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信仰と祈り

「ゆきなれた路の なつかしくて耐えられぬように わたしの祈りのみちをつくりたい」。八木重吉の詩。妻子を残し、29歳という若さで夭逝した詩人の信仰を支えたのは、祈りだった。信仰者は祈りに生きるのである。<信仰>とは、すなわち<祈り>。祈りは、信仰生活の呼吸のようなものと言えよう。祈りをもって、私たちは神と語り合えるのである。従って、祈ることを許され、祈れるということは、私たちにとって計りがたいほどの大いなる恵みであり、大いなる特権ではないだろうか。 主イエス・キリストも、公生涯の歩みのなかで、本当によく祈られた。新約聖書には、主が朝早く起き、一人で寂しい所へ出向き、祈られた記事が記されている。また、忙しい一日を終えた夕べにも祈られた。十二弟子を選ぶ際には、徹夜で祈られている。受難を前にしても熱い祈りが捧げられた。十字架の上においても、私たちを執り成すための祈りをなして下さったのである。私たちは、この主イエスに従い、今を歩む者である。ならば、もっと祈ってよいはずである。とくに苦しみの時、悲しみの時、困難を抱えた時には、神さまに思いのたけを訴えようではないか。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:6―7)。 そして、その祈りに加え、「あなたの御心が行われますように」と願いたい。神が私たちの思い以上の最善を、この身になして下さることを心から信じて・・・「あなたは善なる方、すべてを善とする方。あなたの掟を教えてください」(詩119:68)。


☆7月8日説教「信なき信」要約:
「イエスは言われた。『できればというのか。信じる者には何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助け下さい』」(マルコによる福音書9:23―24)
ひとりの父親が、汚れた霊に取りつかれた我が子を「救って欲しい」と、主イエスに懇願する。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と・・・彼はここで、一切を委ねて、主にすがりついたのである。実に見事な「信仰」ではないだろうか。主イエスはすぐに、癒しの御手を差し伸べられた。このように、主イエスを心底受け容れる時には、自分と家族の上に、大いなる救いが必ず訪れるのである。
by aslan-simba | 2012-07-05 21:01 | Comments(0)

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