2015年 11月 19日
錦秋に思う
今の時期、「錦秋(きんしゅう)」というのでしょうか。文字通り、紅葉が錦 (にしき) の織物のようにあやなす、美しい季節を迎えています。信仰の詩人・八木重吉のこんな詩を思い起こします。「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 秋の美くしさに耐えかね 琴はしずかに鳴りいだすだろう」。
こんな季節の余韻にいつまでも浸っていたいのですが、そうはいきません。やらねばならない現実の仕事が待っています。そのように健康を支えられて働けること、また研究できること、本当に有難いことです。「さあ今日も『心を高くあげよう』、頑張るぞ」とキャンパスに到着。
ふと門の横で「枯れすすき」が秋風に揺れているのに気づきました。そう言えば、以前お世話になったある牧師先生の記した文章にこんな言葉がありました。「人は一皮むいたら『俺は河原の枯れすすき』という感情や意識になるらしい」。信仰者もそうだ・・・。 分かります。ある種の自己憐憫、世をはかなむ思い。人間にはそういう面もあります。勿論それが常に悪いのではない。それが信仰を鍛え、あるいは芸術的才能を開花させる契機となるかも知れません。それでも一歩間違えれば、人生の危機に繋がる怖れもあります。
私の場合もいろいろありましたが、そのような状況にしゃがみ込むことがあっても、何とかやり過ごし、立ち上がって来ることができました。自分ではそれを、「復活の御力」に与ったと捉えてるのですが、根が楽観的なのかもしれません(自分では、心配性で神経質な人間のつもりではありますが・・・)。そして、いつも昨日より今日、さらに今日より明日へと希望をつないでいます。
来月初めには64歳の誕生日を迎えます。これからも「ゆきなれた路(みち)の なつかしくて 耐えられぬように わたしの祈りのみちをつくりたい」(八木重吉)と念じながら、共々に思いを一つに、主の道を歩み続けたく願います。
☆11月22日説教「十字架のメシア」要約:
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23:42)
主の傍らで十字架に架けられている罪人の、この訴えに、メシアなる主は宣言された。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。 メシアとは王のこと。最終的な裁きを行う王である。そのメシアが権威をもって宣言する罪の赦し・・・。今、私たちも同じ赦しの宣言と御国の約束を耳にしているのである。