キリスト教とは「愛以てこれを貫く」教えです(新島襄)。すなわち、計り知れないほどの愛そのものであるキリストが、私たちの心の中に住まわれ、そのキリストによって生かされるところに「我が信仰の核心」があるのです。


# by aslan-simba | 2023-09-04 13:57 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29  京阪桃山南口より徒歩8分、ほっこりした教会   天に在る牧師の愛犬たちです。

by aslan-simba