秋と黄色い蝶

  朝夕めっきり冷え込むようになった。何とはなしに哀愁を覚えるこの季節。 例年、この時期になると決まって思い起こすのが、リルケの「秋」(Herbst)という詩だ。

 「木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように 大空の遠い園生が枯れたように 木の葉は否定の身ぶりで落ちる  そして夜々には 重たい地球が あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる  われわれはみんな落ちる この手も落ちる ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ けれども ただひとり この落下を 限りなくやさしく その両手に支えてくれるものがある」(富士川英郎訳)。

 木の葉のように、やがては衰え、朽ちて落ちてゆくのが私たちの生・・・。それは「朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」(蓮如)ということだろうか。しかし、そのような儚い存在である私たちを、その根底においてしっかりと支えてくれる手がある、とリルケは詠う。それは主の恵みの御手・・・主は両手で、まさに御腕をもって私たちを支えてくれるのである。 その主の御許に、召された方々のことに思いを馳せる深まり行く秋・・・。

 そういえば、これもこの時期に毎年決まって経験することがある。黄色い蝶を見かけることだ。去年もちょうどこの時期に、こう書いた。「目の前を黄色い蝶が舞い始めました。ありがたいことです。もうすぐ『聖徒の日』。蝶は『復活』のシンボル。アメリカの教会で、女性たちが胸に蝶のブローチをつけていたのを思い出します。40年も前の話ですが。また蝶は、さまざまな宗教や民間伝承でも、あの世とこの世を結ぶ存在。今、その蝶が天上の喜びを私たちに教えてくれているようです」(2016年11月2日)。

 今年もここ数日、何度も黄色い蝶を見た。私には、亡くなった人々が蝶になって、私たちのもとに来てくれているように思えるのだ。そこに、「今を大切に生きるように」と死の境を超えて、私たちを見守ってくれている先人たちの眼差しを感じるのである。彼らは私たちに「いにしえの神は難を避ける場所 とこしえの御腕がそれを支える」(申命記33:27)と伝えてくれているのではないだろうか。


☆11月5日聖徒の日礼拝「永遠に」要約:
「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」(詩編23:6)
 人生の残された日々に「何をなすか」は、私たちにとって大切な事でしょう。しかしそれ以上に大切なのが、何に心を向けて生きて行くかということです。導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かって歩む時、私たちの限られた人生が永遠の意味を持つと思うのです。
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by aslan-simba | 2017-10-30 21:38 | Comments(0)

11月・・・教会のお彼岸

 選挙が終わった。そして台風も過ぎ去った。季節が急に一段と前に進んだようだ。朝夕は暖房が必要となった。気づけば10月も終わりに近づいている。

 迎える11月は、1日の「諸聖人の日」(プロテスタント教会は11月第一主日が「聖徒の日」)から始まる。教会伝統はこの月を「死者の月」ないし「終末の月」として捉え、教会暦における一年最後の月としてきた。逝去された人生の先輩達を追悼する、いうなればキリスト教におけるお彼岸の月ということだ。同時にまた、自ら自身のここまでの歩みを振り返る時でもあろう。

 こんな俳句が脳裏を走る。「ひととせは落ち葉の夢でありにけり」。かつて大原三千院の門前で茶屋を営み、庵をむすんでいた小塙(こはなわ)徳女が、飛花落葉(ひからくよう)を詠った句。そこに人の世の儚さが、歌われている。何とはなしに心に染みる句である。

 聖書も同様に語る。「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」しかし、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ書40:7-8)と・・・。 神の言葉は常に変わらず永遠に残るが、人の生というものは無常であり、やがては終わり行く・・・。どんなに楽しいことも、喜びも、また嘆き、悲しみもいつかは消え果てる、と。

 ただし人は、その永遠なる神の言葉に、思いを寄せることができるのである。キリスト教哲学者パスカルは、「人間は一茎の葦にしか過ぎない。自然の中で最も弱いものである。しかし、それは考える葦である」と記した。「考える」とは、神について思うこと。つまり永遠である神に思い馳せることを意味する。さらに私たちは、信仰に与って、その永遠の神の御許へ入ることができるものと信じている・・・。ここにこそ私たちの信仰の醍醐味があるだろう。信仰者の人生とは、永遠に向けて歩を進める旅路なのである。

  旧約の詩人は詠った。「願わくは、我らにおのが日を数ふることを教へて、智慧の心を得しめたまへ」(詩篇90:12文語訳)と。私たちも人生の一日一日を大切に憶え、永遠を目指して、今を懸命に歩み続けようではないか。天上にある先達たちも、神共に在って、そんな私たちの足もとを見守り、支え、祈ってくれているものと思う・・・。 世にあって「一日一生」と心に刻み、「二度とない今日のいのち」を感謝をもって真摯に生き抜くものでありたいと願う。


☆10月29日説教「心を一つに」要約:
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17:21)
 主は祈られました。「すべての人を一つに」と。それは単に人間の間に分裂がないようにということではありません。共に「神」の家族として生きるようにという招きなのです。神は信仰者のみならず全てのものの神だからです。


 


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by aslan-simba | 2017-10-24 19:17 | Comments(0)

仮庵祭と日本の秋祭り

 秋の長雨・・・秋霖(しゅうりん)、すすき梅雨というのでしょうか。降ったりやんだりの毎日。何とも言えぬ物憂い日々が続きます(湿度の高さのせいもあるでしょう)。同時に心底肌寒さを感じるようになりました。街行く人に、さすがに半袖姿は見かけなくなりました。つい先日まで、真夏を思わせるような太陽が輝いていたのが、うそのようです。

 ところで今朝、ヨハネ福音書の7章を読んでいたのですが、そこに登場する仮庵
祭(Sukkot)が、今年は104日~11日に祝われたことを、偶然ネットで知りました。この祭り、元来は果物やオリーブの収穫感謝祭だったのが、そこに出エジプトの際の荒野生活を想起するという歴史的意味が加わったのだそうです。なお仮庵とは、仮小屋、つまり荒野で生活したテントのことです。

「あなたたちは7日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの地から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである」(レビ記234243)。今もこれを記念して、祭りの期間、自分の家の中庭やベランダにテントを張って過ごすユダヤ人は多いと聞きます。何か楽しそうですね・・・。過越祭が春、五旬祭が夏の祭りなら、仮庵祭は秋祭りということでしょう。

 さて日本もいよいよ秋祭りのシーズン。「この時期、郊外を車で走ると祭りの列に出会うことがある。刈り入れ時を迎えた田の、薄緑と黄色の稲の波に山車の朱色が映えて美しい。民俗学者の折口信夫は山車を、神が降って来るものと見ている(日本美)・・・」、ある人がそんな一文を新聞に寄せていましたが、読みながら胸が高鳴りました。 ちなみに「祭り」という語の由来は「<祀る>の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指す」あるいは「<待つ>を語源とする表現、すなわち神仏の到来を待つこと」などと言われます。

 イスラエルの人々が、古くからの自分たちの祭りの伝統を、経験と共に語り継いできたように、私たちも日本の祭りの歴史的意義と、先人たちの営みを将来へ語り伝えたいものです。 早く雨が上がり、爽やかな秋祭り日和になりますように・・・。



1022日説教「祝福の源」要約:

「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(創世記122

 「わたしはあなたを祝福する」と主が言われる。祝福はどこまでも、神から来るのであって、人からではありません。ですから、求められているのは、どこまでも神に信頼して、神と共に歩む人間となることなのです。




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by aslan-simba | 2017-10-16 17:33 | Comments(0)

 普段あまりテレビを見ることはないのですが、先月初めの土曜日、たまたま面白い連続ドラマを目にしました。クレージーキャッツの植木等さんを当時の付き人の目で描いた8回シリーズの物語です。何かやたら懐かしく、その時以来、見続けています。ストーリーの時代背景は昭和30年代後半・・・。ドラマの展開はともあれ、嬉しくなるのは「シャボン玉ホリデー」の再現シ―ンがしばしば登場することです。

 五十数年前の我が家の一家団欒に、日曜の晩の「シャボン玉ホリデー」は、欠かせませんでした。家族4人揃って夕食をとりながら、決まってこの番組をみたものです(合わせて6時~6時半までは「てなもんや三度笠」も・・・)。週日は仕事が忙しく、家で食事をすることの少ない父と、コントや音楽を楽しみながら、晩御飯を一緒できるのが何とも嬉しかった・・・。

 普段は無口だった父も、この時だけは妙に饒舌でした。「植木等という人は無責任な人間のようにやっているが、実はあの人、根は大真面目なんだよ。人を楽しませようと一生懸命仕事をしている訳さ」。「リーダーのハナ肇は、会社で言えば課長クラスかな。統率力があるな・・・」。父はどこか仕事人間だった自身と重ねて、番組出演者を見ているようでした(ちなみに「無責任」「統率力」などという言葉を覚えたのも、こんな時でした)。

 思えば、高度成長の只中の時代、父もそうでしたが、「目標に向かって頑張る」という気概が、社会全体に満ちていたように思います。それが昭和50年代半ばあたりから「個人の生活を楽しむ」という風潮に変わってきました。いずれにせよ、両者は共に将来への「夢」に裏付けられていました。しかしその後、バブルや不況を経験しつつ、その夢もしぼんで行ったように思います。ただ経済は循環します。ここ数年来、個人的には、以前に増し、良い時代になって来ているように思います。

 もちろん、今なお厳しい状況におかれている人もおられます。それでも、信仰に生きる者は、未来に大きな望みをもって、よしんば高齢者になろうとも常に夢をもって生きられると思うのです。「老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル3:1)。ふと植木等のこんな歌が脳裏を走りました。「・・・心配すんな、見ろよ青い空、白い雲、そのうちなんとかなるだろう・・・」、神様が「なんとかしてくださる」、否、最善を為してくださいます。だからもっと委ねて、もっと気楽に歩めればと願います。


☆10月15日説教「御子は」要約:
「御子は、見えない神の姿であり」(コロサイの信徒への手紙1:15)
「見えない神」、それは単に肉眼で見えないということよりも、人と神とはどれほど隔たっているかということを現わしている表現です。その見えない、知り得ないはずの神を啓示し、見せてくださった御方、それが御子イエス・キリストなのです。そのキリストの下に信仰に導かれて今、ここにある・・・感謝
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by aslan-simba | 2017-10-10 22:03 | Comments(0)

 毎年、十月の授業で繰り返されるやり取り。教師「1031日は何の記念日?」、学生「ハロウィーン」、教師「なるほど・・・もうひとつ知りませんか?」、学生「先生の誕生日?」。

 答えは宗教改革記念日(私の誕生日ではありません)。昨今のハロウィーンの盛り上がりで、宗教改革記念は押され気味。それはプロテスタント発祥の地ドイツでも同様の模様です。北ドイツでは、1031日にハロウィーン・キャンディーとしてマルティン・ルターの顔を描いた「ルター・ボンボン」を配る教会もあるとか(味はどうなのでしょう)。ただし今年は少し違います。ネットで見る範囲、ドイツでは宗教改革記念日が、かなりの話題となっています。なぜなら2017年は宗教改革500周年の年だからです。

 15171031日ウィッテンベルク城教会の扉に、ルターは免罪符(贖宥状)を批判した「95か条の提題」を掲げました。 中世以降、強大な力をもったカトリック教会のやり方には、かなりの行き過ぎが指摘されます。その一例が16世紀、サン・ピエトロ大聖堂改修資金の捻出のためになされた免罪符(贖宥状)の乱発、乱売でした。ちなみに、免罪符とは、それを買えば多くの善行を積んだものとされ、天国の救いが即座に約束されるというものです。

 ルターが経験したこんな逸話が伝えられています。彼が街中で昼間から泥酔し、道端に横たわっていた男に「そんなことをしていたら御心に適わない。自分が死んだ後のことを考えなさい」と注意すると、呂律の回らない舌で男は「これがあるから、大丈夫ですよ」と免罪符を見せた、と。ルターは「こんな男にも、御言葉を届かせる努力をせねば」と立ち上がったのです(徳善義和『マルティン・ルター』参照)。

 ルターは信仰の在り方を示し、「人が義とされるのは信仰のみによる」(ローマ328・ルター訳)を伝えました。私たちも宗教改革記念の月に、あらためて「信仰」の大切さに思いを馳せたいものです。

 信仰といえば、ある禅の老師がこう話されていました。「信仰」の「信」という語の「言」は、「言霊」すなわち「神仏の言葉」を指す。「亻」(にんべん)は「頭を垂れた人の姿」を示している。すなわち一切を「神仏の言葉」「神仏」に頭を垂れて委ねるのが信仰である、と。その通りです。私たちも御言葉に委ねて行きましょう。


108日説教「執り成し」要約:

「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」(フィレモンへの手紙17節) 

この書は、パウロが獄中から書き送ったフィレモン宛の短い私信です。他の書簡とは趣を異にし、そこに教理や信仰生活上の勧めは書かれていません。しかし、この書にはオネシモという解放奴隷をめぐり、神の救いの恵みが生き生きと働いた実例が記され、証しされています。是非、一気に通読してみてください。



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by aslan-simba | 2017-10-03 17:46 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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