2014年 05月 01日
恵みと慈しみ
賛歌。ダビデの詩。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
最初に「ダビデの詩」と記されますが、あのダビデ王自らが作った詩ではありません。「ダビデにちなんだ詩」と述べた方が正確でしょう。ただ作者が誰であろうと、明らかにこれはその人の若い日の詩ではないと思います。察するに、長い人生を歩んだ人の晩年の作ではないでしょうか。そこに「老いの輝き」を見るような気がするからです。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」・・・人は長く生きていれば、「欠け」を経験することはいくらでもあるはずです。事実、何かが欠け、何かを失い、奪われて行く・・・ある意味で、一つ一つを失いながら生きて行くのが、私たちの生涯の実感ではないでしょうか。ただし、この人はそうは言いません。むしろ、今、与えられている主の「恵みと慈しみ」に、どこまでも思いを注ぐのです。
彼は「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない」と告白します。ここまでの歩みの中で、幾度も「死の陰の谷」を行く経験を実際にして来たのでしょう。しかし「恐れない」と言い切る。それは「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う」からです。
神さまの「恵みと慈しみ」が追いかけて来る・・・「恵みと慈しみ」は、私たちが必死になって「与えてください」とすがって得る類のものではないのです。それは既に、私たちを追いかけて来ているのです。この私たちを支え、励まし、私たちを押し上げ、御国へと大きく前進させるために・・・です。そのように「慈しみと恵み」が力強く私を後押してくれる。実にありがたいことです。
だから人生の「死の陰の谷」にあっても、病の淵にあっても、死の床にあっても失望してはなりません。常に「憩いのみぎわ」に思いを馳せ、主に委ねましょう。
今、私たちもこの詩を書いた人と同じ恵み、同じ慈しみ、同じ導きを頂いているのですから。だからどこまでも頑張って、歩み続けましょう。そして雄々しく「主の家」へと凱旋しようではありませんか。
☆5月4日説教「主に従う」要約:
「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた」(ヨハネ福音書21:19)
人にとって「どのように生きるか」と同様「どのように死ぬのか」も大切だろう。主がペトロに述べた御言葉によれば、私たちがたとえどのような老いを迎え、どのような死に方で人生を終えたとしても、そこにおいてなおキリストの愛に支えられ、死の彼方まで導かれるというのである。感謝なことだ。