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喜べ!

  春雨に草木の芽も膨らみ、桜前線の便りが楽しみな今日この頃です。ふと松尾芭蕉の句「さまざまな こと思ひ出す 桜かな」という俳句が浮かびます。桜の季節が近いからでしょう。


  美しい桜の花・・・二分咲きであれ、五分咲きであれ、また満開であれ、散り際であれ、桜をながめていると、あたかも私たちの人生の歩みを映し出しているように思われます。


  いみじくも年度替わり、受難節と復活祭が交差するこの時期、黙想していると、この教会を始めた26年前の最初のイースターを思い出しました。長かったような、また過ぎれば短かったような・・・。


  教会創立当初、色々とアドヴァイスを下さった方に、M先生がいらっしゃいました。当時その先生の教会を幾度かお尋ねして、祈りを共にしていましたが、その後、M先生は牧会現場から離れられ、ここ十数年疎遠になっておりました。時々、先生のことを思い出していたのですが・・・。先週たまたまM先生は、昨年12月に召天されたことを知りました。先生の「有難うございます・・・神様」という祈りの言葉は、今もこの耳に響きます・・・。


  また、こんなこともありました。30年ほど前まで、私は大阪で牧会をしていましたが、その頃、所属していた教区の委員会でご一緒した先生のことをふと思い出し、どうされているかを調べると、昨年のイースター礼拝後に亡くなっていたことを知りました。先生は私と同い年ということもあって、委員会でも忌憚なく意見を交わし、色々と議論もしました。私が京都に移るその年の3月、月例委員会の後に先生と喫茶店で語り合い、最後に先生は、私の新たな出発の上に祝福を祈ってくれました。


  今回ネットで先生が牧会していた教会のホームページを検索し、全身を癌に侵されていた先生の決別説教となる、昨年のイースター説教の原稿を読みました。実に力強い説教でした。最後は「復活の主イエス・キリストが向こうから声をかけられます。喜べ!」と閉じられていました。


  いつの日か、召された人々との天上での再会があるでしょう。私たちは復活の主が共にあって、この世の滅びゆく命と共に、永遠に救われて行く命を生きているのですから。



331日復活祭礼拝「新たな始まり」要約:

恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに伝えなさい。わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタイ福音書28:10

  十字架のイエスを見捨てて逃げた弟子たちは、復活の主にまみえ、神の恵みによって立ち上がります。弟子たちが体験した復活の福音は、今、私たちにも伝えられています。私たちもまた神によって、新しく歩み出しましょう。 

  イースター おめでとうございます!



+++331日(日)が復活祭です+++ 桃山栄光教会の礼拝は1030~ お越し下さい!


# by aslan-simba | 2024-03-25 11:06 | Comments(0)

十字架という楔

  春のお彼岸の時期。お墓参りに出向く方も多いでしょう。亡くなった方々を憶え、供養することは大切だろうと思います。妻は、暮れに亡くなった母親の事後手続を、今も行っています。懐かしんでいる暇はありません。 義母は「笑顔と感謝の祈りの人」でした。苦労や困難も多かった人生と伺いますが・・・。私自身、葬儀を司式でき、本当に有難かったと思っております。


  さて教会暦では、24日(日)が主イエスのエルサレム入城を記念する「棕櫚の主日」です。今年のレントもクライマックスの受難週・聖週へと入ります。 弟子たちを引き連れ、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」(ルカ13:33)と言われ、エルサレムへと向かわれたのです・・・。


  「人の生涯の真の意味は、その終わりの時に明らかになる」と聞いたことがあります。 新約聖書の四福音書はそれぞれに力を込め、主の十字架への道行きを記します。その記述により、主の十字架は、私たちの罪を赦すためだったと理解したのです。公生涯の全てがその一点に集約されるのです。


  以前、「十字架とは信じる者に打ち込まれた『楔(くさび)』である」と、ある先生が述べていたことを思い出します。ちなみに「楔」には、「物を割る」「違ったものを繋ぎ止める」という二つの正反対の役割があります。そこから理解すれば、主の十字架という楔は、人の罪を砕き、神と人をしっかりと繋ぐために立てられたものになります。


  さらに、主の御業は続きます。私たちの死が人間存在の終わりではなく、神の御許における永遠の命に移されることをも伝えるのです。主イエスはご自身の復活をもって示されたのです。十字架という楔で、私たちを御国の復活へと繋ぎ止めて頂けるのだ、と受け止めます。


  信仰の詩人・八木重吉はこう詠っていました。「十字架は悔いへのくさびである 罪深くして悔いを完とうし得ぬ者への恵みである  何人でも仰ぎさえすれば救わるるという約束である キリストを見し者が信じたる福音である」と・・・。 悔いる私たちを赦して下さる。何と有難いことでしょう。この赦しによって、私たちは再び立ち上がって行けるのです。 感謝



324日棕櫚の主日(受難節第六主日)「十字架の主」説教:

「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(マタイ福音書2750

 それはヨハネ福音書1930節ではこの最後の叫びを「成し遂げられた」と記しています。救い主イエスの成すべきこと、全てが成し遂げられたのです。人間の罪が赦され、神に近づく永遠の道が、ここに開かれたのです。感謝


+++3月31日(日)が復活祭です+++ 桃山栄光教会の礼拝は10:30~ お越し下さい!



# by aslan-simba | 2024-03-18 10:28 | Comments(0)

  3月も早半ば、三寒四温を繰り返す今日この頃です。いかがお過ごしですか。花粉も飛び交い、体調も崩しがちなこの季節、健康には十分留意したいものです。


  さて46日間にわたるレントも後半にはいりました。この時期になると決まって思い起こす好きな讃美歌は、142番。 「さかえの主イエスの 十字架を仰げば 世の富誉れは ちりにぞ等しき・・・」(1節)。 英国讃美歌の父ともいわれるアイザック・ワッツ牧師の作詞。この讃美歌を口ずさむと、心引き締まります。移り変わる歴史の只中そびえ立つ十字架を見上げる。そこに御苦しみに耐えて、私のために命を捨てられた神の御子がおられる・・・。


  前世紀の著名な神学者カール・バルトの書斎には、16世紀のグリューネヴァルトの絵「キリストの磔刑」が掲げられていました。そこに描かれる十字架の主は、やせ衰え、傷だらけ。その体からは、血と膿が流れ出ている極めてリアリスティックな絵画です。まさに旧約の預言者が示した「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった・・・彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれた」(イザヤ書53:45参照)を視覚化するように・・・。バルトはこの絵を見るたび、キリストの差し出された命によって、生かされていることを深く心に刻んでいたそうです。


  ただ主の十字架の場面のみ想像すると、目を背けたくなるほど心痛みます。しかしカトリック教会や聖公会は、レントの折り返し点となる受難節第四主日をリフレッシュメント・サンデー(気分一新の主日)と位置づけ「喜びの主日」(Rejoice Sunday)、「バラ色の主日」(Rose Sunday)としています。それは私たちに、十字架の向こうには復活の喜びが見えることを思い起させるためです。


  カトリック教会のミサ典書はこの日「神の民よ喜べ、神を愛する 全ての者よ、共に集え。悲しみに沈んでいた者よ、喜べ。神は豊かな慰めで あなたがたを満たして下さる」と読まれる由。また讃美歌142番の3節は「恵みと悲しみ ひとつにとけあい 茨はまばゆき 冠りと輝く」と。


  レントの日々も笑顔を忘れずに希望をもってゆきましょう。Keep smiling!



317日礼拝「主の思い」要約:

「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(ヨハネ127)。

 ナルドの香油」の出来事、そのとき主イエスは、ご自分の死について考えておられました。私たちは十字架の道へと向かわれる主の思いを、どれほど分かっているでしょうか。レントは主の思いに心を寄せる時です。


# by aslan-simba | 2024-03-11 15:38 | Comments(0)

どこかで春が生まれてる

  「どこかで春が生まれてる どこかで水が流れ出す・・・山の3月 そよ風吹いて」。私の好きな歌です・・・。弥生3月、「ひな祭り」は過ぎましたが、まだ寒さは残ります。それでも日差しは明るくなり、春の訪れを感じる今日この頃。


  暦を見ていて気付いたのですが、5日は「啓蟄」。春の陽気を感じ、冬ごもりしていた虫たちも目覚め、うららかな春の日差しの下に動きだす頃です。 ただ教会暦では、レントの時が続きます。また生活の上では、年度末に向けて、忙しい方々も多いと思います。


  さて今朝はルカ福音書の223134節、最後の晩餐の席上で、主イエスがペトロに語られた御言葉を読みながら思いめぐらしました。 「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と語られたキリスト。十字架を目前に、離反して行くペトロを知りつつも、なお、彼のために祈られ、励まされる主の御姿に心動かされます。


  ペトロのように裏切りかねない私たちをも赦し、励まし、十字架に架かって下さったキリスト。その主が、どこまでも共にいて下さることをあらためて思います。 人生の嵐、現実の困難に右往左往し、不安と恐れに足がすくむような私たちにも、主イエスは絶えず「恐れるな。私はあなたと共にいる」(イザヤ書4110参照)と言われます。


  自分自身の今までの拙い経験ですが、先が見えない状況に陥り、不安や焦りを覚えたことがあります。が、そんなとき、すがるような思いで神に祈り、キリストが共にいて下さると気付くと、段々心が強められてきました。「孤独ではないのだ。私の傍らで、私を見て下さっている方がいるのだ」と感謝の思いが湧き出てきたのです。


  こんな賛美の歌を思い起こします。「人生の海の嵐に もまれ来しこの身も 不思議なる神の手により 命拾いしぬ いと静けき港に着き われは今 安ろう 救い主イエスの手にある 身はいとも安し」(聖歌472)。 


 人生の嵐の日にも、凍えるような日にも、主と共にあって、祈りつつ委ねて歩んで行きましょう。「復活の春」はもうすぐです。


PS 蛇足ながら今年の復活祭(イースター)は年度末の331日(日)です。



310日説教「主は仕えるために」要約:

「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が・・・イエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした・・・イエスが『何が望みか』と言われると・・・」(マタイ202021

  私たちも今、この母親と同様に主の御前に「ひれ伏し」、礼拝を捧げています。主は私たちにも問います。「何が望みか」と。主の御前で、私たちは願いを誠実に述べることができるのです。


# by aslan-simba | 2024-03-04 11:18 | Comments(0)

梅の姿に・・・

  閏年の2月も終わりが近づいています。毎年五つ六つほどしか蕾をつけなかった我が家の梅が、今年は数多くの蕾をつけ、今満開を迎えています。 たまたま新聞で225日は菅原道真の命日と知りました。「東風(こち)吹かば、匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」・・・。


  なお梅の時期といえば例年のことですが、新島襄の「寒梅」の漢詩に思いを馳せます。「庭上の一寒梅  笑って風雪を 侵して開く 不争(あらそ)わず又(また)力(つと)めず 自ら占む 百花の魁」。困難を乗り越え成長して花開く梅・・・。 生きた時代は違いますが、学業成就の「天神様」と同志社創立者が愛した梅の花を、現在の私たちも愛でることができるのは有難いことです。


  ところで先日図書館で、気分転換に児童書を見ていると、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』が目に入りました。主人公が現実の世界とファンタジーの世界を行き来するお話です・・・。この物語を知ったのは、子供が小さかった頃でした。ページを括りながら、あの頃の思い出も蘇ります。


  主人公の少年は、怖がりで小太りで、勉強もできなければ運動もできず、学校にも居場所がなく、自分に自信のもてない「いじめられっ子」。彼はファンタジーの世界に入り込むことで、さまざまな経験や失敗を積み重ねます。そこから学び、成長をして行くのです。


  「艱難汝を玉にす」と言いますが、その後、現実世界に戻った彼は、それまでの後ろ向きの思考から、前向きに考えられる少年に変わっていたのです。この物語についてエンデは「大切なのは、主人公の心の成長のプロセスだ」とある本で述べていました。


  聖書の初めに「神はご自分の似姿として人をつくられた」(創世記127)とあります。私たちは神さまに造られた神さまの子どもですが、世にある様々な問題に直面したとき、それをどのように受け止め、どのように乗り越えるかが、心の成長に大きく関わって行くと思います。私たちは、信仰をもって人生の風雪に耐え、御国の春へ向かって、雄々しく歩みに続ける者でありたいものです。


  「庭先に見る一本の早咲きの梅、風雪にめげることなく、微笑みをたたえて花開く。誰かと競い争ったのではない、力んで無理をするのでもない、自然なさまで、あらゆる花々の先駆けとなっている」(新島襄、漢詩「寒梅」の意訳)。


  なお33日の桃の節句も楽しみですね。



33日説教「山上の変貌」要約:

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ福音書172

  「山上の変貌」は、主イエスが「神の御子」であることの啓示です。 なお私たちも神の子供として、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて行く」(コリント二318)と、御国における救いの完成が約束されています。感謝
# by aslan-simba | 2024-02-26 15:24 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29  京阪桃山南口より徒歩8分、ほっこりした教会   天に在る牧師の愛犬たちです。

by aslan-simba