江戸っ子と洛中人

 この前の日曜日は「父の日」、母の日と並んで米国の教会の中から出てきた記念日。この日を提唱した女性の父親は6月生まれという。私の父も6月生まれ、また母の祥月命日もこの月。今月は私にとって「あなたの父母を敬え」を憶える月だろうか・・・。

 私の父母は東京中央区日本橋の出身で父が四代目、母が七代目の江戸っ子。それは彼らの誇りの一つだった。この「江戸っ子」、時折耳にする「京都人」、「洛中人」の評判と重なるところもあるかもしれない。 先日「千年の古都のいやらしさ、全部書く」との帯が掛かった新書『京都ぎらい』を読んだ。著者は「洛外」の嵯峨出身で宇治在住の日本文化研究者。自身への洛中人の対応「嵯峨は京都とちがう・・・」を通し、京都文化論を展開する。同書の東京や政治への言及に違和感を覚える箇所もあったが、総じて楽しめた。

 ちなみに洛中とは、上京区、中京区、下京区といった京都市中心部。洛中人にとり、それ以外は京都ではない。同様の地域区分は東京にもある。中央区・千代田区は間違いないが、それから先「本郷もかねやすまでは江戸の内」と言われ、港区・文京区・台東区・江東区・新宿区辺りまでが江戸っ子の範囲。

 なお日本橋でも母の方は商人、父の方は町人の地域。その気風にも差があった。母はさっぱりした明るい人だったが、叔父や叔母には多少、京都的「いけず」を感じた記憶がある。父および父の親戚の方は、どこか「おっちょこちょい」だった。それが埼玉に「都落ちした」一因だったのかも知れない。ともあれ父は終生「粋(いき)」であることを信条とし、「無粋」(江戸っ子は「ぶいき」と読む)を嫌った。いつまでもさわやかで恰好よく、きっぷの良い人間であろうとしていた。今回の東京都知事の問題、父母が生きていたら何と言ったか。

 ともあれ、そんな両親の血を受け継いだ私だが、江戸っ子のアイデンティティはない。またそういった地域性に拘る感性を以前はナンセンスだと思っていた。けれども故郷を愛する心の大切さが分かるようになってきた。江戸、洛中、洛外であれ、どこであれ、故郷を誇る思いは大事にして欲しい。なお江戸の範囲からは外れる北区出身の私は、あえていえば宇治在住の東京人か。ただ埼玉出身者ではないので・・・。


☆6月26日説教「キリストの体」要約:
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分からなっています。・・・あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(コリント信徒への手紙一12:14、27)。
 私たちはただただ神さまの恵みによってキリストに結ばれ、その「体」の部分とされたのです。何ともありがたいことです。互いにこの事実に気づき励まし合いつつ歩みたいものです。
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by aslan-simba | 2016-06-22 06:25 | Comments(0)

Those were the days

 聖書の天使に関する記述を調べつつ、ふと独特な曲調の「悲しき天使」という歌を思い起こした。数年前にも、テレビCMでそのメロディーを耳にしたが、流行したのは半世紀近く前、昭和40年代中頃。受験勉強をしながら耳を傾けたラジオの深夜番組でよくかかっていた。当時、英国の女性歌手の歌のみならず、日本人歌手の日本語カバーもよく流れたものだ。

 「木枯らしの街を行く 一人ぼっちのわたし 思い出の広場で 一人足をとめる 思い出すのはあの日のこと 暖かい恋の夢 春の風と鳥の歌・・・」と歌詞がすぐに口をつくが、梅雨の今の時期に口ずさむには、何とも季節外れ・・・。

 では元の英語曲の歌詞はどうだったのかと、ネット検索して聞く(今は便利な時代だ)。 耳にした歌は、日本語歌詞とはイメージが随分異なっていた。そこには居酒屋で歌い、踊り、友だちと夢を語り明かした昔を懐かしく振り返る人の、感慨深げな思いが描かれていた。

 「愛しき友よ あの頃の日々 私たちはそれが永久に続くと思っていた。いつまでもこのように歌い踊り 生きたいように生きられる、と。 人生の闘いに決して負けるようなことなどないと思っていた 私たちは若かった。自信があった。そんな日々だった・・・」。そしてそんな若き日々を、「あの頃は良かった」「あの頃が懐かしい」(Those were the days)と歌うのである。若いメリーホプキンという歌手が、これを歌い上げていた。すごい・・・。

 というわけで、英語の歌詞に限れば「悲しき天使」ではなく、「悲しき中高年」・・・。季節外れではなく、私たちの人生の季節感からすれば丁度今だ。ちなみに英語の曲名は上述の「Those were the days」。

 「あの頃が懐かしい」・・・あの若い日々は終わり、人は年を重ねる。人だけではないすべてが変わり行く。美しい花も、やがてはしぼみ、立派な建物も、いつかは朽ち行く。まさに諸行無常、そんな世界に私たちは身を投じている。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」。

 しかし、この歌には、老けた我が身を前にしても「心の中の夢は今も変わらない」というくだりがあった。それがイザヤ書の御言葉と共振するのを覚える。「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張ってのぼる。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(40:31)と。


☆6月19日説教「和解の言葉」要約:
「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(コリント信徒への手紙二6:1)。
 私たちは神さまの一方的な恵みによって「神と和解」させて頂き、神と共に生きることが許されている。この先、世界がいかに変わろうとも、人生に何が起ころうとも、この信仰に生き、神からいただいた恵みを無駄にせず、どこまでも主と共に誠実に歩み続けたいものだ。
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by aslan-simba | 2016-06-15 13:21 | Comments(0)

プラム・レインの季節

 6月、梅雨入り。ついつい「うっとうしい」という枕詞をつけて、この時期を表現しがちですが・・・。「梅雨」の語源は「梅の実が熟す頃の雨」とのこと。「梅雨」の漢字は英語に直すと「プラム・レイン」(plum rain)、何となく詩的な感じがしませんか。

 ともあれ、この季節の雨、大事な働きをします。 都会から田舎へ移り、新たに農業を始めた方が、こんなことを書いておられました。「以前には憂鬱な季節でしかなかった梅雨が、農業を始めると、何とも心安らぐひと時に思えてきた。植物にとって、大切な恵みの季節なのだ」と。「恵みの雨」ですね。古い言葉で言えば恵雨(けいう)、慈雨(じう)でしょうか。

 そういえば聖書にも、そんなありがたい雨に関する記述が数多くあります。わけても旧約聖書の世界、砂漠の雨は文字通り恵みだったことが分かります。「わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある」(申命記11:14)、「春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ、すべての人に野の草を与えられる」(ゼカリヤ10:1)・・・。

 この時期、私たちもさまざまな美しい花々と出合います。紫陽花、菖蒲、水芭蕉・・・わけても紫陽花の花は最高です。その鮮やかな七変化を今年も楽しめます。また先日の雨の日、家の近所で白い十字架のドクダミの花が輝いているのを見かけました。思わず「ここもかみの みくになれば あめつち御歌をうたいかわし・・・」と讃美歌が口をつきました。

 そして雨上がりには、カタツムリが登場。「神さまの 大きな御手の中で  かたつむりは かたつむりらしく歩み  蛍草は 蛍草らしく咲き  雨蛙は 雨蛙らしく鳴き  神さまの 大きな御手の中で  私は 私らしく 生きる」、まばたきの詩人・水野源三さんの詩です。

 この時期、あらためて主を見上げ、前向きに、爽やかに歩みたいものです。預言者ホセアのこんな言葉を心に刻みながら・・・。「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる」(ホセア6:3)。


☆6月12日説教「本当の試練」要約:
「ソロモンが老境に入ったとき・・・彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった」(列王記上11:4)
 ソロモン王はその蓄積された富の前に晩節を汚すことになった。あらためて思う、本当の試練は、求めたものが得られたところにこそ始まるのだ、と。人は恵みと導きを下さった御方に、最後まで従い続けられるかが、問われるのである。
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by aslan-simba | 2016-06-08 22:09 | Comments(0)

天国の犬たち

 仕事から戻り、家の玄関を開け、ふと寂しさと物足りなさを感じることがあります。犬の姿が見えないことです。以前、我が家にはアスランとシンバという二匹の名犬(迷犬?)がいました。

 アスランは「和をもって貴しとなす」を信条としたような犬で、たとえば散歩は家族揃って行うものと信じていたようです。散歩に出遅れると靴に噛みつき、注意を促されました。また家族で何か声高に議論でもしようものなら、喧嘩と勘違いして仲裁されました。彼は6年前に亡くなっています。

 一方、去年亡くなったシンバ、若い頃は、私たちがそばにいると、他の犬や人に空威張りをして吠えかかり、困らされたものです。もっとも昼寝のときは両手両足を上にあげ、腹を見せて寝るようなあどけなさもありました。

 そんな彼らはいつも、玄関で迎えてくれました。特にアスランは最後の最後までそうでした。彼が亡くなっていたのは私たちの外出中、戻ると玄関で倒れていました・・・。

 今日授業で話す「十戒」の参考にとネット検索をしていましたら、「モーセの十戒」ならぬ「犬の十戒」を見つけました。それは犬が人間に語りかけるという形式で記され、こんな言葉もありました。「最後のその時まで一緒に側にいて欲しいのです。このようなことは言わないで下さい、『もう見てはいられない』、『いたたまれない』などと。あなたが側にいてくれるから最後の日も安らかに逝けるのですから。忘れないで下さい、私は生涯あなたを一番愛しているのです」。胸がつまります。

 仏教は、人には愛する者と別れなければならない別れ、愛別離苦を教えますが、犬や猫などペットとの死別もそれに含まれるでしょう。

 牧師さんに「動物には魂はあっても霊がないから、天国へは行けない」などと言う人がいますが、変な話です。聖書は動物も「神の命の息」に与っていることを記し(創1:30、6:17、7:15、22他)、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」(ローマ8:21)と言います。

 犬たちとの御国での再会も、遠い日の楽しみのひとつです。今、彼らは神さまと共に天上から私たちを見守ってくれていると信じます。


☆6月5日説教「派遣」要約:
「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ福音書3:12)
 私たちもこの身を通して、神の御業が現れることを期待し、この世に遣わされて行きましょう。
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by aslan-simba | 2016-06-03 16:23 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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