山と信仰

  7月の歳時記を見ていて、富士山の「山開き」が1日と10日であることを知りました。登山口のルートによって異なるようです。人々が混雑を避け、安全に登山できるようにとの配慮でしょう。

 我が国の最高峰は、信仰の山としても知られ、「霊峰富士」とも称されるパワースポットです。私も一度は登ってみたいと思っているのですが、今日まで果たせていません。ただ子供の頃、東京、千駄ヶ谷の神社にある富士山を模した「富士塚」には、面白がって何度も登りました。5~6メートルの高さです。聞くところ、富士登山と同様の御利益があるのだとか。ありがたいことです。知らず知らずに参拝していました。その富士塚は寛政元年(1789)の築造で、現在、都の民俗有形文化財に指定されている由、最近知りました。由緒ある場所だったのですね。

 さて富士山に限らず、日本の多くの山は古来、神々が降臨してとどまる所、あるいはご先祖様が鎮まる所として信仰の対象とされて来ました。わけても霊山と呼ばれる山々では、修行者か徳の高い僧侶以外の入山は認められませんでした。

 それでも江戸時代中期になり、参拝登山を願う一般人も、期間を定めて山に登ることが許されるようになりました。山開きの儀式は、その頃から登山開始を祝い、安全を祈願するため始まったとのことです。 ところで、興味深いのは聖書の世界の信仰も、「山」が神に近い場として描かれている点です。たとえばモーセが神さまの顕現に接したのも、十戒を頂いたのも「山」。山は神の栄光があらわれる場なのです。新約聖書においては、イエスさまは山で祈られます。また有名な説教は、山で語られました(山上の垂訓=説教、マタイ5~7章)。「山と信仰」・・・。

 今、季節は「山滴る」とき、緑豊かな山を見上げ、過ごせたらと思います。山の彼方の空遠くの御国に思いを馳せながら・・・。「山のあなたの空遠く 『幸』住むと人のいう。 ああ、われひとと尋めゆきて 涙さしぐみかえりきぬ。 山のあなたになお遠く 『幸』住むと人のいう」(カールブッセ)。

 そして遠くにあるようで、実は今、ここに共にてくださり、支え、助け、導いてくださるを神さまに感謝。「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや わがたすけは天地をつくりたまへる主よりきたる」(詩121編より)。


☆7月9日説教「生きる」要約:
「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(ヨハネ福音書4:50)
 奇跡は起こります。主を真摯に見上げつつ、その御言葉に信頼して生きるときに、奇跡は賜物として必ず与えられるのです。
 


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# by aslan-simba | 2017-07-04 20:53 | Comments(0)

 ここしばらく所用が重なり、毎日バタバタと過ごしていましたが、気づけば、もう七月に・・・。早いもので、今年も半年が過ぎたことになります。こうして年を取って行くのでしょうか・・・。

 ここまでの歩みを振り返りながら、あらためて人生というものが、過去・現在・未来の時の流れのなかに与えられていることを実感します。本来、これは感謝すべきことなのでしょう。「日々新たなり」という思いをもって、謙虚に毎日を歩みたいものですが、一筋縄に運ばないのが私たちの人生行路・・・。時に、過去に引きずられて、未来に不安を抱き、現在を生きる力が萎えてしまうようなこともあります。

 ただ私の場合、そんな時に決まって脳裏を走るのが
Carpe diem(カルペ・ディエム)、「今を生きよ」というラテン語です。この言葉を知ったのは、むかし見たアメリカ映画においてでした。舞台は東部の私立の名門男子校で、主人公の先生が、生徒に対し口にした言葉です。「過去は過ぎ去り、未来はまだ来ない。今を生きよCarpe diem」、「君たち、今を生きよ(Carpe diem、素晴らしい人生をつかむのだ」と。この言葉が、規則ずくめの学校で委縮する生徒たちに大きな勇気を与えたのです(古き良き時代のアメリカには、実際にそんな学校もあったのでしょう)。

 ところで
法句経にもこんな言葉があります。「過去は追ってはならない。未来は待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを強く生きよ」。肝要なことは、「今」に力を注ぐべきなのです。過去を悔やんでも始まりません。未来におびえても何も生まれません。神さまから頂いた「今、現在、今日」の命を心からの感謝をもって受けとめ、歩みたいものです。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ828)。だから
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントⅡ62参照)なのです。神は言われます。「私を求めよ、そして生きよ」(アモス54)と。Carpe diem


☆7月2日説教「命の水」要約:

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ福音書4:14)

人間の根源的な渇きを癒す。人はその泉を自らの内に持つことができ、そこに永遠の命に至る水が湧き出るのである。



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# by aslan-simba | 2017-06-27 23:57 | Comments(0)

 6月も残すところあとわずか、今年の半分が終わろうとしています。「光陰矢の如し」ですね。

 ところで624日が、洗礼者ヨハネの誕生記念日とされていることはご存知でしょうか。正教会、カトリック教会をはじめ、プロテスタントでもルター派教会や聖公会など古い教会暦に従う諸教会は、この日をそのように位置付けてお祝いします。祭司ザカリヤと妻エリサベトの子として生まれ、主イエス・キリストの先駆け者とされる洗礼者ヨハネは、誕生日もクリスマスより半年早くさきがけていたことになります。

 なおその624日、古来ヨーロッパにおいては“MidsummerDay(夏至)”の祭日でした。一方、イエスの降誕を祝うクリスマスの日(1225日)は元々、冬至明けのお祭りでした。 夏至と冬至という季節の区切りが、両者の誕生日とされたのです。ある人は言います。「夏至のヨハネの誕生日を境に日は短くなり、冬至直後のキリスト降誕日を境に日が長くなる」、そこに洗礼者ヨハネの語った「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」が映し出されている、と(八木谷涼子『キリスト教歳時記』参照)。太陽の光に、世の光としてのキリストを捉えたのでしょう。

 ところで日本古来の伝統では、夏至と冬至の時期が大祓(おおはらえ)を行う時節にあたります。6月末日
「夏越の大祓」と大晦日の「年越の大祓」。そもそも「大祓」と、人が知らず知らずのうちに犯した諸々の罪や過ち、心身の穢れを祓い清めるためのものだと言われます。奇しくも悔い改めの洗礼を人々に授け、「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ38)と叫んだヨハネ。ヨハネが捕らえられた直後「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ417)との第一声をあげた主イエス、彼らの記念日が大祓の時期にあたるのです。聖書の呼びかけが、日本の伝統行事と見事に重なり合うようで興味深く思います。和菓子の水無月を味わいながら、悔い改めをなせる恵みにも感謝しましょう。

 「すべての人の救いを望まれる神よ、あなたは洗礼者ヨハネを送って 人々に救い主キリストを迎える準備をさせてくださいました。あなたの民を信仰の喜びで満たし、救いと平和の道に導いてください」(ジュネル神父『聖人略伝』624日祈り)。


625日説教「永遠の命」要約:

「御子を信じる人は永遠の命を得ている・・・」(ヨハネ福音書336

 「永遠の命を得ている」とは、「救いを得ている」、「永遠なる神との交わりを得ている」ということです。キリストによって神との関係が修復され、赦され、平安の内に今を生かされる・・・。「だから、わたしたちは喜びで満たされている」(ヨハネ329参照)のです。

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# by aslan-simba | 2017-06-19 20:57 | Comments(0)

紫陽花の季節に思う

 梅雨の時期を迎えました。この季節に心和ませてくれる花、それが紫陽花(あじさい)です。

 思えば紫陽花は、私の母の好きな花のひとつでした。実家の猫の額のような庭に、その花々が雨に濡れながら細やかな輝きを放っていた光景がよみがえります。奇しくも紫陽花の月、6月に母は亡くなりました。父はよく母のことを「辛抱強い人だ」と言っていましたが、紫陽花の花言葉の中にも「辛抱」があります。 

 ところで紫陽花、
もともとこの国に自生する日本固有の植物だそうです。万葉集にも「あじさい」が二首詠われています。その一つにこうありました。「あぢさいの 八重咲くごとく 八つ代()にを  いませ 我が背子(せこ) 見つつ偲(しの)はむ」橘諸兄(たちばなのもろえ)。大意は「あじさいが八重に美しく咲いているように、末永くお元気でご繁栄されますように。あじさいを見る度にあなたを覚え、お祈りしています」。心あたたまる歌です。遠い万葉の人々思いが紫陽花を通し、時空を超えて伝わってくるようです。

 江戸時代には、長崎出島の
オランダ商館医師、シーボルトがこの花を心底愛しました。長崎で運命の女性・お滝さんと出会ったシーボルトでしたが・・・。やがて国外追放の身となり、彼女との間は引き裂かれます。傷心のシーボルトは、紫陽花に愛するお滝さんの名前を取って「オタクサ」という学名を付し、ヨーロッパに紹介したのです(「長崎公式観光サイト」参照)。以来、西洋でも親しまれるようになった紫陽花は、様々な品種改良を経て、日本に西洋アジサイとして逆輸入されました。 そんな梅雨の花、紫陽花に思いを寄せると、雨の日が楽しみなって来ます。

 「
まるくまるく 形のよいものになろうとする やさしい心の あじさいの花  きのうよりもきょうと新しい色になろうとする 雨の日の あじさいの花」(「あじさい」坂村真民)・・・。

 私たちも紫陽花に倣って、「昨日より、今日、今日より明日へ」と辛抱強く、希望をもって、歩み続けたいものです。「野の花を見よ」と命じられた主イエスが「
神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」(マタイ630口語訳)と言われているのを心に刻みつつ・・・。


☆6月18日説教「信仰とは」要約:

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマの信徒への手紙⒑:17

 パウロの時代の宣教手段は、口頭での伝達が大きな位置を占めていました。ですから「聞く」という言葉が使われているのです。今は文字や映像によっても「聞く」ことのできる時代です。大切なのは、神の言葉を心で、聞き取ることです。信仰は、そこに根差します。



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# by aslan-simba | 2017-06-13 06:53 | Comments(0)

 太古の時代、人の祖先は、他の動物と同じように四本足だった。ところがある時、立ち上がり二足歩行となる。自由となった前足は両手となり、物を使うことを覚え、人は飛躍的な進歩遂げ、文明を形成して来た・・・と言われます

 今や、最先端科学技術の世紀を迎えています。私たちは現代という高度に発展した時代と、その文明世界の只中にあり、大変便利な時代を生きています。人間の偉大な英知がそこにあります。しかし同時に、明日への不安、生きることの虚しさ、徒労感を覚えています。実存作家カミュが、ギリシア神話に登場するシーシュポスの物語を引用し、人間の抱える不条理を描いたエッセイ(『シーシュポスの神話』新潮文庫)を思い起こします。

 自分の力を誇示し神々を侮蔑したため、罰を受けるシーシュポスという男・・・彼は大きな重い岩を、山のふもとから山上まで運び上げるよう、命ぜられるのです。汗をかきかき苦心惨憺して、やっと運び上げたその岩はしかし、無情にもそこから、転げ落ちて行ってしまう。再度、その岩を取りに行って再び運び上げると、また落ちて行く・・・その未来永劫の繰り返しこそが、彼に与えられた罰だったのです。

 今の時代を生きる人間も同様、空しい徒労の繰り返しの中を生きねばならない、とカミュは言います。
確かに、この世界、人の人生はそんな不条理の中にあるのかも知れません。

 そうであっても、この世界には、聖霊の風が吹いています。耳を澄ませば、「
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ1633)という主イエスの御声が心の内に響き渡ります。だから「私たちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(コリント二489)という気概をもって生きられるのです。

 いつの日かこの人生の歩みの上に、まったき救いの完成が訪れることを信じて、新たな一歩を踏み出そうではありませんか。 神は言われます。「新しい心と新しい霊を造り出せ。お前たちは立ち返って、生きよ」(エゼキエル(1832)と。



☆6月11日説教「完成を目指し」要約:

「・・・正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」(テモテへの手紙一6:1112

 私たちは「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を追い求めつつ、救いの完成を目指すマラソンの最中にあります。ひたすらキリストを見上げ、ゴールである御国へ向かって走り抜きましょう。
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# by aslan-simba | 2017-06-06 22:36 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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