2014年 10月 27日
人生の秋の道
心身一如(こころと身体は不可分)というが、体に一つ痛みを抱えただけで、いつもの気力が半減している自分を覚えた。強いつもりだったが、案外脆い自分の現実。とほほ・・・。
さらに心細くさせられたのは、一抹の哀愁に彩られるこの季節・・・。折しもここ数年、この時期に知人の訃報を耳にする。今年もそうだ。年齢を重ね、知り合いが増えたゆえでもあるが。ともあれ、人は働き、疲れ、齢を重ね、病を得て、その生涯を閉じて行くという事実にあらためて気づかされる・・・。いや、そんな簡単に言い切ってはならないだろう。その一人一人の生涯の歩みに思いを馳せる時、そこに示されるのは、生きるという事の重さである。結局は一人で担わねばならないこの人生。多くの場合、そこに孤独な闘いが浮かび上がる。
ふと、松尾芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」という句が脳裏を走った。「この道とは、自分の一生の道、俳句において自分が歩んできた道。今や、この道を行く人はいない・・・」、ある人がそう記していた。亡くなる一ヶ月ほど前の句で、事実上、これが芭蕉の辞世だという。もしかしたら、晩年の芭蕉の心境のすべてが、ここに託されているのかも知れない。何という孤独な俳人・・・。
否、芭蕉に限らず、人は誰もがこの孤独を携えて、人生を歩まねばならないのだろう。そうであっても、私たちはその孤独な闘いに、押し潰されてはならない。
そうだ! 忘れてはならないことがある。人の孤独を、その極みまで徹底的に味わい尽くされた方がいたではないか。人々に捨てられ、理不尽な十字架に架けられながらも、なおも最後まで私たちのために祈り続けて下さった方がいたではないか。その方が甦られたのだ。だから、私たちは立ち上がって行けるはずだ。その方、主イエス・キリストに信頼し、委ねられるのである。
ならば私たちの人生は、本当の意味では、決して孤独の闘いに終わらない。主が共に闘って下さるのである。そこにこそ、輝きに満ちた御国へと向かう人生の道の醍醐味がある! そして覚えたい。この晩秋の次にクリスマス、その次にはイースターという喜びの季節が巡り来ることも。
☆11月2日聖徒の日 説教「道、真理、命」要約:
「私は道であり・・・」(ヨハネ福音書14:6)
「道」というヘブライ語は、「踏みつける」という言葉に由来する。確かに道は、人が踏んで通るもの。主イエスは自らが十字架にかかられることによって、私たちが父のみもとに行けるような「道」になって下さった。十字架の贖いは、まさにそのことを意味するのである。「わたしがあなたの罪の代償として苦しみを背負う。わたしを踏んで父のもとに行きなさい」。そんな御言葉を聞く。勿体ないことである。