2015年 10月 29日
絶景かな!
南禅寺は700年以上も前、亀山法皇によって創建された由緒ある禅寺。境内には琵琶湖疏水の水路橋も走る。その広大な敷地に、色づき始めたカエデの木々が美しい。
広々とした参道を少し行くと、三門がそびえ立つ。「三門」とは、迷いと煩悩の世界から通過しなくてはいけない門で、ここを通って仏国土へ至るという象徴的な意味があるそうだ。なお案内板によると、現在の門は、「大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建されたもの」で、楼上に行ける。折角来たのでこれは登らねばと受付へ。拝観料は500円、少し高いかなと思いつつも、登る気持ちは変わらない。
靴を脱いで、急な階段を一段一段踏みしめながら上へと向かう。足を踏み外さないように適度な緊張感をもって、足をしっかりあげる、そんな程よい筋トレを意識しつつ楼上へ辿り着いた。
そこに美しい青空と京都市街が眼前に拡がる。この楼上は東西南北が見渡せるよう、ぐるりと回廊が巡る。そこから眺望する景色はまさに圧巻。足がすくむようだ。かの石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな!」と称え、「この五右衛門の目からは値万両」の景色と述べたという(歌舞伎の台詞)。まさに五右衛門の言う通り、500円程度の拝観料など目ではない。
秋たけなわのそんな京都の街並みを見つめながら思った。「神が良し」と言われた世界がここにも確かにある、と。そして時に、急な階段を上らされような人生の歩みに、意味があることも感じた。この三門の向こうの仏国土ならぬ神の国を目指して、益々元気に歩んで行きたい。「絶景かな」と神の創造の業を心から褒め称えつつ・・・。
☆11月1日説教「希望」要約:
「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ・・・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、・・・天に蓄えられている、・・・財産を受け継ぐ者としてくださいました」
(ペトロの手紙一1:3‐4)
私たちは、置かれている環境や境遇で、自分の人生を決められる必要はありません。ましてや他の心ない人の言葉や行為ゆえに、暗い人生を強いられる必要は全くないのです。神を見上げ、信仰をもって、神の子どもの自覚の下、希望をもって生きようではありませんか。