レントのひな祭り

 年度末を控えて忙しない日々が続きますが、教会暦では今がレント、受難節、四旬節です。このイースターまでの日曜日を除く40日の期間、代々の教会は主の御受難に思いを込めて、深い悔い改めと断食の期間としてこれを守り、イースター、復活祭の備えの時としてきました。


 今も教派によっては断食はともかく、「荒野の誘惑」を受けた主を覚え、肉類や酒類などを絶つ食生活の節制が奨励されます。「四旬節の務めに励み、罪のゆるしを受けて新しい命を得、復活された御子の姿にあやかることができますように」(ミサ典書)と。私たちもこのようなレントの精神と祈りを大切にし、同時に、主の十字架によってもたらされた「救いの喜び」もしっかりと心に刻みたいものです。


 ところで、そんなレントの時期に「ひな祭り」が巡って来ます。日本人として福音に与っている私たちは、その起源をたどると、そこにも十字架の主を覚えることができるかも知れません・・・。


 平安時代の宮中に始まり、江戸時代に盛んになったといわれるこの祭り、起源は「上巳の祓(じょうしのはらい)」から来ていると言われます。上巳とは旧暦の33日のこと。古代の日本にはこの日に、心身の穢れや罪や災禍を払うために神に祈り「贖物(あがもの)」としての人形に自分の呼吸をかけ、肌身にすりつけて自らの罪穢れを移し、これを川へ流す風習があったそうです。人形が人の罪を担ってくれたということですね(それがひな人形の発祥とか)。身代わりの贖罪です。旧約聖書レビ16章には、一匹の山羊にイスラエルの諸々の罪を担わせるという贖罪日(ヨム・キップル)の律法規定が記されていますが、私たちにはたとえば「ひな人形」という仕方で、十字架の出来事が予表されていたのでしょうか。


 いずれにせよ、キリストの福音は、我が国の文化、行事、日常のなかにも深く宿っていてもおかしくありません。そのような思いをもって身の回りを振り返ると、案外面白い発見があるのではないでしょうか。主なる神は、この世の一切を統べたもう御方ですから、不思議ではない・・・。 心華やぐひな祭りが、レントの期間にあることにあらためて感謝。



225日説教「希望の信仰」要約:

 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる」(イザヤ書35:1-2

  人が荒野の現実だけを見つめ続ける限り、荒野は未来もなお荒野のままだろう。大事なのは、輝きにみつる「主の栄光を見る」ことである。そこに希望がある。


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# by aslan-simba | 2018-02-21 07:57 | Comments(0)

朝に感謝

 先日、ある著名なお坊さんの講演を聞く機会がありました。いつも思わされることですが、ひとかどの宗教者の方のお話は、宗教の相違を超え、私たち自身の心を豊かにしてくれるものです。そこに講演者自身の人生と信仰の歩みに重ねて、宗教の本質を学ばされるからではないでしょうか。


 そもそも宗教とは何かといえば、「人は何のために存在するのか」といった「生きる意味」、私たちの「存在意味」を教えてくれるものではないか、と思います。 私たちが生きること、その人生の歩み、それは決して平坦な道を行くものではありません。不安や困難に満ちた険しい峠道を上らねばならないこともある。そんな歩みに疲れ果てたとき、その答えを宗教に求める人も少なくありません・・・。


 上述の和尚様がこんなことも言われていました。「『朝』という字を分解すると、『十月十日』と書く。それは胎児がお母さんのおなかに誕生して、生まれてくるまでの期間。 朝という字には、毎日産まれるという意味が表現されている。だから毎朝、まず目が覚めたら、今日頂いた命を仏様に感謝し祈ることが大切だ・・・」。本当にそうだと思います。日々の命は、神仏から頂いている尊いものだと、あらためて気づかされました。聖書にもこうあります。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」(哀歌322)。


 さて、生きる意味を教える宗教はさらに、死の意味をも指し示してくれます。223日は、2世紀の教父ポリュカルポスの殉教記念日です。時は迫害の時代、処刑の前、彼の人徳を知るローマの役人たちは彼を助けようと、キリスト教の棄教を迫りました。しかし、彼はこう述べます。「私は86年間、主に仕えてきました。その間、私が主を裏切っても、主は私に一度たりとも悪いことはなされませんでした。どうして、主を裏切ることができましょうか」と・・・。最後まで、自らの務めを誠実に果たそうという信仰の決意。それはこの世の死で終わらない命を確信していたからでしょう。


 仏教も生死一如(しょうじいちにょ・死と生は一続きであること)を教えています。そこに生死を超えた命のつながりがあるのでしょうか。日々に感謝。




218日説教「荒野の誘惑」要約:

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ福音書4:4)

 日々の糧を与えられている者は、神の言葉によって生かされる生活を確立せねばならない。主イエスの御言葉は、そのことを私たちに教えているのです。
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# by aslan-simba | 2018-02-15 08:05 | Comments(0)

台湾加油

6日夜、台湾東部の花蓮の近海で大規模な地震が発生しました。召された方、負傷された方、さらには今なお行方不明の方々も大勢おられます。本当に辛い気持ちです。

花蓮市は30年程前、仕事で滞在ことがあります。良き人々の出会いのあった、きれいな町でした・・・。

今はただただ天父の慰めとお守りを、心よりお祈り申し上げるばかりです。台湾がんばれ!


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# by aslan-simba | 2018-02-08 16:41 | Comments(0)

「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間生まれてきたかいがないじゃないか」。山本有三の『路傍の石』に出てくる言葉です。人はこの世で生を受けた以上、なにがしかの生きがいを求めるものではないでしょうか。これまでの人生を振り返り、幾度かあったその転機の度に、この言葉が聖書の御言葉と共に、心の内に響きました。


 ところで、今朝イザヤ書4243章を読み、黙想した際、こんな御言葉に心打たれました。主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。・・・わたしの目にあなたは価高く、尊く・・・」(イザヤ4256434)と。


 こんな小さな私たち一人一人を、この世界に一人しかいない尊い存在として、神は命を与えてくださったのです。さらに神さまは、その一人ひとりの「自分」を、個別に心に留めて配慮してくださる。そのような創造主である神の、絶えることのない私たちに対する熱い思い・・・。それが私たちを生かしてくださるのでしょうか。


 ある旧約学の先生がこう述べていました。「絶えず虚無に引き込まれようとする人間を変身させるのは、一人一人に心をお配りになる神の顧みである」(左近淑)。このように顧みてくださる神、主と共にある幸い・・・。私たちは、どこまでも神が、自分を生かしてくださることを信じて、歩み続けたいものです。


 主なる神は、足りなさの多い自分を、いつも恵みをもって包み込み、導いてくださる。疲れ切っているときには「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と語りかけてくださり、悲しんでいるときは「悲しむ者は幸いなり」と慰め、挫けそうになるときには「勇気を出しなさい」と励ましてくださる・・・。 残された人生の歩みは、その主に、ただ委ねることによって、本当に生かされると信じます。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ435)という御声を心に刻みつつ。



211日説教「御座を仰ぎ」要約

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ人への手紙416

 人生、如何に困難なことが続こうとも、それで終わるのではありません。憐れみの神、恵みの神が、「全き救い」の計画を進めてくださっているのです。だから、安んじて「恵みの御座」に近づこうではありませ



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# by aslan-simba | 2018-02-07 08:06 | Comments(0)

老いて白髪になっても

 今日の社会において、老人とは65歳以上の人間を一般に指しますが、学生と関わる仕事のゆえか、66歳の今なお、私は「若者」のつもりでいます・・・。ただし、そうは言っても老化を覚えることもしばしば。まず衰えを感じるのが「眼」。近くのもの、細かいものが見えにくい。視野も幾分狭く・・・文献を探ったり、パソコンに向かうことの多い者として、目薬と眼科検診が欠かせなくなりました。

 また、頭の回転が以前と比べ、幾分鈍くなったように思います。もともと回転がさほど良かったわけではありませんが・・・。脳が柔軟性を欠き、固くなっていることに気づきます・・・。ある方が言っていました。「『若さ』は、身体や思考の柔軟さを意味する」と・・・。他に、記憶力が少しあやしくなった面があります。昔のことは良く覚えていますが。

 ともあれ、そういった「老化現象」・・・気にはなりつつも、こんな聖句に励まされます。「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(コリント二416)。私たちの体は衰えても、内側の最も奥深い所にある私たちの魂は、日々新たにされ、生き生きと磨かれて行くのだ、と。そうやって御国への備えがなされて行くのでしょうか。昔の日本人は「老い」を「神」に近づく状態としてとらえ、その最短距離にいる人たちを「「翁(おきな)」「嫗(おみな)」と呼び、大切にしました。

 もっとも人生100年(THE 100-YEAR LIFE)の今の時代に、60代、70代で老化を感じるようでは、人生の先輩たちに失礼かも知ません。翁になり、老成するにはまだ早い。いま暫く、若いつもりで走り続けたいものです。 ところで、今朝読んだ詩編の祈りには、圧倒されました。「わたしが老いて白髪になっても 神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を 来るべき世代に語り伝えさせてください」(詩編7118)。 老いた身にかかわらず、御言葉を宣べ伝える者の魂の気迫が伝わってきます。この詩人と同じく確固たる思いをもって、いつまでも御言葉の真理を語り続けられますように。主よ、助けたまえ。 さあ、今日も頑張るぞ!


24日説教「試練を生かす」要約:

「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブの手紙1:2)

 試練は忍耐を生み、私たちを信仰者として成長させ、神の国への備えをさせてくれます(ローマ534参照)。試練を恐れず、価値あるものと捉え、本気で神に祈り、歩み続けましょう。

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# by aslan-simba | 2018-01-30 21:19 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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