2013年 04月 11日
生命の風
風といえば、大正ロマンの画家で詩人の竹久夢二が、こんな童謡をのこしていました。「風は草木の先生か 風が通れば草も木も みんなおじぎを いたします 風はダンスの先生か 風が踊ればエプロンも 坊やのシャツも 踊りだす 風はどこからどこへゆく 風は山から野へ里へ はてのしれない 海原へ」(『風』竹久夢二)。 本当に、風は桜の木々を、春の草花を躍らせ、季節の自然を導く先生なのかもしれません。そこに目にはみえない大きな力を覚えます。
ところで、聖書の人々が述べる「風」の原語には、「息」そして「霊」の意味も同時にあります(旧約聖書のヘブライ語は「ルーアッハ」、新約聖書のギリシア語は「プネウマ」)。興味深いことです。言葉を換えれば、私たちは「風」を感じることで、「神の息とは何か」、「聖霊とは何か」を感じられるのではないでしょうか・・・。 「聖霊」、それはつまり、私たちの内面の奥深くまで浸透している「いのちの息吹」、私たちの心の内にそよぐ「生命の風」と述べてよいでしょう。この「神さまの風」が、「息吹」が、私たちを今ここに生かし、元気づけ、勇気づけ、立ち上がらせてくれるのです。
キリストの復活顕現に直面した最初の弟子たちも、この「風」の力を頂きました。ヨハネ福音書は記します。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』。そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。『聖霊を受けなさい・・・』」(ヨハネ20:21-22)。そして彼らは、「復活の事実」を身を挺して証し続けたのです。
本来教会とは、真にこの「風」、この「息吹」、この「聖霊」の力に満ちあふれるところであり、その力に生かされた者たちが集められる、生ける「復活の主」の体なのです。 春風に吹かれながら感謝します。そのような教会に集え、復活信仰に与っている有難さを・・・。
☆4月14日説教「エデンの物語」要約:
「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」
(ガラテヤ信徒へ手紙1:4)
主イエスが、私たちの罪のために十字架に掛られたのは、単に私たちを罪責感から解放するためだけではない。不安や恐れから導き出すためだけではないのです。それは、私たちを「この悪の世」から救い出すため、すなわち、私たちがこの世界を神の世界として、生きるようにするためなのです。