春一番と早春賦

 20日に「近畿地方で春一番が吹いた」と報道されました。春一番は立春の後、初めて吹く暖かい強めの南風ですが、近畿では四年ぶりに吹いた由。毎年必ず吹くものだと思っていたのですが・・・期間が立春から春分の間と規定されているために、無い年もあるとのこと。案外知らないことの多い自分に気づかされました。

 ついでに、春一番が吹けば暖かさはしばらく続き、寒さの揺り戻しは何週間か先に起こるものだとイメージしていましたが、これも違いました。春一番の吹いた翌21日は冬型気圧配置に戻り、厳しい寒さの一日となりました。暖かい春は、まだまだ先という事でしょう。

 ふと母が「二月は一年で最も寒い時期。如月(きさらぎ)は『衣更着』とも書く」と言っていたことを思い起こしました。また母がこの時期に、よく歌っていた曲も口をつきます。「春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず ・・・」。早春賦と題する大正時代に作られた唱歌です。

 この歌について、幼かった私と妹に「ウグイスは春を告げる鳥だけれど、寒い時期は谷にいるのね」と語ってくれた母の笑顔が脳裏を走ります。 そういえば小学生の頃の私は、この歌から二月のウグイスは谷にいて、三月に「梅の小枝でウグイスが・・・」鳴き始めるものだと、頭の中で整理していました。 ともあれ、まだまだ寒い日が続き・・・ウグイスの声は聞こえてきません。

 しかし考えてみると、春浅き日々の寒さは、恵みかも知れません。それは寒さが厳しければ厳しいほど、本格的な春の到来の喜びは一段と大きなものとなるからです。また春に咲く植物は、寒さにさらされることで、開花に向けた花芽が始動開始すると言います。

 私たちの人生も、永遠の命の花をつけるまでは、なおしばしの時、厳しさに耐えねばならないでしょう。ちなみに今年の教会暦に従えば、レント(受難節)は3月1日から。イースターはまだまだ先です。それでも私たちは主に在って、御国の全き春が、私たちに必ず到来することを、御言葉によって知らされています。聖霊の暖かい風は、今日も私たちの心の内に吹いています。感謝


☆2月26日説教「命を与える霊」要約:

「命を与えるのは『霊』である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ福音書6:63)
 朽ち行く地上のものを、主は「肉」と呼ばれ、「命」を与えるのは「肉」ではなく「霊」である、と語られます。その「命」とは、目に見えない永遠なる神の霊のお働きとして、私たちに与えられるのです。



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by aslan-simba | 2017-02-23 14:37 | Comments(0)

老いの重荷は神の賜物

 人は望まなくとも老い、体が弱り、また病を患う・・・。身近な人々を見つめながら、そんなことを思わされます。身体の衰え、若い頃はそれを自分には関係ないものと考えていましたが、寄る年波には勝てません。いつしか自分の問題でもあることに気づくようになってきました。

 原始仏典にこんな言葉があります。「
愚かな凡夫は、みずから老いゆくものであるにもかかわらず、他人が老衰したのを見て、悩み恥じ嫌悪している。わたしもまた、老いゆくものであるにもかかわらず・・・」(中村元『ゴータマ・ブッダ』参照)。お釈迦様が、老いを他人事として見つめた、自身の若い頃を回顧して語った言葉だそうです。誰もが若い時には、自らが老いることには、なかなか思いが及ばないものなのかも知れません。

 
聖書は、人の体を土の塵で造られたといいます。だから、その「自然の命の体」(コリント二1544)は脆く、加齢とともに衰え、やがて朽ち果てるのは当然でしょう。しかし、そのような私たちが、「霊の体」に与かる全き救いの時が来ることも、聖書は教えてくれます。そこに確かな希望があります。この衰え行く肉体の彼方には御国の救いがあるのです。

 以前、ホイヴェレスという神父が紹介した「最上の業」という詩に、こんな節がありました。「・・・
老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。 まことの故郷へ行くために! 己をこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは真にえらい仕事。 こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。 神は最後に一番よい仕事を残してくださる。 それは祈りだ。 手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。 愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために!・・・」と。

 「
老いの重荷」は「神の賜物」として与えられているということ、有り難い話です。さらに私たちは、祈り、祈られる恵みの中に、いつまでも生かされて行くのです。 人生の最終段階において、たとえ何もできないようになったとしても、最後まで祈りを為すことだけはできる者でありたいと願います。


☆2月19日説教「主に倣う」要約:

「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(ペトロの手紙一2:25

 魂の牧者であるキリストが、今日も御自身の御跡に続くよう私たちを招いておられます。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍び、恵みの現れとなりなさい」(20節)、「・・・キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(21)と。



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by aslan-simba | 2017-02-14 22:26 | Comments(0)

聖バレンチノの日

「歳月人を待たず」と言いますが、早いもので2月も中旬に。その2月真ん中の14日は「バレンタインデー」です。この日はロマンスの日、「愛の日」などとも言われます。ただ、「愛」と言うと、私にはまず「神の愛」「キリストの愛」の方が思い浮びます。仕事柄でしょうか、それとも年齢のゆえ・・・。否、それだけではありません。実はこの日は、教会にも関連があったのです(と言ってもカトリック教会の話ですが)。

 四十数年前までは、214日は「聖バレンチノ(バレンタイン)の日」とされていました。 伝説によると、
バレンチノ司教は、子どもをはじめ家畜などの病も、愛をもって治したそうです。そこから子どもや家畜を守護する愛の聖人とされ、人々に親しまれました。 もちろん、彼はキューピット役も果たしました。彼の働いていた3世紀のローマ帝国では兵士の結婚は『士気が落ちる』という理由で禁止されていたそうです。そのような若者たちを憐み、若い恋人たちをこっそりと結婚へと導いたのだとか・・・。それが皇帝の怒りを買い、結果、司教は214日に処刑されてしまったのです。

 もっとも、この聖バレンチノの記念日は1969年に教会暦から削除されています。理由は、同じ頃にローマで殉教した同名の司教が他にも存在した為、その業績が混同され、史実性が確定されないためだそうです。 いずれにせよ、この日のそもそもの起源は、愛の働きをもって生きた司教を覚える日ということでしょう。それは聖書の教える愛と重なるのです。  


「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。・・・信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリント一13章より)。 214日をロマンスの日(14世紀以来の西欧の伝統)とするのは結構ですが、同時に信仰、希望と共に大切にされる愛を覚える日としても受け止めたいものです。なお、フィンランドではバレンタインデーを「友情の日」という友愛に思いを寄せる日としているそうです。


212日説教「恵みの座へ」要約:
わたしたちには・・・偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている・・・だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ人への手紙41416

目の前の現実がいかに厳しくとも、それが全てではありません。恵みの神は、ご計画を進めておられます。まだ見ていない先に全き救いがあるのです。これからも見えない御方に目を注ぎ、恵みの座にしっかりと近づこうではありませんか。








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by aslan-simba | 2017-02-09 12:18 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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