春の日の花と輝く・・・

 いよいよゴールデンウィーク、若草も野山に漲り、萌え出た木々の若い芽も、美しく輝いています。

 ふと、高校時代に音楽で習った歌が口をつきます。「
春の日の花と輝く うるわしき姿のいつしかにあせてうつろう 世の冬は来るとも わが心は変わる日なく おん身をば慕いて 愛はなお緑いろ濃く わが胸に生くべし」・・・昭和の音楽家・堀内敬三の美しく格調高い訳詞です。曲は古くからあったアイルランドのメロディーとのこと。讃美歌にもこれを利用したものがありました(讃美歌467)。

 
春の日の花と輝く」の原詩は18世紀のアイルランドの詩人によるもので、原題は「Believe me, If All Those Endearing Young Charms」(信じて欲しい。仮に若さが人を引き付ける魅力の全てとしても)。

 今回、あらためてその原詞と訳詞を噛みしめながら気づいたのですが、この歌は歳をとっても変わらぬ愛が、歌われていたのです・・・。人の若さや美しさは、やがては色あせるもの。歳を増し加えると人は、若いときの姿は見る影もなくなる。そんなあなたとなっても、私は最後まであなたを愛し続けるだろう。私を信じてほしい・・・と。

 ともあれ、客観的事実として人は歳を取り、その容貌も衰え行きます。そういえば、私の高校の音楽の先生は、少し冴えない中年男性でした。先生がこの歌を解説し、「女は歳をとると容色衰える。もちろん男だってそうだ・・・」としみじみ語っていたのを思い出します。今となってあの先生の気持ちも分かります。もっともあの時の先生より、現在の自分の方がはるかに歳をとっていますが・・・。

 最近、朝起きた時、鏡を覗くと、自分の顔が思っているよりも、随分と年老いて見えることがあります。残念ながらミステリーではありません。ノンフィクションです・・・。でも良いではありませんか。聖書は「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」(箴言1631)と教えています。また、外国のある映画監督がこんな言葉を遺しています。「
老年は山登りに似ている。 登れば登るほど 息切れするが 視野は益々広くなる」と。

 春の日の輝きの下、
私たちの人生の山道、時々後を振り返りつつも楽しみながら行きましょう。その道が、いつの日か天の御国へとつながることを信じて。



☆4月30日説教「神の霊と共に」要約:

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません・・・霊の導きに従ってまた前進しましょう」(ガラテヤ信徒への手紙52223

 愛、喜び、平和(平安)・・・それは聖霊が支配するところに、永遠の命の現れとして生じるもの。聖霊が私たちの内に結んでくださる実であると聖書は言います。聖霊に生かされましょう!



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by aslan-simba | 2017-04-25 20:59 | Comments(0)

復活祭の季節と聖霊

 私たちの周りの自然は、天体の運行、四季の移ろいといった一定周期の変化があります。古来、人はこのサイクルを区切る宗教的な「祭り」の日を設け、生活にリズムをつけて来ました。

 古都・京都では葵祭(5月)、祇園祭(7月)、時代祭(10月)が三大祭りと言われます。それぞれに独自の歴史と豊かな季節感を表す祭りです。 キリスト教にも三大祭りがあります。クリスマス(降誕祭)、イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)です。その日本語名が示す通り、キリストの受肉、復活、そして昇天後の聖霊の派遣がテーマとなっています。ただ、それらは元々あった季節の祭りに、キリストの生涯が結び付けられたものです。

 時期は、クリスマスが1225日で固定されます(元はローマの冬至祭の日でした)。他の二つは、年により日付の変わる移動祭日(moveable feast)で、イースターは「春分の日後の最初の満月の次の日曜日」、イースター50日後の日曜が、聖霊が降ったペンテコステです(これらはユダヤ教の「過ぎ越しの祭」と「五旬祭」に対応します)。

 ところでヨハネ福音書201923節を読むと、復活して弟子たちに顕れたキリストは、ペンテコステの日を待たずにすぐ、彼らに聖霊を授けたとされます。「イエス、弟子たちに現れる」と小見出しが付いたその箇所(新共同訳)で、復活の主は「彼らに息を吹きかけて・・・『聖霊を受けなさい』」と述べたとあります(22)。ちなみに聖霊を受けるとは「命の息」に与ることで、不安や恐れ、悲しみから解放され、キリストの平安の内に新たに生まれ変わることです(創世記27、エゼキエル書3710)。

 このように、復活祭の光の只中で、弟子たちに聖霊が与えられたということは、聖霊が復活の「命の霊」、「力」であり、私たちにとって如何に大切なものであるかを告げています。なおイースターは西欧において、自然の甦りを告げる古くからの春の祭りとも結びつき、受容されて来ました。私たちの周囲も今、野にも山にも新たな春が生まれています。そんな復活の力に生かされる自然に心をとめ、聖霊の息吹を益々求め、初夏のペンテコステ、さらには冬のクリスマスへとメリハリをもった歩みを続けたいものです。


☆4月23日説教「平安あれ」要約:

「『・・・父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』・・・彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネによる福音書202122参照)

 主は、私たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、この世へと私たちを送り出してくださいます。そのことがあの日、彼らに起こり、そして主の日の礼拝において私たちに起こるのです。



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by aslan-simba | 2017-04-18 21:09 | Comments(0)

 ヨーロッパ中世、修道院の標語になっていた言葉の一つにメメント・モリ(mementomori)があります。普通、「死を想え」、「死を覚えよ」と訳されます(直訳は「死ぬことを忘れるな」です)。聖書的には「生涯の日々を正しく数えることができるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(詩編902、モーセの祈り)が典拠とされ、どこか哲学的情感を覚える表現です。

 もっとも、この言葉が声高に叫ばれた背景には、多くの不条理な死が現実に身近にあった為なのです(戦争や黒死病による死など)。それは今の私たちの感性とは大きく異なります。現代の日本人は、「平和ボケ」等と揶揄されますが、その豊かさの中にある日常生活は、どこか緊張感を欠き、また「死」とは切り離されています。

 しかし、そんな今の私たちでも、年齢を重ねると、死について無関心のままでは済まなくなります。たとえば中世の日本人・一休禅師の言葉、何か響きませんか。「
門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」、「世の中は起きて 箱して(脱糞して) 寝て食って 後は死ぬを待つばかりなり」、そこに死を恐れず自然な営みとして受け容れる、日本的メメント・モリの骨頂があるのでは・・・。


 そうは言っても、臨終の際の一休は、 「死にとうない」 と語ったそうです。その場にいた弟子達は慌てて「本当ですか」と彼に聞き返す。すると「ほんまに、ほんまに」と述べて冥途へと旅立った・・・とか。さすが頓智の一休さん。どこか人間臭く、否、そこに深い禅的な意味もあるような、実に興味深い逸話です。ならば私たちは自らの臨終に際しては、どう語るでしょうか。

 ともあれ、私自身、死を考える時には、共にある復活の主へと思いを馳せます。キリストの死と復活を覚えることによって、真に死後の希望へと導かれると信じるからです。そして、そこから翻り、今を真摯に生きるようにと導かれます。私たちは主に在って、また新しくされ、死を超えた未来における救いの完成へ向けて、これからも生かされて行くのです。そうです。「わたしたちは、このような希望によって救われている」(ローマ824)。 イースターおめでとうございます。



416日 復活祭礼拝説教「復活の主」要約:

「なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」(ヨハネ福音書2015

 私たちが涙に暮れ、泣くことしかできない時にも、主イエスは呼びかけてくださいます。その時、私たちは知ります。私たちが気づかなくとも、主が共にいてくださっているということを・・・。そして「もう泣かなくても大丈夫だ」と御声をかけてくださっていることを・・・。


★桃山栄光教会の復活祭(イースター)礼拝:

416日(日)午前10301130頃です。お気軽にお越しください。





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by aslan-simba | 2017-04-12 21:50 | Comments(0)

桜の季節に思う

 例年より数日遅い開花宣言を経て、桜の季節が巡ってきました。やっと春です。何故かフーテンの寅さんのセリフが口をつきます(この前の柴又モードの余韻でしょうか?)。「桜が咲いております。懐かしい葛飾の桜が。思い起こせば20年前のこと・・・」。

 ただ寅さんならずとも、桜の花は私たちに様々な思い出を語りかけます。20年前、否、50数年前、満開の桜の日―だったような気がする―に行われた小学校の入学式、さらには卒業式。また穏やかな日差しの下、日が暮れるまで存分に遊びほうけた、宿題のなかった小学生時代の春休み等・・・遠い記憶が甦ってきます。

 松尾芭蕉がこう詠っています。「さまざまの事おもひ出す桜かな」。思い出を呼び起こす桜の力。ちなみに、この句は「おくのほそ道」の旅に出る前年、父母の墓参で故郷の伊賀上野に戻った折に詠んだものだそうです。桜の花は無常観、「もののあはれ」という美意識と共に、人の生涯を思いやる心も導くのでしょう・・・。

 つい先日、用をしながら、ふと祖母の語った言葉と命日の日付が脳裏を走りました。60年近く前に亡くなった祖母のこと、普段考えたこともありません。ましてや命日など、全く記憶にありませんでした。気になって調べてみたら、示された通りでした。明治生まれの祖母は、昭和半ばの桜の季節に亡くなっていたのです。 そういえば、芭蕉の敬慕した西行法師がこう詠っていました。「願わくは花の下にて春死なんその如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ」と。今年のレントは祖母の死も思い起こせ(メメントモリ)と告げられたように思います。


 ところで明治のキリスト者・新渡戸稲造はわが桜木は、その美の下に刃も毒も隠しておらず、自然が呼ぶ時にいつでも生を捨てる準備ができている。その色は華美ではなく、その香りは淡く、人を飽きさせない」と述べ、桜を武士道と結んでいました(『武士道』15章)。

 祖母がなきむしだった幼少の私に語ったのも「優しさと共に、武士の精神をもって、いさぎよく生きろ、強くなれ」という事だったと思います。もっとも今なお強くない私ですが、忠義をもって主君に仕える侍の如く、誠の道をもって主イエス・キリストに仕える者ではありたいと願います。主よ、助けたまえ!





☆4月9日棕櫚の主日礼拝説教「御心のままに」要約:

「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(ルカ福音書2246

 試練の中、祈らねばならぬ時に、実際には祈りをやめてしまうことがある。しかし、霊的に眠り込むならば、私たちと共にある十字架の主は、遠い存在になってしまう。主の御声を覚え、いつも祈れる者でありたい。


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by aslan-simba | 2017-04-04 09:25 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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