2015年 06月 12日
念速寺
我が家は宗教的な家庭ではなかったが、それなりにお寺との繋がりは欠かしていなかった。子供の頃から仏事の度に、よくここに連れて来られた。そのせいだろう。寺のまわりの光景は昔とは随分変ったものの、何か懐かしさを感じるのである。
幼稚園の頃だっただろうか。お坊さんの唱えるお経が、歌のように響いたり、阿弥陀さまの向こう側に、何か不思議な世界があるように思えた記憶がリアルにある。宗教の違いはともかく、この頃から「宗教の道」への導きを頂いていたのだろうか・・・。
ところで、母が32年前の6月に亡くなって以来、信心にはまったく興味のなかった父が、月命日には必ずこの寺を訪ねるようになった。そこまで宗教に思いを寄せるなら、キリスト教のことも是非知ってもらいたいと、当時、東京に戻った折には、父にキリスト教入門書を手渡したり、教会の話などを意図的に行った。その甲斐あってか父は、家に訪ねて来るエホバの証人の人に「息子がキリストをやっていますから、結構です」とお断りしたり、近所の人々に「息子は牧師です」と話してくれたという。何もそこまでやらなくとも・・・。
きわめつけはこの念速寺のご住職にも、私のことを話し、ご住職が心から喜んでくれたと言っていた。にわかに信じ難かったが、本当だった。その後、ご住職にお会いした折に、「よかったですね」と言って下さった。彼自身、若い頃、キリスト教の勉強を随分とされたそうだった。いつかゆっくり語り合いたいと思っていたが、果たせないまま亡くなられ、現在は奥さんがお坊さんをやっておられる。頑張って欲しい。
私共は互いに、無限の大いなる御力に生かされているのを知るのだから。いつまでも寛容であり続けたいものだ。
☆6月14日説教「私達のため」要約:
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」
(コリントの信徒への手紙二8:9)
「キリストの恵みを知っている」・・・教会の働き、信仰の業は、そこから生じるものです。だから、そこには喜びがあるのです。キリストはそんな「豊かさ」を私達に与えるために、「ご自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ2:6-8)のです。