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いつも神在月

秋、十月。伝説によるとこの月は、日本中の神々が出雲の国(島根県)に出向き、会議を行う由。そこで人々の結婚や職業選択の「縁結び」などが話し合われるとのことである。そのため各地の神々は、不在となるので、暦は「神無月(かんなづき)」と称される。一方、出雲地方だけは神々が集合しているので、特別に「神在月(かみありづき)」と言われるそうだ。何ともおおらかな話ではないか。 その「神の月」の夜長に、私は「神の存在証明」を読んでいる・・・すなわち、11世紀の神学者アンセルムスの「神の存在論的論証」について調べているのである。古来、キリスト教文化圏においては、理性を根拠に神の存在を論理的に示そうと色々と試みられてきた。その代表格がこのアンセルムスの論証と述べてよいだろう。しかも、この影響力は未だに根強く、今日の神学や宗教哲学の世界のみならず、不完全性定理を発見した現代数学者ゲーデルにまで及んでいる。ちなみにその論証の内容は、「神」を「それ以上大きなものが考えられないもの」と定義し、結論は「神は事実において存在しなければならない」とする。その結論へと導くために何項目かの仮定とその仮定を否定する背理が列挙される。これを読み解いて行くのは、かなり難儀である。「よくもここまでやるなあ・・・」と思いもするが、何事も証明しないと気がすまないところが西洋の伝統だろうか。ただ私たちは特に論証せずとも、「見よ、わたしはあなたと共にいる」(創世記28:15)、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という神さま、イエスさまの御声を、信仰によっていつも心の内に響かせているのではないだろうか。そうだ!私たちにとってはこの月は勿論、一年中が「神在月」なのである。感謝


☆10月7日説教「恐れるな」要約:
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(マタイによる福音書5:13、14)
私たちは目に見えるものによらず、信仰によって人生を歩むことを許されています。だから、この世の言葉に一喜一憂するのではなく、この世の覆いの向こう側を語って下さる主の御言葉によって生きるのです。その時、「恐れ」は必要のないものとなります。
by aslan-simba | 2012-10-05 07:38 | Comments(0)

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