2013年 09月 19日
彼岸花の季節
「曼珠沙華咲いて ここがわたしの寝るところ」 「彼岸花さくふるさとは お墓のあるばかり」 「いつまで生きる 曼珠沙華咲きだした」 「悔いるこころの 曼珠沙華燃ゆる」 「なかなか死ねない 彼岸花さく」・・・。
種田山頭火という人、山口県防府の裕福な地主の家に生まれる。幼い時に母が自殺したことが大きなトラウマとなった。長じて家業の破産、妻子を連れて九州へ逃れ、熊本で文具屋を開くが失敗。結果的には酒におぼれ、最後は家族を捨てて旅立った。収入はもっぱら自らの俳句の師匠や支援者をあてにし、時に自殺未遂も繰り返しながらの行乞流転の旅だった。
そんな山頭火は、彼岸花を好んでいたようだ。彼にとって、曼珠沙華の花が唯一の心の救いだったのだろうか。一見自由奔放に見える人物だが、己の身の拙さを病的なまでに嘆き苦しんでいたのである。ある人がその句について、こう記していた。「自分をとりまくすべてが滅びゆくとの強迫観念にさいなまれ、出口をもとめつづけた神経症者の吐露が彼の句だった」(『種田山頭火の死生』)と。
お彼岸の時期は、「この世の『迷いの世界』(此岸)から、『迷いのない安らかな世界』(彼岸)へと渡るために、自らの日頃の振る舞いを省みる時」と言われる。後悔と自責の思いの中を、迷い続けながら歩んだ山頭火の人生の旅・・・。
翻って、私たち自身の人生の旅はどうだろう。私たちは、その旅路の先に御国を望むことができることが有難い。今、世にあって「火の柱、雲の柱」に導かれながら歩んで行ける・・・。いみじくも山頭火の辞世は、「もりもりあがる雲へ歩む」だった。彼は人生の最後の最後にして、やっと希望の光が見えたのだろうか。そうであってほしい。
☆9月22日説教「心の目」要約:
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように・・・私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」」(エフェソの信徒への手紙二1:17―19参照)
どのような人生の時にあっても、私たちは神さまの壮大な御計画と、その御業の只中に置かれていることを忘れてはなりません。そこに尽きない希望があります。
2013年 09月 17日
台風一過
報道にもありましたように、今回は京都も大雨のため大変なことになりました。日本全体、まだまだ復旧までに時間のかかる地域も多いと思います。気がかりな場所もあります。心よりお祈り申し上げます。
幸い私共の教会一帯にはさしたる被害はございませんでした。皆さまのところはいかがでしたでしょうか。お見舞い申し上げます。
皆さまの上に、神さまのご加護を憶え、祈念致しております。
2013年 09月 10日
虫の音
急に秋の気配が漂うになった。あの連日続いた35度を過ぎる日々も、遠い過去のことのように思える。昼間さかんに鳴いていた蝉の音も低くなり、早朝と夕べに秋の虫たちの声が響く。
「あれ松虫が 鳴いているちんちろ ちんちろ ちんちろりん あれ鈴虫も 鳴き出したりんりん りんりん りいんりん 秋の夜長を 鳴き通すああおもしろい 虫のこえ」・・・我が家の鈴虫たちも、きれいな音を奏で心和ませてくれる。
季節の移ろいを知らせるこの虫の鳴き声、ある米国人は、「アメリカではただの騒音にすぎない」と言っていた。しかし、私たちがそれに風情を感じるのは、古来、日本人の生活が自然と共にあった証ではないだろうか。
ものの本によれば、平安時代の貴族たちは、虫を籠に飼ったり、あるいは野辺でその鳴き声を楽しんだそうである。清少納言は『枕草子』で、秋の風音と虫の声を「はたいふべきにあらず」(何ともいえず趣がある)と述べる。また、「すずむし、松虫、 きりぎりす、はたおり」の四種の鳴く虫を趣があると記す。
今のような灯りのない当時の夜は、漆黒の闇に包まれていただろう。その中で、短い命を燃やしながらしきりに鳴く虫の声を楽しみつつも、自分もまた、秋の虫と同じ、短くはかない命を生きていることを覚える人々も少なくはなかった。「秋深く なり行くままに虫の音の 聞けば夜ごとに 弱るなるかな」(隆源法師)・・・。そんな古人たちに思いを馳せる時に気づくのは、人々が末法の世をリアルに感じていたことである。「死」の影がたえず身近にあった・・・。
人々の心象模様は、千数百年後の現代も大差ないかも知れない。相変わらず初秋の夕べは物悲しい。我々も「諸行無常」の現実に悩む。
聖書も言う。私たちは世にあって「旅人であり、仮住まいの身」だ、と(ペトロ一2:11他参照)。だからこそ、私たちは大いなる方の恵みの御手に委ねて行くのである。安らぎの中に秋の虫の音を楽しめる今・・・何と有難いことだろうか。
☆9月15日説教「ヨセフ物語」要約:
創世記37章後半に見られるヨセフの沈黙。それは死の危機に直面しながら、静かに神に委ね、祈る人の姿と述べて良いでしょう。 新約聖書のパウロの手紙に記されていた言葉を思い起こします。「・・・死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(コリント二1:9参照)。「死の宣告」、そこに立つときに、人は、この世の地位でも、名誉でも、財産でもない、神だけにしか頼れないことに本当に気づかされるのです。
2013年 09月 08日
2020年東京五輪決定
昨年、ロンドンオリンピックの時に記した当ブログの文章(2012年8月1日)を以下に再録致します。
「 ロンドン・オリンピック・・・選ばれた世界の若きアスリートたち。わけても日本人選手の活躍に心からの声援を送る。
ところでオリンピックというと、すぐに思い起こすのは、東京オリンピック。私は中学一年生だった。たまたま祖父の家がメイン会場の国立競技場の近隣(祖父の家の庭から、聖火が見えた)ということもあり、期間中、幾度も会場付近を訪れ、辺りに漂う華やかなオリンピック・ムードを味わうことができた。
もっとも競技観戦は、もっぱら我が家の白黒テレビだった。今もよく覚えているのが、あのマラソン。冷静なエチオピアのアベベ選手と、この種目で日本人初のメダルをとった円谷選手の真摯な姿勢が印象的だった。さらに一人、ドン尻で競技場へ戻って来たセイロンの選手も思い出す。最後まで黙々とトラックを走り続けるその姿が感動を呼び、競技場全体がもう一度大きな拍手に包まれた。
あれから半世紀近くが過ぎた。アベベはその後、交通事故で半身不随となり、41歳で病死。また円谷選手は両親に丁重な遺書を遺し、27歳で自死を遂げている。時間の経過という現実は冷酷だ。あのセイロンの選手はどうだっただろうか・・・。そして、少年だった自分も還暦の年齢に到っている。思えば、私たち自身も人生というオリンピックのマラソンを走り続けているのかも知れない。まだまだ競技は続く。
聖書は告げている。『・・・自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら』(ヘブライ12:1)、『神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです』(フィリピ3:14)と。互いに御国という金メダルに与る日まで、頑張ろうではないか。」
2013年 09月 04日
二百十日は過ぎて
1923年(大正13年)の関東大震災も9月1日に起こった(但し閏年のこの年は、2日が二百十日)。「暑い夏の終わりだった。あの日、凄い勢いで屋根瓦が降って来た。上野の山に避難し、迷子になったが親切な人が助けてくれた・・・」、幼少時に東京で被災した父や伯母が、昔よく話してくれた言葉を思い出す。
関東大震災から90年、その後も幾度か大地震があった。また台風や豪雨、竜巻なども続いた。そういった自然災害が、多くの目に見えるものを破壊し、多大な生命や財産を奪い去ったのである。
ただ、幾多の天災は同時に、私たちにあらためて、「見えないものに目を注ぐ」(コリント二4:16以降参照)大切さも教えてくれた。この世だけでは完結しない「いのち」の意味、その有難さ、尊さ、さらには隣人同士が分け隔てなく助け合う心の優しさ、気高さ・・・を。それらの意味を、私たち自身の体に刻み込んでもくれたのである。
古来、日本人は見えないものに目を注ぎ、そこに畏敬の思いをもって生きてきた。それが「正直」、「誠実」、 「思いやり」といった日本的美徳にも繋がった。普段の生活の中では、往々にして意識されない事柄だが、火急の災害時には、DNAの中に記される記憶を鮮明に甦らせてくれるのである。東日本大震災において、海外メディアの多くが、この日本人の気質・精神を称賛する報道をしていたのは、記憶に新しいところである。
最近「南海トラフの巨大地震」が話題となっているが、恐れることなく冷静でありたいものだ。災害に対する十全な備えと共に伝統的美徳、さらには「永遠の命」に生きる信仰にしっかり立ちながら・・・。聖書は言う。「世も世にある欲も過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(ヨハネ一2:17)と。私たちの国、この世界の上に益々のお守りがありますように。God Bless Japan!
☆9月8日説教「愛への一歩」要約:
「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(ルカによる福音書16:29参照)
「モーセと預言者」とは、聖書を意味していました。つまり「御言葉に耳を傾けよ」ということです。 私たちは日曜日の礼拝において、聖書に耳を傾け、聞くべき御言葉を頂きます。私たちの内で、神さまの新たな良き御業が、そこに始るのです。恐れることなく、新たな週の一歩を踏み出しましょう。一週の旅路の上に、神さまの豊かな導きを確信しつつ・・・。