寒梅の季節に思う

 今年も早2月・・・未だ寒い日が続きますが、暦の上では3日の節分を境に、4日に春が立ち、梅の蕾もほころび始める時期となります。梅は松、竹と並べ「松竹梅」として、おめでたいものの一つと言われます。

 
梅・・・私の父親はこの花が好きで、元気な頃は東京の湯島天神の観梅を楽しみにしていました。父の命日は、その開花少し前の123日。奇しくもあの新島襄と同じ祥月命日です。ちなみに母の命日は新島夫人の八重と同じ614日。これを何かのご縁というのは、実におこがましい話ですが、何か有難いような気がして・・・。 ともあれ、新島襄は「百花の魁(さきがけ)」である梅の花を心底、愛した人でした。彼の漢詩にこうあります。

 「
真理は寒梅の似(ごと)し 敢えて風雪を侵して開く」と。まことの道を歩む厳しさと忍耐を寒梅が示しているようです。 なお禅語で「梅は寒苦を経て清香を発す」と言われるように、厳冬に耐えて、美しい花をつけ、良き香りを放つ・・・そこに梅の花の矜持が示されます。

 米国に学んだ最初の日本人牧師で教育者、「自由教育 自治教会 両者併行 国家万歳」を終生のモットーに、神と日本の近代化のために命を賭した新島襄の人生・・・。その生涯に、この梅の花に示される「忍耐」を憶えさせられます。 また、昭和の時代を懸命に生きた私の父母、一介の庶民に過ぎなかった彼らも寒苦に耐えた人だったと思います。あの時代を生きた大半の日本人が、均しくそうであったように・・・。

 さて5年前に亡くなったジョン・ヒックという英国神学者のバーミンガムのお宅には、この新島の漢詩の掛け軸が据えられていたそうです。ここに宗教多元主義というヒックの思想を詳述する紙幅はありませんが、彼も本当に忍耐の人でした。梅の花と忍耐・・・。

 新島襄はこんな寒梅の詩も詠んでいます。
庭上(ていじょう)の一寒梅(いちかんばい) 笑って風雪を侵して開く 不争(あらそ)わず又(また)力(つと)めず 自(おのずか)ら占()む 百花の魁」。「庭先に見る一本の早咲きの梅、風雪にめげず、微笑みをたたえて花開く。誰かと競い争うではなく、力んで無理をするのでもない、自然なさまで、あらゆる花々の先駆けとなる」。私たちの日々の信仰の歩み、忍耐しつつも、そんな謙虚さと自然体をもって花開けるよう精進したいものです。


☆2月5日説教「真の喜び」要約:

「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました・・・わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たして下さいます」(フィリピ410,19参照)

 教会に於いて、与えることも、支えることも全て主との関わりにおける事柄です。そこには人が与える喜びだけではなく、天から頂く喜びがあるのです。

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by aslan-simba | 2017-01-31 20:01 | Comments(0)

ここに愛がある

 サラリーマンになりたての頃、通勤電車の中で遠藤周作の文庫本をよく読みました。なかでも『おバカさん』と『沈黙』は今なお強く心に残っています。

 『おバカさん』、主役は日本に来たナポレオンの末裔ボナパルト・ガストン。ご先祖様に似ても似つかない
臆病で無類のお人好しのフランス青年で、容姿はイケメンの真逆。彼は行く先々で騒動に巻き込まれ、自ら傷つきながらも、人々に愛を示す人と描かれます。物語の流れから、彼はさながら昭和の日本に現れた受難のキリストのようでもありました(イザヤ書53章の「苦難の僕」を体現したような・・・)。この主人公ガストンの姿に胸打たれました。

 『沈黙』、
米国の著名監督による映画化で今、話題になっています。この小説で特に印象深かったのは、踏み絵を前にした、転びバテレンのロドリゴが聞いたキリストの御声です。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番良く知っている。踏むがいい、私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前達の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」と。心熱くなりました。映画はどう描いているのでしょうか・・・。

 ところでカトリック教会暦では、25日は「日本二十六聖人殉教の日」です。
159725日、豊臣秀吉のキリシタン禁止令で捕らえられたフランシスコ会宣教師6名と日本人信徒20人が、長崎の西坂で処刑された記念日。この日の祈りをカトリックの『聖人略伝』は、こう記します。「信じる者の力である神よ、あなたは日本の26聖人を、十字架の死を通して永遠のいのちにお召しになりました。この殉教者の取次ぎを願うわたしたちが、死に至るまで力強く信仰をあかしすることができますように」。420年前に帰天した雄々しき信仰の先達たちを覚えたいものです。

 他方、転んだロドリゴ・・・モデルは実在のイエズス会宣教師のジュゼッペ・キアラ司祭。17世紀の日本に来て、捕らえられ、拷問の末に棄教。日本名を得て江戸に住み、82歳で亡くなりました。彼はどんな思いをもって、後の人生を過ごしたのでしょうか・・・。

 ただこれは言えると思います。キリストの十字架は、聖人たちのみならず、そんな転んだ者のためにも、否、すべての人のためであったのだ、と。「わたしたちが神を愛したのではなく・・・神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛がある」(ヨハネの手紙4章参照)



129日説教「試練と信仰」要約:

「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブの手紙12
 ヤコブは試練の価値を知っているからこそ、このように私たちにこう勧めるのです。私たちは人生の試練の只中にある時こそ、心をしっかりと神さまに向け、祈らねばらないのです。そして、本気で神に願うことが、私たちの信仰を強め豊かにされるのです。


 



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by aslan-simba | 2017-01-27 08:11 | Comments(0)

 「救いの源である神よ、あなたは使徒パウロの宣教によって、全世界に信仰を伝えて下さいました」(P.ジュネル『聖人略伝』より)。
 
 草創期のキリスト教を広く世界へと広めた最大の貢献者は使徒パウロでしょう。伝道のために彼が歩いた道程は3300km、それは北の択捉島から南の与那国島までの直線距離に匹敵します。また彼の手による書簡は新約聖書の2割を占めます。この人を外してキリスト教は語れません。

 パウロは
紀元1世紀初期、ローマ市民権を有するユダヤ教徒として小アジアに生まれ、育ちました(ちなみにパウロはローマ名、ユダヤ名はサウロ)。長じてエルサレムに留学、碩学ガマリエルの薫陶を受けました。 125日は、その彼がキリスト教へと回心した日とされます(「聖パウロ回心日」、カトリック教会、聖公会の教会暦)。その出来事を使徒言行録はこう記します。


「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムへ連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル(サウロのこと)、サウル、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答があった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである・・・』」(9:1-5参照)

 パウロは熱心な宗教的思い込みゆえに「イエスをキリスト」とする輩を神を冒涜する者とし、許しませんでした。 ダマスコへとそんな人々の迫害へ向かう途上、突如、復活の主に出会い、回心を遂げたのです。このことを契機に、彼は伝道者として立てられて行きます。

 さて、この使徒パウロの言葉からは色々学ばされます。私は特にどんな状況にあっても、信仰をもって主体的に生きる術を示されます。彼の使う「忍耐」という語、その意味は「その下に止まる」です。重荷を投げ出すのではなく、その下に止まって常に強くなれ・・・と。「堅忍不抜」でしょうか。苦難を恵みへと変えるのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」(ローマ5:3ー5参照)。まさに至言です。


122日説教「上なる御方」要約:

「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」(ヨハネ福音書823

 主は天(上)に属し、私たちは地(下)に属しています。ゆえに、本来の私たちは、この地上のことだけに縛れて生きて行く他なかったのです。しかし主イエスは私たちのために天の扉を開き、私たちを永遠の命へと招いて下さったのです。

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by aslan-simba | 2017-01-19 09:21 | Comments(0)

冬がきた・・・二つの詩

 寒さが一段と厳しくなってきました。今がちょうど味噌や酒の仕込みの時期だそうです。暦を見れば、もうすぐ大寒・・・。

 中学生の頃、朝早くから学校の体育館で白い息をはきながら剣道の寒稽古をしたことを思い出します。もう半世紀も前の話です。あの頃、学校でこんな詩を学びました。

きっぱりと冬が来た 八つ手の白い花も消え 公孫樹の木も箒(ほうき)になった  きりきりともみ込むような冬が来た 人にいやがられる冬草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た  冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ しみ透れ、つきぬけ 火事を出せ、雪で埋めろ 刃物のような冬が来た」。高村光太郎の若き日の詩です。「冬よ 僕に来い」という言葉に鼓舞されたことを懐かしく思います。「負けないぞ」と・・・。

 40歳代の半ばに京都に住むようになってから、好きになった冬の詩があります。仏教詩人・坂村真民の「冬がきたら」です。その一部を記します。

冬がきたら 冬のことだけ思おう 冬を遠ざけようとしたりしないで むしろすすんで冬のたましいにふれ 冬のいのちにふれよう 冬がきたら 冬だけが待つ 深さときびしさと 静けさを知ろう 冬はわたしに いろいろのことを教えてくれる 先ず沈黙の大事なことを すべての真理は この沈黙のなかからのみ 生まれてくることを」。

 
厳しい寒さから逃げ出さずに、進んで冬と向かい合い、そこから静かな季節の息吹を知ろうと詠われています。もちろん、それは季節としての冬だけではなく、辛さや悲しみ、苦しみの人生の日々のことも指すのだと思います。また、この詩は坂村さん90歳の作とのことですから、そこに高齢期という「人生の冬」が意味されているのかも知れません。ともあれ、そういったなかにある「いのち」と「たましい」とに前向きに触れようというのです。

 そういえば中学の剣道の先生が、こんな言葉をよく言っていました。「艱難汝を玉にす」と。今朝読んだ旧約の詩119編の言葉にも、こうありました。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってあなたのおきてを学ぶことができました」(11971口語訳)と。厳しい冬に負けずに、希望の春へ心と思いを向けたいものです。


115日説教「神の小羊」要約:

「イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た」(ヨハネ福音書139

 主イエスはどこに留まっているのか。彼ら(二人の弟子)は見た。それは父の愛の中であったことを。父に信頼し、父の御心ならば十字架にさえ向かう御姿がそこにあった。さらに主の復活、弟子たちはそこに永遠の命を見たのである。



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by aslan-simba | 2017-01-13 17:46 | Comments(0)

今を精一杯生きよう!

 皆さんはお正月に、どんな初夢をご覧になりましたか。 私は結構リアルでシビアな夢を見てしまいました。

 内容は、授業の単位を取り間違えて落第しそうな学生の自分、さらには仕事を頑張りながらも、その仕事内容が把握できずに焦るサラリーマンの自分・・・。おまけにその夢の中で、こんな言葉を反復していました。 「たったひとりしかない自分を たった一度しかない一生を ほんとうに生かさなかったら 人間生まれてきたかいが ないじゃないか」・・・と。

 目覚めてから気づいたのですが、その言葉は、子供の頃に読んだ山本有三の『路傍の石』の中にあったものです。こんな初夢、いろいろと精神分析や解釈ができそうですが、まずは「まだまだ頑張れ」という天からのメッセージと受け止めておきます。

 ところで年初に『置かれた場所で咲きなさい』というベストセラーの著者でシスターの渡辺和子さんが、昨年末に逝去されたことを知りました。渡辺さんは9歳の時に2.26事件で、陸軍教育総監のお父様が眼前で殺されるのを目撃するという、本当に痛ましい経験をしました。

 長じて29歳で修道会に入り
36歳の時には、地方大学の学長職を命じられます。思いがけない重責、慣れない生活でストレスが募り、自信喪失に陥った折、ある司祭からこんな内容の英詩を貰い、励まされたそうです。「神さまがお植えになったところで咲きなさい。咲くということは 仕方がないとあきらめるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」・・・。それを踏まえ、シスターは言われます。「境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる。『現在』というかけがえのない時間を精一杯生きよう」と。

 なおシ
スターはその後50歳の時には鬱病、68歳で膠原病を患い、薬の副作用で背中の骨を損傷し、14センチほど身長が縮むという体験もされています。

 さて、
お正月休みは終わり、日常生活が始まりました。今年もこの先、さまざまなことが私たちの世界に、また私たちの身の上に起こると思います。大変なこともあるかも知れません。しかし今与えられた持ち場に感謝し、主に委ね、安んじてベストを尽くして行きたいと願います。一度しかない一生を、主が共にあって、本当に生かされたいものです・・・。
 
 「
わが行くみち いついかに  なるべきかは つゆ知らねど 主はみこころ なしたまわん そなえたもう 主のみちを 踏みてゆかん ひとすじに」(讃美歌494

 今年も、どうぞよろしく!


☆1月8日説教「聖霊による洗礼」要約:

「・・・水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」(ヨハネ福音書13334

 「主イエスこそ聖霊の洗礼を、私たちに授ける方だ」、洗礼者ヨハネはそう証言しました。主が私たちに御子の霊を降され、私たちを聖霊によって神の子としてくださるのです。ただただ有り難いことです。感謝。


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by aslan-simba | 2017-01-04 20:44 | Comments(0)

Wishing you a joyous New Year!


 あけましておめでとうございます。新たな年の皆様の歩みの上に、主の豊かな祝福をお祈り申し上げます。さて、お正月を如何お過ごしでしょうか。お正月遊びの一つに「福笑い」がありますが、ご存知ですか。子供の頃のお正月、東京の祖父の家で、大人も子供も大笑いしながら、この遊びに興じたことを思い出します。半世紀以上も前の昭和時代の話ですが。


 笑いといえば、ことわざにも「笑うかどには福来る」、「笑って損したものなし」「一笑一若」(いっしょう、いちじゃく・一つ笑うと一歳若返る)など色々あります。私たちの先人はこのように、「笑う」ことが人生を幸せに導くものと信じていたのです。だから「笑い」はお正月に欠かせない吉事の一つに数えられて来ました。

 医学的にも「笑う」ことは、心身にとって良いと言います。笑うことで、全身の血流が良くなり、心臓の働きを良くすることから循環器系の疾患の治療に効果が大きいとか。 さらに「笑い」は、大脳の活動も活発にさせ、意欲や向上心を起こさせ、ストレス解消に良い影響を与えるとも言われています。まさに「笑いに勝る良薬なし」でしょう。旧約聖書にも「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」(箴言1722新改訳)とありました。

 た
だ残念なことに福音書には「主イエスが笑った」との記述はありません。でもご安心下さい。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた」(ルカ1021)とあります。また主は人々にこう命じられています。「喜びなさい。大いに喜びないさい」(マタイ512)と。主イエスもしばしば笑顔になられたと思うのです。


 なお「笑い」に関するこんな英語の名言があります。“
Sometimes your joy is thesource of your smile, but sometimes  your smile can be the source of your joy”(喜びはときに笑顔の源泉となるが、笑顔が喜びを生み出すこともある。ティク・ナット・ハンの言葉)・・・。 新たな年、どんな時も笑顔を絶えせずに歩んで行きましょう。「常に喜べ 絶えず祈れ 凡てのこと 感謝せよ」(テサロニケ一51618)・・・

(^○^)

☆1月1日説教「主に望みを」要約:

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ4031

 「望みをおく」の原意には「待つ」という含みがある。希望をもって主を「待ち望む」。その時、神は私たちに新たな力を与えてくださる・・・。この年の第一歩をこの御言葉に支えられ、踏み出したい。









 










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by aslan-simba | 2017-01-01 08:18 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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