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光の春

 立春から十日ほど過ぎたが、吹く風は未だに冷たく、寒い日々が続く。それでも日足は伸び、明るさは増して来た。木々のつぼみは膨らみ、新たな季節への確かな動きが始まっている。ふと「ウィンター・イントゥ・スプリング」(Winter into Spring)、「春へと向かっている冬」というイージー・リスニング音楽の曲名が思い浮ぶ。今がまさに、その時である。
 この季節に新たな希望の始まりを重ね、そして静けさの中に躍動する大きな力を感じるのは、今の私たちだけではないだろう。古来、二月にバレンタインデーがあり、国の始まりを記念する日があるのも、新たな始まりを予感するこの時期であってこそだと思う。昔から人々は、そのような新鮮な喜びと希望を、この月の自然の姿に感じていたのだろう。
 ちなみに、二月を表わす如月(きさらぎ)とは、「気候が陽気になるから気更来、息更来(きさらぎ)、草木が生え始める月で生更木(きさらぎ)、草木の芽が張り出す月、草木張り月が転じ、きさらぎ」などの説があるそうだ(『語源由来辞典』参照)。
 なお『岩波新書 季語集』)によれば、今の時期を表す季語に「光の春」という美しい新季語がある。この言葉、昭和39年に気象調査でロシアへ出向いた気象予報士、倉嶋厚氏が広めたものという。氏は次のように記していた。「二月の光は誰の目から見てももう確実に強まっており、風は冷たくても晴れた日にはキラキラと光る。厳寒のシベリアでも軒の氷柱から最初の水滴の一雫(ひとしずく)が輝きながら落ちる。ロシア語でいう『光の春』である」(倉嶋厚『お天気歳時記~空の見方と面白さ~』)と。
 祖国の春に思いを馳せつつ、厳冬の現実に耐えて生きた、かつてのシベリア抑留の人々の苦難を思う。また昔読んだ『光あるうち光の中を歩め』というトルストイの小説が脳裏を走る。
 いみじくも今、そのロシアの「光の春」の下、ソチ・オリンピックが開催されている。日本の、世界の若者たちの活躍に声援を送りたい。そして、私たちも元気に、日本の「光の春」の下を歩みたい。光あるうちに雄々しく(ヨハネ12:35-36参照)、復活の春、御国の喜びを予感しながら・・・。

*バレンタインデーの起源:
元々は、三世紀の聖人、聖バレンチノ(英語読みではバレンタイン)の殉教を記念する日でした。 バレンチノはイタリア・ウンブリア地方の司教で、270年2月14日にローマ皇帝によって処刑された殉教者です。 当時ローマ帝国の兵士たちは、「士気が落ちる」という理由で、結婚を禁止されていました。しかしバレンチノは、秘密裏に彼らの結婚を取り計らいました。それが皇帝の怒りを買い、処刑に至ったと伝えられています。(カトリック中央協議会・ホームページ他参照)


☆2月16日説教「主の備え」要約:
「アブラハムはその場所をヤ―ウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に備えあり(イエラエ)』と言っている」(創世記22:14)
 私たちにとっての「人生の主の山」は、それぞれがおかれた現実の場だ、と述べてよい。そこには、常に主が用意された「備え」があるはずだ。何よりその証拠に、神さまはご自身の独り子イエス・キリストを、私たちすべてのために備えて下さっている。だから、目先の困難や試練を恐れず、安んじて前進しよう。どこまでも希望を捨てずに。
# by aslan-simba | 2014-02-13 11:23 | Comments(0)

レキオジの視点

 明治のキリスト教や新島襄の足跡を調べているうちに、幕末から明治維新という時代と、歴史上の人物たちにも興味を持つようになった。近頃は新聞記事も歴史史料の新発見などに、まず目が行く。リケジョ(理系女)、レキジョ(歴女)的な言い方をすれば、レキオジ(歴史にはまるオジさん)となるだろうか。
 先月、吉田松陰の自筆の辞世が、彦根藩士の書状の中から見つかったとの報道があった(京都新聞1月23日)。ご存じのように、松陰は「安政の大獄」で刑死した長州出身の幕末思想家。
 彼には他にも辞世があるが、今回見つかったのは、「此程(このほど)に思定(おもいさだ)めし出立(いでたち)は けふきくこそ嬉(うれ)しかりける」というもの。「死への覚悟はできており、きょう死ぬことを聞いてもうれしく感じる」・・・と。度胸の座った人である。
 彼は兵学者、地域研究者、洋学者であり、さらには、失敗に終わったものの海外雄飛も試みている。また優れた教育者でもあった。(ちなみに、明治のある歴史評論家は「成功したる吉田松陰」として、新島襄にも松陰をなぞっていた)。
 吉田松陰は主宰した松下村塾において、武士も、町人も平等に受け入れ、一人一人の個性を生かす教育を行った。そこから高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、伊藤博文、山形有朋といった近代日本のために尽くした多くの逸材を輩出したのである。
 そんな教育者・吉田松陰の姿、たとえば伊藤博文に対する生徒評などからも垣間見える。「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」。勉強は今一つだが、性格は実直、そんな伊藤少年を大切に思い、人間として高く評価したのである。明治の元勲、伊藤博文は、「常に国家のために政治を行ふて、野心のために行はなかった」(大隈重信の伊藤評)。また情に熱い人だったという。松陰先生は、早くからそれを見抜いていたのだろう。
 なお、松陰はこんな辞世も遺している。「親思う心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくらん」。「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」。親を思い、国を思い、弟子を思い、一身を捧げた吉田松陰。私たちの国には、福音の先駆けともいうべき偉大な先達たちが数多くいるが、吉田松陰もその一人と言えよう。


☆2月9日説教「愛の対極」要旨:
「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」(ルカ福音書16:26)
 死後の金持ちと貧乏人ラザロの譬えを通し、主イエスは越えることの出来ない「深い淵」について語られる。しかし私たちは、神さまから愛し、赦されることによって、愛し、赦すことができるようになり、この淵を乗り越えられるのである。御国への希望のうちに、今の人生を歩める・・・感謝
# by aslan-simba | 2014-02-05 19:13 | Comments(0)

優しい鬼くんたち

 近所のスーパーのチラシに「節分巻きずし」予約販売、お渡し日「2月3日」とあった。最近は恵方巻(丸かぶり寿司)も節分名物になった。しかし古来、節分行事といえば、先ずは「追儺(ついな・鬼祓い)」だ。立春を前に豆をもって鬼(災い)を祓う。さらに、鬼が戻らないように玄関先に鬼の嫌いな鰯(いわし)の頭を柊(ひいらぎ)に刺して置くのである。
 「鬼は外、福は内」・・・二十年も前になるが、「豆をぶつけたら鬼さんたち可哀そう」と、『泣いた赤鬼』の話(浜田廣介作)を子供たちが聞かせてくれた。心に残る話だった。
 山に住む、人間と仲良くしたい赤鬼、お菓子まで用意して人間を待つが、誰も怖がって近寄って来なかった。悲しんだ赤鬼は親友の青鬼に相談する。同情した青鬼はこんな策を提案する。それは「青鬼が人間のところへ行って大暴れする。そこへ赤鬼が登場し、青鬼を懲らす演技をすれば、人間たちは赤鬼を優しい鬼と思うだろう」ということ・・・それでは青鬼に悪いと赤鬼は遠慮するが、結局彼らは人間の村で、この一芝居をうつことにした。作戦は成功し、結果赤鬼には人間の友達が多くでき、毎日楽しく過ごせるようになる。しかし日が経つにつれ、赤鬼は親友の青鬼のことが気にかかり、青鬼の家を訪ねる。青鬼は不在。そこに貼り紙があった。「赤鬼くん、人間たちと仲良く楽しく暮らしてください。もし、僕がこのまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、僕は旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。どこまでも君の友達、青鬼」。
 ・・・泣き続ける赤鬼くん。友の願いを叶える為に力を尽くし、静かに身を引いた青鬼くん・・・何と義理堅く、友だち思いなのだろう。背後に「互いに愛しあいなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエスさまの御言葉さえ響いてくる。
 悪い鬼は追い払うべきだが、私たちの国には、こんなにまで心根の優しい鬼くんたちもいるのである。
 今、彼らはどこで、どうしているだろう。もしかしたら、この節分に出会えるかもしれない。ありがとう、青鬼くん、赤鬼くん!



☆2月2日説教「癒やしの奇跡」要約:
「・・・『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう』。そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』」(マルコ福音書2:9-11)
 イエスは、神の権威をもって罪の赦しを宣言された。私たちは神の憐れみの下、この「根源的な癒し」に与っているのである。だから、どんな時にも、希望をもって立ち上がって行くことが出来るのである。
# by aslan-simba | 2014-01-30 21:31 | Comments(0)

Today Is A Gift

 新しい年の最初の月である1月も、あと一週間ほどで終わる。時の流れの早さに、あらためてとまどいを覚える。だからと言って、時計の速度を落とすことはできない。決められた物理的な時間は、過去から現在、現在から未来へと刻々と刻まれている。私たちは、その中に生きている。
 こういう英語表現がある。Yesterday is history. Tomorrow is a mystery. Today is a gift. That's why we call it the present.(昨日は過去。明日は未知。今日は贈りもの。だから「現在」のことを「プレゼント」と呼ぶ)と。含蓄深い表現だと思う。過去、現在、未来の流れの中で、最も大切なのは、現在だからである。
 過去を捉え直し、未来を展望することができるのは、現在という基点があればこそ・・・言い換えれば、現在次第で、未来の希望はもちろん、変えられない過去も、その意味合いは大きく変るだろう。その現在というかけがえのない贈りものを大切にして行きたい。
 文豪ゲーテは、現在を賢明に生きる術について、こう述べた。「気もちよい生活を作ろうと思ったら、済んだことをくよくよせぬこと。 滅多なことに腹を立てぬこと。 いつも現在を楽しむこと。 とりわけ、人を憎まぬこと。 未来は神にまかせること」(「処世のおきて」高橋健二訳)。「過去をくやまず、未来を見上げて、笑みつつ現在を生きよ」ということだろう。心したい。
 このゲーテの言葉、主イエスの有名な「思い煩うな・・・」(マタイ福音書6:25-34参照)の御言葉とも重なろう。「何を食らい、何を飲まんと、生命(いのち)のことを思い煩い、何を着んと体のことを思い煩うな。・・・まず神の国と神の義とを求めよ、然らばすべてこれらの物は汝らに加えらるべし。この故に明日のことを思い煩うな、明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり」。
 そして聖書は、現在という時をこう告げている。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリント二6:2)と・・・。今、現在、ここに生かされて在る私たち。力を尽くして歩み、後はただただ神さまに委ねたい。



☆1月19日説教「キリストの体」要約:
「あなたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(コリント一6:20)
 買い取られた体とは、キリストの命の値が付けられた体ということです。そのようにして私たちは、神の栄光を現すための体とさせて頂いたのです。 そこから私たちの体はキリストの体の一部であり、神さまの霊が宿ってくださる神殿とされた。神さまはそのように、私たちを見ていて下さいます。どうか、そのことをしっかりと心に留めて下さい。
# by aslan-simba | 2014-01-23 20:16 | Comments(0)

忘れる恵み

 「ものをとりに部屋へ入って 何をとりにきたか忘れて もどることがある もどる途中でハタと 思い出すことがあるが そのときはすばらしい  身体がさきにこの世へでてきてしまったのである その用事はなんであったか いつの日か思い当たるときのあるひとは 幸せである  思い出せぬまま 僕はすごすごあの世へもどる」(杉山平一『生』)。
 「何をとりにきたか忘れて・・・」、私にも思いあたるふしがある。最近は取りに行った物だけでなく、人の名前や固有名詞がすぐに口をついて出ないことも案外ある。老化現象の始まりか。
 聞いた話だが、「物忘れは、脳の前頭前野にある『ワーキングメモリ』という記憶の働きの低下が原因」という。このメモリが衰えて来るのは40歳代。メモリを鍛えるには「イメージして行動すること」「感動や達成感を味わう経験をすること」「スロージョギングをすること」、さらには「大豆食品を食べること」「積極的に料理づくりをすること」が大事とのこと。要は、普段から絶えず頭と体を使い、ちゃんと栄養を取ることが肝要ということだ。あらためて心しておきたい。
 もっとも「忘れること」の大切さも、「忘れて」はならないだろう。歳をとって、過去の自慢話を繰り返し滔々とする人がいる。気持ちは分からないでもないが、「俺が、俺が・・・」は、どこかで忘れ去った方が恰好よい。
 また、月日の流れのなかで、若かった頃の悲しみや過去の辛い体験の思い出のとげが抜かれ、トラウマが薄れ、いつしか笑って語れるようにとなって行くなら、老化による忘却も福音ではないか。そして最後には感謝の思いだけが残れば・・・それこそが「幸せな人」だろう。
 ただ神さまの大きなお支えの下に生かされていることだけは、忘れずにおきたい。いや、それさえも最後は忘れて、「思い出せぬまま御国へ戻る」ことになってもよいのだ・・・。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と主イエスは言われる。私たちの記憶は失せても、神さまの私たちに対するご恩寵は不変だからである。本当に有難いことだ。


☆1月19日説教「命の水」要約:
「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって・・・」(ヨハネ黙示録22:2)
 礼拝の折にはいつも、神の都の中央を流れる「命の川」を起こしたいものだ。そこから「命の水」を汲み取り、その両岸にある「命の木」の恵みに与りたい。そして、癒されて、また立ちあがり、健やかにこの世の歩みを続けようではないか。私たちの涙を拭い取り、嘆きも、悲しみも労苦も祝福に変えて下さる神を心から信じて・・・。
# by aslan-simba | 2014-01-13 22:12 | Comments(0)

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by aslan-simba