6月の風・・・聖霊の風

 気づけば、もう六月・・・そよぐ若葉が一段と色濃く感じられます。爽やかな朝風の道、行く手には田んぼが大きく広がります。そろそろ田植えの頃。青々とした稲が風になびく光景に思いを馳せます。季節は初夏、薫風(くんぷう)が吹き渡り、青田風(あおたかぜ)の時期へ向って、刻々と進んでいます。風に時間の流れを感じる今日この頃です。

 「
誰が風をみたでしょう ぼくもあなたも見やしない けれど木の葉を震わせて風は通り抜けていく」・・・もう半世紀も前、「ひょっこりひょうたん島」でドン・ガバチョが歌っていました(原詩はイギリス女流詩人によるもので、訳詞は西條八十)。

 思えば、人の生涯も、そのような吹き行く風に重なるものかも知れません。「人生の歳月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を越えても 
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」と詩編にあります(9010)。また、旧約聖書の世界を解説して語られた、こんな言葉に触れたことを思い出します。

 「『草は枯れ、花はしぼむ』(イザヤ4078)・・・アラビア砂漠を越えてやってくる
シロッコと呼ばれる強烈な熱風(東風)が吹くと、野に咲く美しい花はたちまち萎む。 『東風に砕かれるタルシシュの船』(詩488)・・・人間や人間が生み出すものは滅び去る運命にある」と。

 聖書の言葉に、そのような「世に吹く風」の儚さを覚えることもあります。しかし主イエスは「希望の風」、
「聖霊」という風を私たちに告げられます。この「霊」は「息」ないし「風」の意味。つまり聖霊は「神の息」であり「神の風」なのです。


 主は言われます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか を知らない」(ヨハネ38)、「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」(1613)と。聖霊の風に包まれて、日々歩みたいものです。「聖霊よ来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように」(「聖霊の続唱」参照)と祈りつつ・・・。



☆6月4日聖霊降臨祭礼拝 説教「弁護者」要約:

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ福音書14:16

 64日(日)は今年の聖霊降臨祭。主が天に帰られた後、弟子たちの群れに聖霊が降ったことを祝う祭りです。別の弁護者=聖霊が来てくださって、信仰共同体が生まれました。それが教会のはじまりと言われます。




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by aslan-simba | 2017-05-30 20:21 | Comments(0)

パンドラの希望

 ギリシア神話のパンドラの箱の物語、ご存知ですか。最初に地上に送られた女性パンドラは、禁止されていた箱のフタを開けました。途端に箱の中に封じ込まれていた病気、災害、戦争、飢餓、貧困、妬み、嫉妬などのあらゆる厄災が、一気にこの世界に飛び散ったのです。慌てて箱を閉じたが後の祭り。しかし箱の中に一つだけ残っていたものがあります・・・希望です。 
 

 最後に残された希望の大切さ・・・。先日、何十年かぶりに『夜と霧』を再読しました。『夜と霧』は、アウシュビッツに収容されたユダヤ人精神科医で心理学者のヴィクトル・フランクルの記録です。原題は「強制収容所における一心理学者の体験」。一日をパンひとかけらだけで重労働させられる悲惨な環境の中、それでも「自分には未来がある」 と信じ得た僅かな人たちは、最後まで生き伸びることができたのです。「人は確かな希望があれば、絶望的状況におかれても、それを乗り越えることができる」。この本は、そんなことを教えてくれます。

 それは使徒
パウロの言葉とも重なります。「現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光に比べると。取るに足りない・・・被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている・・・、わたしたちも神の子とされること、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ81824参照)。全き救いの日の希望が、現状のさまざまな苦難に対峙しつつ伝道するパウロを鼓舞し、彼に生きる勇気と力を与えていたことが分かります。私たちも自らの抱える日々の問題や困難な状況に、右往左往させられてはなりません。

 「希望の日」は、それを超えた先に必ずあるからです。 いつの時も、地上には絶えず混乱と困窮、苦悩と悲しみが渦巻いています。それでも、私たちには、神から与えられた希望があることを心に刻みましょう。パンドラの箱の開いたこの世にあっても、確かな希望がある! その「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ55)。初夏の麗しい緑の木々も、そう私たちに語りかけているようです。


5月28日説教「我に来たれ」要約:

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ福音書7:37)

主イエスは、「誰でもご自身の許に来るように」と、私たちを招かれます。それは救い主である主が、私たちに聖霊を与えて下さる御方だからです。聖書は、私たち赦された者として、聖霊に与かり、神との交わりの中に生きる恵みを告げます。感謝




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by aslan-simba | 2017-05-23 17:18 | Comments(0)

今日も頑張ろう!

 薫風の季節、新緑がまぶしく輝きます。通勤、通学、買い物といった外出の道が、緑豊かな初夏の時を楽しませてくれます。この「今の時」に只々感謝し、日々歩んで行ければ良いのですが、心の内には、さまざまな思い煩いや不安が今日もよぎります。そんな折に心に刻みたい聖句は「今や恵みの時 今こそ救いの日」という使徒パウロの言葉です(コリントⅡ62後半)。

 この聖句はすぐ前の表現「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。 救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられる」と結び付いています。すなわちパウロによれば、私たちを救う「神の救済の出来事は既に成就した」ということなのです。 これを受けての「今
や恵みの時 今こそ救いの日」・・・。

 つまりパウロは、こう言おうとしているのでしょう。「キリストの十字架と復活によって、あなたは既に救われているのです。今や、大いなる恵みの中であなたは生かされているのです。そのことにしっかり思いを注ぎ、今を生きなさい」ということです。実に大切なことだと思います。なぜなら、そのことを自覚できる時に、神さまから頂いた恵みが、私たちの「今」を支え始めてくれるからのです。 そこに過去の束縛から解き放たれた「今」があります。また、神さまの大いなる配慮の下にある未来へと向かう「今」があることも示されるのです。私たちは、神さまの導きを信頼して、「今」を懸命に生きれば良いのです。

 あるお坊さんがこう記していました。「今という時を生きる。今の時を喜ぶ。こうした中にこそ、私は永遠の生命があるように思います。体は時間が経てば老いていきます。体の自由も若い時に比べればきかなくなりますが、変えることのできない過去にとらわれるのではなく、この『今』というと瞬間に全てをかけて生きる姿こそが、何ものにも揺らぐことがない、心の安らぎをもたらすのであると思うのです」。味わい深い言葉です。

 あらためて今日という日を、神と共にあり、生きたいと願います。今日も頑張るぞ!


☆5月21日「言葉への信頼」要約:

「・・・ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(ルカ福音書7:7)

 ローマの百人隊長が主イエスに語った言葉です。そこで言い表されているのは、主の御言葉に対する徹底した信頼です。イエス様が語られるならば、その御言葉は必ずかたちになることを彼は信じていたのです・・・。彼は主の御言葉の背後にある大きな力、神の「権威」(8節)に気づいていました。

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by aslan-simba | 2017-05-17 06:38 | Comments(0)

ゆだねる

 教会へ行く時、学校へ行く時も、外出の際には必ず背中にバックパックを背負う。

 先日の休み明け、借りていた本や講義資料などの重い荷物を負ってキャンパスの上り坂を歩んだ折、ふと
徳川家康の遺訓が脳裏を走った。人の一生は重荷を負て 遠き道を行くが如し・・・」と。もっとも押し潰されそうな問題を抱え、足を引きずっていた訳ではない。ただ、何がしかの心配事は、私の中にも日々ある(コリントⅡ112829参照)。おそらく人は誰でも、それぞれに何らかの重荷を負って、人生の道を歩まねばならないのだろう。

 聖書は告げる。「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたをささえてくださる。 主は従うものを支え とこしえに動揺しないよう計らってくださる」(詩編5523)と。それならば、どのようにして神さまにゆだねたらよいのだろうか。

 その関連で、カト
リック司祭で神学者のヘンリ・ナウエンが記した空中ブランコの名人の言葉が、参考になるかも知れない。それを要約すると、「サーカスの観客は空中ブランコの飛び手がスターだと思っているが、本当のスターは受け手だ。飛び手がうまく飛ぶ秘訣は、すべてを受け手にまかせること。飛び手は受け手に向かって飛ぶ時、ただただ両手を拡げて受け手がしっかり受けとめてくれると信じてジャンプするだけ。最悪なのは飛び手が受け手をつかもうとすることなのだ」と。

 ナウエンは名人のこの話を受けて言う。「恐れなくてもよい。私たちは神さまの子ども、神は死という闇に向かってジャンプするあなたを、闇の向こうでしっかり受けとめてくださる。あなたは神さまの手をつかもうとしてはいけない。ただ両手を拡げて信じること。信じて飛べばよい
」と・・・。 まさに讃美歌で歌われている通り。「主にまかせよ、汝(な)が身を、主はよろこび たすけまさん・・・」(讃美歌291)だ。

 そのように神にすべてをゆだねた時、キリストの言葉が響く。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11
:28口語訳)と。また詩編37にはこう記される。「主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい あなたの正しさを光のように あなたのための裁きを 真昼の光のように輝かせてくださる」(4-6節)。もっともっと神さまに信頼して行きたい。


514日説教「世に勝つ信仰」要約:

「・・・あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っているヨハネ1615

 私たちの人生、「苦難」はあります。しかし、主イエス言われるのです。「勇気を出しなさい」と・・・それは単に「強くあれ」ということではない。この御言葉には「安心しなさい」という含みもあるのです。大丈夫です。その主が共にいてくださいます。

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by aslan-simba | 2017-05-11 19:26 | Comments(0)

 「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」、松尾芭蕉と同門だった江戸の俳人・山口素堂による句です。(正しくは「目には青葉・・・」)。季語を三つ重ね、目にも鮮やかな「青葉」、初夏を告げる「ほととぎす」、そして旬の「初鰹」が詠われます。

 この時期は、黒潮に乗って鰹が太平洋沿岸を北上する上り鰹(のぼりかつお)のシーズンだそうです。江戸っ子は上り鰹を珍重し、
「女房を質に入れても初鰹」とまで言いました。子供の頃に父がこの川柳を解説してくれた記憶があります。「初鰹を食べると縁起が良い」「長生きできる」といった話と共に・・・。

 京都の人とは違い、東京の庶民は、旬の食べ物や初物にさほど関心ないように思いますが、父も母も「初鰹」を食べることには、結構こだわりがありました。昔の下町では、大金を払ってでも初鰹を食べるのが「粋(いき)」だ、とされていたからでしょう。そういえば、こんな川柳もありました。
「まな板に 小判一枚 初鰹」。

 なおホトトギスについても、東京つながりの記憶が甦ります。ホトトギスの鳴き声は「トウキョウトッキョ
キョカキョク(東京特許許可局)」だからです。これを得意そうに教えてくれたのは、幼き日の2歳上の東京の従兄弟でした。彼とはここ十年ほど、没交渉になっていますが、不思議なほど、半世紀以上も前の会話を鮮明に思い起こします。つい昨日のことのように。本当の昨日の記憶は、既におぼろになっていても・・・です(こんな調子で大丈夫かな)。

 ところでホトトギス、漢字で書くと「不如帰、蜀魂、子規」。他にも色々な表記や異名がありますが、大昔、蜀の国の王様が王位を追われ、失意の内に死去。その魂が鳥となり「帰るにしかず(不如帰)」と血を吐くまで鳴き続けた。そこからこの鳥のくちばしが赤くなったのだ、とか。
俳人の正岡子規は結核で血を吐くようになったため、そんなホトトギスに自らをなぞって「子規」命名した由。これは高校時代の現国の授業で聞いた話です・・・。

 この季節、輝く新緑を見上げ、初鰹をおいしく食し、ホトトギスの音に耳を傾けましょう。鳴き声がまだ聞こえないなら「鳴くまでまとうホトトギス」と、のんびり行きましょう。5月病にはご用心! 主も言われます。「空の鳥を見なさい・・・」そして「思い悩むな」(マタイ6章)と。


☆5月7日説教「友なるイエス」要約:

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ福音書1515

 イエス様は御自身に関わるすべてのことを、弟子たちに語られました。そして宣言されたのです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と・・・。



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by aslan-simba | 2017-05-02 08:21 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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