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京都の七月に思う

 夏休みを前にした時期は、私にとって非常勤の仕事の繁忙期にあたります。それとちょうど重なるのが祇園祭のハイライト。地下鉄や電車の中で浴衣を着て祭りに赴く人々の姿が目につくようになりました。

豪華絢爛な装飾を施され、巡行する山鉾の姿を、この目で実際に見たいところですが、残念ながら今年も無理です・・・。

 なお、この祇園祭、歴史は古く、平安時代に京で疫病が流行した際の災厄除去の祈願が始まりとのこと。都の人々は、自分たちの問題のみならず、当時の日本全国の国数にちなんで66本の鉾を立て、日本全体の太平をも祈ったそうです。このような疫病退散、国家安泰を願う人々の祈りが、千数百年に渡って重ねられ今に至ることになります。

 その祭りの中心となる祭神は、素戔嗚尊 (すさのをのみこと)ですが、この神は牛頭天王(ごずてんのう)、武塔神(むとうしん)という別名でも呼ばれていました。それぞれに神道や仏教、道教等の影響が垣間見られます。さらには古代イスラエルの祭りとの類似性を指摘する人もいます。興味深いところです。「神は多くの名前をもつ」(God has many names)・・・神名は違えども、同じ一つの神がそこにあるということでしょうか。

 私は、その背後に聖書の示す一つの神の働きへと思いを馳せます。「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなくなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう」(詩編1925)。また様々な名をもって語られる「神」を信仰する人々に対し使徒パウロが語った言葉を思い起こします。「・・・あらゆる点においてあなたがたが信仰あつい方であることを、わたしは認めます」(使徒言行録1721)と。

 なおこの古都の祇園御霊会(ごりょうえ)は、夏祭りの原型として日本の全国各地に拡がって行きました。人々の平安と国の安全無事を願い、神仏に礼を尽くすという、先人たちの祈りと感謝の思いが、日本人の精神性と宗教性を養ってきたのではないかと思うのです。 私たちはこのような日本の伝統を敬い、大切にすると共に、良き形でその思いをキリストの信仰へと接ぎ木して行きたいものです。


☆7月23日説教「勝利の信仰」要約:

「・・・人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」(ヨハネの手紙一524

 私たちは神から生まれた者です。大いなるまことの「父」がいます。この父を愛し、何でも願いを語ることが許されています。また私たちには日々の歩みを導いてくださる御子イエス・キリストという「兄」がいます。だから心配ありません。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです・・・」(54)。感謝



 








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by aslan-simba | 2017-07-18 22:01 | Comments(0)

何のために

 忙しい仕事が一段落したのも束の間、私たちの周りには予期せぬことが次から次へと起こる。そんな現実に「神を問う」と共に「人間とは何か」、「何のために生きるのか」をあらためて考える。

 詩編に「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません」(90:10)、「主よ、人間とは何ものなのでしょう、あなたが、これに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう、あなたが、思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの、彼の日々は、消え去る影」(144:3∸4)とあった。このような言葉が「生きる意味」の問いをさらに深める。

 簡単に答えの出せる話ではないが、聖書が、人間はキリストに在って本来の姿へと新たに造りかえられた存在だとすることは覚えたい。「キリストと結ばれる人はだれでも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5:18)。だから私たちは何歳になっても、どんな困難を抱えても最後まで御国の希望に生きることができるのだ。

 仏教の教え(三帰依文)にも、こうある。「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん・・・」、鶴田義光訳では「この世に人間として生まれた深い意味と尊さに、今初めて気付くことができました。それはまさに仏法の教えを聞くためであったのだと、今ようやく仏法に出会えた喜びを素直にいただくことができました。 このどうしようもなく愚かで迷い続けるしかない身は、人間に生まれたこの一生涯において、もし救われることがなかったら、もう二度と救われるチャンスはないでしょう」と。仏を知るために、人間として生かされているというのだろう。

 私たちも、神を知るために今を「生かされている」のである。その神は、今日も私たちを背負っていて下さる・・・「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:3-4)。
感謝

☆7月16日説教「命の約束」要約:

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ福音書524

 赦しの言葉がここに与えられています。人は誰でも神と和解し、神との交わりに生きることができるのです。既に死から命に移っているというのです。


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by aslan-simba | 2017-07-11 16:57 | Comments(0)

山と信仰

  7月の歳時記を見ていて、富士山の「山開き」が1日と10日であることを知りました。登山口のルートによって異なるようです。人々が混雑を避け、安全に登山できるようにとの配慮でしょう。

 我が国の最高峰は、信仰の山としても知られ、「霊峰富士」とも称されるパワースポットです。私も一度は登ってみたいと思っているのですが、今日まで果たせていません。ただ子供の頃、東京、千駄ヶ谷の神社にある富士山を模した「富士塚」には、面白がって何度も登りました。5~6メートルの高さです。聞くところ、富士登山と同様の御利益があるのだとか。ありがたいことです。知らず知らずに参拝していました。その富士塚は寛政元年(1789)の築造で、現在、都の民俗有形文化財に指定されている由、最近知りました。由緒ある場所だったのですね。

 さて富士山に限らず、日本の多くの山は古来、神々が降臨してとどまる所、あるいはご先祖様が鎮まる所として信仰の対象とされて来ました。わけても霊山と呼ばれる山々では、修行者か徳の高い僧侶以外の入山は認められませんでした。

 それでも江戸時代中期になり、参拝登山を願う一般人も、期間を定めて山に登ることが許されるようになりました。山開きの儀式は、その頃から登山開始を祝い、安全を祈願するため始まったとのことです。 ところで、興味深いのは聖書の世界の信仰も、「山」が神に近い場として描かれている点です。たとえばモーセが神さまの顕現に接したのも、十戒を頂いたのも「山」。山は神の栄光があらわれる場なのです。新約聖書においては、イエスさまは山で祈られます。また有名な説教は、山で語られました(山上の垂訓=説教、マタイ5~7章)。「山と信仰」・・・。

 今、季節は「山滴る」とき、緑豊かな山を見上げ、過ごせたらと思います。山の彼方の空遠くの御国に思いを馳せながら・・・。「山のあなたの空遠く 『幸』住むと人のいう。 ああ、われひとと尋めゆきて 涙さしぐみかえりきぬ。 山のあなたになお遠く 『幸』住むと人のいう」(カールブッセ)。

 そして遠くにあるようで、実は今、ここに共にてくださり、支え、助け、導いてくださるを神さまに感謝。「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや わがたすけは天地をつくりたまへる主よりきたる」(詩121編より)。


☆7月9日説教「生きる」要約:
「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(ヨハネ福音書4:50)
 奇跡は起こります。主を真摯に見上げつつ、その御言葉に信頼して生きるときに、奇跡は賜物として必ず与えられるのです。
 


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by aslan-simba | 2017-07-04 20:53 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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