2011年 05月 13日
黙想・・・詩編46
しかし、この光の季節の到来とは裏腹に、今なお重い現実と不安がこの国に、私たち一人一人の日々の生活の中に存在する。ただ、負けてはならない。現在がいかに厳しくとも、確かな「助け」がすぐそこに来ているからである。
「神はわれらの避け所、また力なり、なやめる時のいと近き助けなり。さればたとい地はかわり、山は海のもなかに移るとも、我らは恐れじ」(詩篇46:1-2 文語訳)
何と力強い言葉だろうか。大きな励ましがある。この「避けどころ」とは、原語では「庇護者」や「要塞」をも意味する。すなわち「神」が、私たちの庇護者なのである。よって、いかなる困難や災害にも私たちは鉄壁の要塞に守られているのである。このことをしっかりと心に刻んでおこう。 かつて宗教改革者マルティン・ルターはこの詩をもとに、「神はわがやぐら・・・わが命も わがたからも とらばとりね 神のくには なお我にあり」(ルター作。讃美歌267)と歌い上げた。私たちの人生のさまざまな試練は、神が必ずよきものと変えて下さる。だから、心の底からこの事を信じ、恐れることなく前に進もうではないか。 なお詩46編は次の言葉でとじられる。「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」(詩編46:12 新共同訳)と。感謝
☆5月15日説教「命のパン」要約:
主イエス・キリストは人として、この世に来てくださった。それは私たち一人一人と連帯し、共に歩んで下さるためでした。さらに、主イエスは私たちの罪の責任を十字架で取られました。つまり、私たちの死ぬべき運命を、ご自身のものとして引き受けて下さったのです。その上で、死に打ち勝ち、三日目に甦り、この復活の命の交わりへと、私たちを召されるのです。主イエスが、「わたしは命のパンである」(ヨハネ福音書6:48)と言うのは、この復活を、私たちが本気で受け容れるようにという招きです。この御言葉を心に刻み、主イエス・キリストと交わり、その命と力と愛に触れる時に、私たちは、何者にも断ち切られることのない、「永遠の命」のうちを生きることが可能になるのです。感謝