<   2017年 08月 ( 4 )   > この月の画像一覧

怖い絵・・・

 「忙中に閑有り」。学校の仕事がやっと一段落した日に、妻と神戸まで「怖い絵展」へと出向いた。順調に電車を乗り継ぎ、予想より早くたどり着いた兵庫県立美術館。これは幸先が良いと思ったのだが、さにあらず。中に入ると大変な長蛇の列が続いていた。入場券を買うまでに50分、さらに展示会場に入るまで20分。誰も文句も言わず、黙々と並んでいる。これだけで十分に「怖い」・・・否、それだけ日本人の文化はレベルが高いのか。

 場内はもちろん満杯。ゆっくり鑑賞という訳には行かなかったが、「怖い絵」の中に、是非もう一度見に来たいと思う絵が少なからずあった。その一つが、ビアズリーのイラスト作品「踊り手の褒美」。戯曲『サロメ』(オスカー・ワイルド)の挿絵である。ちなみに「褒美」とは洗礼者ヨハネの首。ご存知のように、サロメが義父ヘロデ・アンティパス王に見事な踊りを披露し、その褒美としてもらったものがそれである。何と・・・。このグロテスクな出来事の根底にある人間の妬み、恨み、残忍性、さらには恐れ・・・何とも「怖い」(マルコ福音書61728参照)。なお福音書はサロメを「少女」、「(ヘロデ・アンティパスの妃)へロディアの娘」とのみ記している。

 ともあれ、辛い最後を迎えねばならなかった洗礼者ヨハネだが、いみじくも彼の命日は829日。この日、ギリシア正教やカトリック教会などは「洗礼者聖ヨハネの殉教記念日」として記念する。主イエスの前に、御子キリストを指さし、身を挺してその先駆けとなった旧約時代「最後の預言者」がいたことを心に刻みたい。

 「すべてを導かれる神よ、洗礼者聖ヨハネは、その誕生においても死においても、御子キリストの先駆けとなって道を備えました。真理と正義のために命を捧げた聖人にならい、私たちも力を尽くして福音の証となることができますように」(『聖人略伝』より)

[PR]
by aslan-simba | 2017-08-22 08:03 | Comments(0)

復旧の喜び

 あいかわらず暑い日が続いていますが、カレンダーの上ではすでに秋到来・・・。耳をすまし、目をこらし、五感を自然へと傾ければ、季節が少しずつ秋色に染まっていることに気づかされます。今朝は明け染めた空が紅く輝いていました。天空はすっかり秋模様。暦は本当に正直です。

 ちなみに今年の立秋(8月7日)は、激しい雨台風と共に訪れました。 この日、朝から忙しくしていました。電車の運行状況を気にかけつつ所用で外出、帰って来てからは居間で学生のレポート試験の採点作業に没頭。夜間、私の庵(プレハブ書斎)に設置されたパソコンが水を被り、まったく作動不可能になっていたことを知りました。本当に困りました・・・。パソコンの中に入っている仕事のデータを案じて愕然とする私を心配し、娘と妻が力を貸してくれました。娘は機器の修理を試み、妻は「祈ってから事を始めて」と語りました。しかし動く気配はまったく見えません。私の方は祈る前に、半ばあきらめていました。

 さて翌日の午後、パソコンが奇跡的に復旧したのです。これは正に神さまの憐みだと本気で思いました。こういうことってあるのです。こんな御言葉が脳裏を走りました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタイ68)。そして「祈り求めるものは既に得られたと信じなさい。そうすればその通りになる」(マルコ1124)と・・・。

 まったくの私事の話で恐縮ですが、このパソコンの復旧という個人的な小さな出来事を通して、「新たな季節」の到来を「回復の喜び」をもって経験させて頂きました。感謝。 さて今年もお盆の時を過ぎ、つくつく法師の鳴き声を耳にする時期になりました。子供の頃、つくつく法師が鳴き出すと「夏休みももう終わりだ」と、予定していた自由勉強のできていない自分にあせりを感じたものです。あれから、半世紀以上にもなっているのに、あの頃の自分と本質的にはあまり変わっていません。「三つ子の魂 百までも」ですね。

 それでも今年の秋は、何か良い事が起こりそうな不思議な予感がします。


☆8月20日説教「解放の御業」要約:

「安息日に・・・群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」(ルカ131017参照)

 安息日は本来、神の御業を覚え、感謝し、喜ぶ日なのです。だから安息日は礼拝の日ともなります。その日に、一人の女性が癒されました。人々は心からの喜びに満ちています。今日の礼拝も、神の御業を共に喜ぶ時となりますように。



[PR]
by aslan-simba | 2017-08-16 09:59 | Comments(0)

数珠の話

 関西では、お盆の時期に入りました。仏事には様々な作法やしきたりがありますが、そこで必ず使用されるのは数珠でしょう(宗旨によって珠数などは異なりますが)。実は、私はこれまでの人生において、数珠をもったことがありません。ただ数珠には興味があります。

 数珠の歴史は非常に古く、仏陀誕生以前からあったと言われます。元々は古代インドのバラモン教で使われた祈りを数えるもので、インドの古語、梵語(サンスクリット語)で「ジャパ・マーラー」と呼ばれました。「ジャパ」は「念じる」、「マーラー」は「輪」を意味します。つまり「念じる輪」、これが仏教に入り、数珠(ないし念誦)と呼ぶ法具となったのです。

 また、
このジャパ・マーラは、後にインドからイスラーム地域へと伝えられ、一部イスラーム教徒たちの瞑想のための補助手段として用いられました。「アラーは偉大なり(アラー・アクバル)」と唱える度に珠を一つずつ動かして使いました。 さらにイスラーム圏には、少数のキリスト教徒がいました。彼らによってこの数珠がキリスト世界にも伝わったと言われます。

 我々プロテスタントからすれば、数珠とキリスト教は結び付かないように見えますが、教派によっては、祈りを数える大切なものとして今も使っています。正教会(ロシア正教コンポスキニオン)がそうです。聖公会の一部でも使用されます。そしてご存知カトリック教会のロザリオ・・・。ロザリオという名称は、元々の「ジャパ・マーラー(念じる輪)」が誤訳されて「バラの輪」(ラテン語「ロザリウム」、ポルトガル語で「ロザリオ」)になったそうです。

 以上のように、インドのバラモン教(後のヒンドゥー教)発祥のものが、仏教の数珠となり東に伝わった。一方ではインドから西に行きイスラーム世界に入り、最終的には、ヨーロッパのキリスト教世界に入ってロザリオになったわけです。文字通り数珠つなぎですね。そこに不思議な導きを覚えます。

 さて今の時期、私たちの周りにも、
先祖や亡くなった家族を覚え、数珠をもって拝まれる人は多いと思います。私には、その祈りの究極の先には、憐みの主イエス・キリストが立っておられるように思えるのです(マタイ913参照)。 よきお盆休みをお過ごしください。


☆8月13日説教「十字架を誇る」要約:

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤの信徒への手紙614

 パウロは言います。主の十字架こそが彼の「誇りだ」と・・・。これは一般論ではありませんし、他の人に押しつける言葉でもありません。しかし、このパウロの確信にたじろぎます。ならば、皆さんにとっては「十字架」とは何でしょうか。

[PR]
by aslan-simba | 2017-08-10 13:32 | Comments(0)

 年齢のせいか。辺りが明るくなり、鳥がさえずり出すと、自然に目が覚めるようになりました。時計は5時少し前。起き上がって、今朝も妻とウォーキングへ向かいます。新たな一日の始まり・・・。

 外に出ると、明け染める白い朝の光の下、自然界の目覚めを覚えます。その中を「今日も良き一日でありますように」と祈りつつ、多くの方々のこと、教会のこと、学校のこと、この日本のことを思い巡らしながら歩きます・・・。 ふっと不安が頭をもたげ、足が重くなることもあります。けれども、そんな折には決まって御言葉が示されます。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」・・・今朝は、そんな出エジプト記の言葉(13:21-22)が脳裏を走りました。

 思えば、エジプトでの苦難からやっとの思いで解放されたイスラエルの民が、モーセに率いられ、次に足を踏み入れたのは楽園ではなく、茫漠とした荒野でした。同じようなことは、私たちも人生において経験する事かも知れません。「人生の荒野」の経験・・・。 しかし、「神が雲の柱、火の柱で導く」ということは、「神さまが、どこまでも私たちの後ろを守り、私たちの進み行く道を拓かれる」ということなのです。未来に不安がよぎり、進むことも、退くもできないと思われる時、必要なのは、どこまでも神さまを信頼して、今の「道」を真摯に歩み続けることではないでしょうか。

 今朝は早くから蝉時雨が続いています。7年間を土の中で過ごした蝉たちの地上での命は一週間。彼らはその今の時を精一杯に生きるのです。私たちも、まずは今日を精一杯生きたいと願います。私たちの道は、決して荒野にあるのではありません。主が共にあり、導いてくださる緑豊かな地を行くのです。「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし」歩んで行きましょう。

 「今日もここに生かされ、有り難うございます。良き一日を過ごせるようお導きください」と、感謝し、祈りながら。


☆8月6日説教「主の招き」要約:「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人・・・を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(ルカ福音書14:13-14)
 招かれても全くお返しができない貧しい人、まさに神の御前における自分の姿だろう。そんな私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされる。ただただ感謝。
[PR]
by aslan-simba | 2017-08-03 09:32 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31