人気ブログランキング | 話題のタグを見る

レントも復活の主と共に

  春の陽射しがようやく感じられ、梅の香りがただよう季節となりました。


  教会では受難節/四旬節(レント)の期間を迎えています。復活祭(イースター)までの46日間です。46日という半端な数なのは、その間に日曜日が6回入るからです。日曜日をカウントしなければ40日間。ゆえに「四旬節」とも言います(「旬」は10日間の意味)。


  この時期私たちは、救い主キリストがエルサレムに入城されてから、十字架に架かられて亡くなられるまでの受難の出来事を、思い起こし「祈り、断食、善行」を主体に「自粛生活」を過ごす期間とされてきました。


  教会では旧約のイザヤ書53章が読まれます。そこに旧約預言の最高峰というべき「主の僕の歌」が出てきます。神に選ばれた「主の僕」が人々の救いのために、人間の罪を一身に負い、責め苦を受けて死んで行く、という話です。その「傷ついた癒し人」(the wounded healer)である主の僕こそが、イエス・キリストの姿を指し示していると捉えられます。


 「血潮したたる主の御かしら とげに刺されし 主の御かしらなやみとはじに やつれし主を 我はかしこみ 君とあおぐ」(讃美歌136)。


 レントの時期には必ず歌われる讃美歌です。この歌はバッハ(1685-1750)の「マタイ受難曲」のコラールとして有名な曲ですが、元々は古くからドイツの民衆に愛されてきた讃美歌を、バッハが受難曲に取り入れられたものだそうです。それにしても毎年のことですが、心重くなる出来事に遭遇するのも、この時期何故か多く感じます。


  ただ、そこに一週に一度、喜びの主の日、日曜日が訪れ、復活の光が差し込んで来るのは恵みです。そこで私たちは復活されたキリストと共に、この受難節の時を過ごしているのだということを、あらためて思い起こし、意識することができます。この期間は単に「過去の人イエス」の御苦しみのみに思いを馳せる時ではありません。今も生きておられる復活の主イエスに向かい合い、その御前において神の恵みと、そして十字架の愛を心に深く刻む時なのです。雄々しく歩みましょう。復活の日が来ることを忘れずに。




225日説教「希望の信仰」要約:

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる」(イザヤ35:1-2

  私たちが今抱える「現実」を「荒野」として見続ける限り、「現実」は「荒野」のままに留まります。大切なことは、視点を主に向け、「主の栄光」を見ることなのです。その時、「荒野」は大きな「希望の地」となります。


# by aslan-simba | 2024-02-19 11:08 | Comments(0)

  「梅の小枝でウグイスが・・・」。先週初め、近所の里山を散策の折、ウグイスの初音を耳にしました。まだまだ幼い「ケキョ ケキョ」という「ぐぜり鳴き」。それでも春の近づきを身近に憶えます。


  昔から日本人にとってウグイスは「春告鳥」です。平安時代の『古今和歌集』に「春来ぬと人は言へども鶯の 鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ」(壬生忠岑)鶯の谷よりいづる声なくは 春来ることを 誰か知らまし」(大江千里)等々あるように。


  「初音」とは、ふつう「鶯が、その年の最初に鳴く音」を指します(『日本国語大辞典』)。源氏物語にも、明石の君が、遠くに離された娘を思って詠った和歌にも「初音」が登場します。「年月(としつき)を待つにひかれてふる人に 今日鴬の初音聞かせよ」と(23帖「初音」より)。


  なおウグイスの鳴き声を、具体的に「ホウ、ホケキョ」と表現するようになったのは、江戸時代のことだそうです。それも「法、法華経、法、法華経」とお経を読むように聞こえることから、そう言われるようになったのだとか。だからウグイスは「経読み鳥」などとも言われます。


  室町時代の人で浄土真宗中興の祖、蓮如上人は、ウグイスの声を「法(仏法)を聞けよ」と述べているように聞き、「鳥さえも仏法を聞けよ」と諭していると語られた由。私はそんな蓮如さんの話を「聖書を読め」「御言葉に聴け」と、自らに引き付けいましめにしています。


  ところで私は、ウグイスの鳴き声というと決まって思い出すのは、幼児の頃に父母が何度も読み聞かせてくれたアンデルセン童話の『王様とウグイス』です。

 

王宮の庭に住むウグイスの美しい歌声。王様は、そのウグイスを手元に飼うことができ、大喜びでした。が、ある時、外国の使節から、ゼンマイ仕掛けの『金のウグイス』が王様に贈られます。すると、そちらの方に夢中になってしまうのです。様に相手にされなくなった本物のウグイスは、そっと宮殿から飛び立って行きます。やがて金のウグイスの方は、ゼンマイが壊れてしまう。悪いことは続き、王様は重い病を患うのです。病床でウグイスの音色を思い、涙を流す王様。その時に窓辺に響いたのは・・・あの本物のウグイスの歌声。王様の病を心配して戻ってきてくれたのです。ウグイスの美しい歌声に励まされた王様は病の床から立ち上がれました。めでたし、めでたし」。 大体こんな話でした。 


  さて今朝もウグイスの鳴き声を耳にしました。それは「ホウ、ホケキョ」に近い歌声でした。教会の暦では、これからレント(受難節。四旬節)に入りますが、年度末のイースター(復活祭)の頃には美しい「ホウ、ホケキョ」が聴けますように・・・。



218日説教「荒野の誘惑」要約;

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と・・・」(マタイ福音書44)

 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい・・・」と出エジプトの民に語られた旧約の神の言葉(申命記8)を主イエスは引用し、御言葉に聴く生活の大切さを示されます。心したく思います


# by aslan-simba | 2024-02-12 18:50 | Comments(0)

春に向って

  立春を迎えました。まだまだ寒い日々は続くでしょうが、徐々に日照時間も長くなり、至るところで春の気配が感じられるようになるでしょう。楽しみです。一昨日、近隣のお寺の節分法要に行った折、境内の紅梅がほころんでいるのを目にしました。


  思うに、私たちの人生には心凍てつくような、辛い経験もあると思いますが、やがてそこにも梅が咲くように、明るい春が到来することを、心から信じたく願います。


  4日の礼拝で取り上げた聖書箇所に「いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じる・・・」とありました(ヤコブ123)。聖書のいう「試練」とは、神が愛する者を人格的に鍛え、私たちの内的成長を促す「忍耐」の時なのです。この「忍耐」の原語「ヒュポモネ」は「下に留まる」。つまり「信仰の下に留まり」、神さまと離れないことが忍耐なのです。だから試練は、神さまと真摯に向い合う時でもあります。


  パウロの手紙に、「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(コリント一10:13口語訳)と記されます・・・。だから今の試練も恐れることはないと励まされます。


  ふと「願わくば、われに七難八苦をあたえ給え」と心から祈った、戦国武将・山中鹿之助の話を思い出します。彼は、お家再興のために活躍した尼子十勇士の筆頭でした。実は中学三年の時、クラス担任は尼子氏末裔の尼子先生。鹿之助の言葉、先生から何度か伺いました・・・。半世紀以上も前のこと。あの頃は「またかよ」という思いで聞いていました。が、今はこの言葉が心に染みます。


  人は皆、自分の弱さを背負いながら、苦しみや悲しみを乗り越え、そして試練を経ながら成長しているのです。人間は無駄に歳をとることはありません。ゆっくりと、しかし確実に御国に向って成長の道を歩んでいるのです。 


  「主によりて 強く雄々しく 悩みにも 勝たしめたまえ。ひたすらに 主を呼びまつる 我が声に 応えたまえ 我が主よ」(讃美歌398 4番)。作詞者は闘病生活を続けた信仰の詩人、葛葉国子さんによるもの。好きな日本の讃美歌です。



211日説教「恵みの御座へ」要約:

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ416

人生、如何に困難なことが続こうとも、それで終わるのではありません。憐れみの神、恵みの神が、「全き救い」の計画を進めて下さっているのです。それを信じて「恵みの御座」へと歩みを確かにしたいものです。 


# by aslan-simba | 2024-02-05 09:29 | Comments(0)

鬼は内、福は内

   「鬼は外、福は内」・・・23日は「節分」。本来節分とは、暦の上での季節の節目のことで、「立春、立夏、立秋、立冬の前日」にあたり、一年に四回ある勘定です。が、厳しい冬を終え、新たな命の息吹く春を迎える2月の節分が、特にめでたい節分の代表格とされています。


  この日に邪気()を祓うという祭祀が、古くから日本各地で行われて来ました。鬼を追い出す豆まきばかりではなく、さらには鬼の嫌いな鰯(いわし)の頭を柊(ひいらぎ)に刺して玄関先に置くといった風習もあります。それは、一人ひとりの人間の内にある「恐ろしさ」を「鬼」と譬え具現化したのでしょうか。


  ところで以前、節分の時期に、このブログで『泣いた赤鬼』(浜田廣介作)『おにたのぼうし』(あまんきみこ作)について書いたことがありますいずれも追い出したくない優しい鬼の話で、泣けました2020127日参照)。


  他にも、ウェブで見つけた、「節分の鬼」という話があります(日本昔話データーベース)。大体、こんな内容です。

 

 「昔々、ある山里に妻と息子に先立たれた、一人暮らしの貧しい爺さんがいました。爺さんは亡くなった二人のお墓参りに行くことだけが楽しみ・・・。

 

  冬になり、村は深い雪が積もり、外出できません。しかし寂しさに耐えられない爺さんは、節分の日に意を決して、雪をかき分け墓参りに向いました。 道すがら、村のどの家からも『鬼は外、福は内』と楽しそうな家族の声が聞こえます。爺さんは寂しさがつのり、涙があふれました。 


  墓参りを済ませ、家に戻った爺さんは、息子が生前に作ってくれた鬼の面を取り出し、楽しかった昔を思い出しました。『もはや、妻も息子もいない。福の神から見放された・・・』。そう思いながら爺さんはその鬼の面を被り、わざと『鬼は内、福は外』と叫びながら、豆撒きを始めました。 


  すると、節分の豆に追われた鬼たちが次々と来てくれたのです。久しぶりの客人に、爺さんは大喜び。鬼たちは持参した甘酒やご馳走で宴会を始め、朝には、『来年も来るから』と上機嫌でお金を置いて帰って行きました。 


  やがて春になりました。鬼たちがくれたお金で、お墓を立派に作り直した爺さんは、墓前で『わしゃ、もう少し長生きするよ。来年も、鬼を呼ばんといけんから』と笑顔で語りました・・・」。 


  「来年の話をすると鬼が笑う」と言いますが、「笑う門には福来る」・・・笑いは免疫力も高めます。お爺さんに生きる希望を与えてくれた、こんな鬼さんたちも素敵です。「鬼は内、福は内」・・・



24日説教「試練と信仰」要約:

「いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブ12)

  試練は忍耐を生み、私たちを信仰者として成長させ、神の国への備えをさせてくれます(ローマ534参照)。試練を恐れず、価値あるものと捉え、信仰を支えに、歩み続けましょう。


# by aslan-simba | 2024-01-29 11:01 | Comments(0)

念ずること、祈ること

  大寒の時節、被災地は、寒さが一層厳しく、心身ともに堪えると思いますが、そんな中でも、互いに励まし合っておられる姿に、こちらも力を頂けます。


  毎年この時期になると決まって坂村真民の詩が口をつきます。「冬がきたら 冬だけのことを思おう 冬を遠ざけようとしたりしないで むしろすすんで 冬のたましいにふれ 冬のいのちにふれよう・・・冬はわたしの壷である 孤独なわたしに与えられた 魂の壷である」と。この仏教詩人の詩、これまでに幾度も記してきました。


 「冬が来たら」・・・厳しい寒さから逃げ出さずに、進んで冬と向き合う姿勢を与えてくれます。それは単に季節としての冬だけではなく、辛さや悲しみ、苦しみのなかにある日々、あるいは人生の冬に耐えることも教えてくれています。冬の「いのち」と「たましい」に前向きに触れよう。「艱難汝を玉にす」と・・・。


  正教会の聖人、七世紀の修道者、聖イサアク(Issac of Syria)は記します。「困難・災害があなたの上に臨んだとき、打ち沈んだり、これは神の道とは違うと考えてはならない。なぜならば神のこの小路は、すべての時代とすべての世代を通じて十字架と死によって生れてきたからである。・・・略・・・神の道は日々の十字架である。誰も安易な道を通って天に昇った人はいないのである・・・」。「聖書の中に隠されている神秘に、祈りなしに近づいてはならない。次のように祈るがよい。『主よ、絶えず御言葉のうちにある力を受けさせ給え』・・・」と。


  昼下がりの道を行けば、冬枯れの木々の中に良き香りを感じると、そこには蝋梅の花々が咲いていました


  真民さんの詩に「念ずれば花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになったそうしてそのたび わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった」があります。この詩は、真民さんが 46 歳の時、片方の目が見えなくなり、絶望の底にあった時に生まれた詩だそうです。


  「念ずれば花ひらく」・・・彼が幼少の時に、夫に先立たれた母が、苦しい生活の中で、自らを励ますために、お念仏を唱えるように、いつも言っていた言葉とのこと。坂村真民にとっての「念ずること」とは、私にとって「祈ること」なのです。



24日説教「天を思う」要約:

「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している」(ヨハネ福音書823

  「上のもの」すなわち天の御国に「属する」御子・主イエス・キリストは、私たちの救いのために、この世に下られた、とヨハネ福音書は告げます。この方を通して父なる神が私たちに語られ、父なる神が、私たちに働かれるのです。


# by aslan-simba | 2024-01-22 13:19 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29  京阪桃山南口より徒歩8分、ほっこりした教会   天に在る牧師の愛犬たちです。

by aslan-simba