2013年 02月 09日
羊...
ルカが語る「見失った羊」の譬えです。羊が私たち、羊飼いがキリストに喩えられています。また聖書には、キリストご自身を象徴的に「小羊」と呼ぶ箇所もあります(ヨハネ1:29他)。そのように「羊」は聖書全体を通して何度も登場します。聖書の世界の人々にとって、実に身近な動物だったのですね。私たちは、その「羊」を、どのように理解しているでしょうか。
もっとも、私たちが羊をみるのは普通は動物園ぐらいでしょうか。イラストに登場する羊は大抵、かわいらしく、ふわふわした感じに描かれますが・・・それ以上の事はよく知らない。羊とヤギの違いも、あいまいです(両方とも鳴き声は「メー」なのかな?・・・)。日本に暮らす私たちにとって羊は縁遠い動物なのです。ちなみに欧米の人たちは、詩や歌(たとえば、「メリーさんの羊」Mary had a little lamb)などから分かるように、素直で従順で弱々しい動物のイメージをもつようです。
但し実際に羊を飼っている方の話によると、その特性はむしろ頑固でわがままなところにあると言います。力も決して弱くなく、てこでも動かず、言う事は聞かず、飼いならすのに案外手間のかかる動物なのだそうです。羊を人間にたとえた場合、この現実の羊の姿は、ぴったり来ます。確かに私たちは、得手勝手な自己中心的なところがあり、それで時に道に迷う。だからたえず羊飼いを心配させ、苦労をかけているのです。けれどもそんな私たちを憐れみ、その救いのために、神は「羊飼い」である「世の罪を取り除く神の子羊」として御子を遣わされたのです。「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かっていた。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わされた」(イザヤ書53:6)。それこそがイエス・キリストの十字架の出来事なのです。なんとも畏れ多いことです。
☆2月10日説教「嵐の中で」要約:
「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』」(マルコ福音書4:39-40)
主イエスは、弟子たちが本気で「信じること」を願っておられました。それは「凪ぎ」になったゆえに信じるのではなく、「凪ぎ」になる前から、しっかりと信仰に立つことを求めておられたのです。言い換えれば、弟子にとって本当に大事なことは、嵐から救出されること以上に、嵐の中にあってもなお主を信じる者とさせて頂くことなのです。心したく願います。