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夏の終わりに

百日紅(さるすべり)の花々が美しい。その茂りが日盛りの道に陰を落としている。晩夏、果てて行く季節の日々に、ふと、立原道造の詩を思い起こした。「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に 水引草に風が立ち 草ひばりのうたひやまない しづまりかへった午さがりの林道を・・・」(「のちのおもひ」より)。 都会人・立原の心のふるさとは、山の麓の淋しい村・・・信州信濃の寒村だろうか。あるいは憧れをもって心に描き続けたヨーロッパの片田舎かもしれない。いずれにせよ、詩作をなした昭和十年代初めの時代状況は重く厳しかった。その辛い現状を直視しつつも、時流に乗らず、またあらがうこともなく、彼は凛として自らの「夢」を綴り続けた。作品の透明感はそれを見事に表わしている。「こわれそうな」死の予感の中でも、ロマンに満ちた彼の世界は存在する。結核で夭逝する半年前に詠んだこんな詩も好きだ。「夢みたものは ひとつの幸福、ねがったものは ひとつの愛、山なみのあちらにも しづかな村がある、明るい日曜日の 青い空がある  日傘をさした 田舎の娘らが、着かざって 唄をうたってゐる、大きなまるい輪をかいて、田舎の娘らが 踊をどってゐる  告げて うたってゐるのは、 青い翼の一羽の 小鳥、低い枝で うたってゐる  夢みたものは ひとつの愛、ねがったものは ひとつの幸福、それらはすべてここに ある と」(「夢みたものは」)。彼は天上の詩人ではないだろうか・・・。 私たちにも「夢」がある。果てることのない「希望」がある。それは、いつか帰るであろう幸せな天の国の約束である。礼拝で聖書の言葉に耳を傾けるとき、散歩道で木の枝の青い鳥に気づくとき、また夕暮れの空の色に心ときめかすときに、あらためてそれを心に刻みたい。 


☆8月23日の説教要約:
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ信徒への手紙2:20)。
「もはや我、生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」という使徒パウロの思いを、私たちは自覚すべきです。キリストは、ただ私たちの傍らにあって、共におられるというだけではないのです。キリストを憶える私たち一人一人の内に生きる・・・一体となって生きてくださっているというのです(キリストの内住)。ならば、キリストは、私たちの喜びはもちろん、苦痛や悲しみをも私たちの中にあって、共に担ってくださっている。何ともったいないことではないでしょうか・・・このことを祈りをもって本気で受け止める時、私たちの人生の歩みは確実に変わります。
by aslan-simba | 2009-08-20 14:41 | Comments(0)

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