つい一週間前までは、さわやかな風が吹き、目に映る新緑をめでながら歩くのが楽しみでした。ここ数日、そんな爽快な空気の流れが一変し、どんよりした低い雲が空を鉛色に染め、じめじめした湿気に包まれる・・・。そのせいか頭が重く、仕事の効率も多少落ち、疲れやすさを覚えます。このような時期・・・現在に限らず、昔から苦手でした。ここは「諦め」が肝心と、気を取り直します。

 実はこの「諦め」、何とかしようという気持ちを止めることを意味しますが、そもそもこの言葉の起源、仏教語の「諦め」はニュアンスが異なります。諦めの「諦」は「真実」を意味するサンスクリット語の漢訳語。つまり「諦める」は「真実を明らかに知る」ということなのです。真実を真実として捉えれば、あくせくすることもなく、ジタバタする必要はない。一年の季節の中には、今のような時期との巡り合わせもある。そこに創造の意味の一つがあるのかもしれない。そう思うと少し気持ちが楽になります。ある意味、仏教的知恵とでも申せましょうか。

 ところで仏教と言えば、昨年度私のあるクラスの授業を、同志社とキリスト教に興味を持つ禅宗系大学の若い先生方が二人、熱心に聴講くださいました。たまたま一人の先生が同志社でも教鞭をとられ、私と顔見知りだったのがきっかけでした。人との関わりは、互いの宗教を知る機会ともなります。そんなこともあってか、彼らの禅に興味を抱くようになりました。

 我流ですが、最近は座禅を組んでみることがあります。姿勢を正し、腹式呼吸をし、臍下丹田(せいかたんでん=下腹の内部、気力が集まるとされる所)に意識を集中、脳裏に走る雑念は通り過ごす。もちろん「悟りの境地」の域には到底達せませんが、身心が幾分か軽くなります。 そして、そのあとに聖書を紐解くと、不思議なくらい御言葉が輝くのです。

 今日読んだのはマタイ9章の主イエスの服に触れた長血の女の物語でしたが、「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」の御言葉が、今の私たち一人ひとりに語られているということを、あらためてさやかに示されました。そうだ。どんな日でも主にあっては「日日是好日」(にちにちこれこうじつ)である、と・・・すごい悟り!


☆5月29日説教「御業」要約:
「主よ、・・・思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにして下さい・・・。どうか、御手を伸ばし・・・不思議な業が行われるようにして下さい」使徒言行録4:29-30)
 祈りの究極は、神の御業のために己を差し出すことだろう。その時、そこに自分は消え、ただただ神の霊が満つるのである。
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by aslan-simba | 2016-05-28 09:37 | Comments(0)

楽しき60代

 先日、会社の古い友人と大阪で会った。社内の所属部署は別だったが、共に御堂筋のビルで働き、西宮の独身寮で過ごした仲間。今は引退し、実家の東京で認知症のお母さんの介護にいそしんでいる。

 同年輩だが、思ったより老けて見えた。思えば三十数年ぶりの再会。彼にはお孫さんもいるから、文字通りの「おじいさん」だ。それでも話し込んでいる内に、あの独身寮で熱く語り会った頃と同じ顔つきに戻っていた・・・。それに気づいて思わず「お互い変わらないな」と笑いあった。

 あの頃はいつまでも若く健康で、定年まで同じ会社で働くことを前提に考えていた・・・。昔、「今や悲しき60歳」という歌があったが、思えば、お互い60代もほぼ半ばに。

 彼自身、個人的にも色々と苦労したようだ。会社の方はリストラ旋風が吹き荒れる前に辞め、地元の企業に勤めたそうだが、そこでも大変な思いをしたとのこと。大病を患った経験も聞いた。 また共通の友人たちの、その後の歩みも話題になったが、彼に言わせると、何と言っても一番転身を遂げたのは、この私だとのこと。まあ私も、それなりに色々あったが・・・。

 「いずれにせよこの人生、色んな事が起こる。争いも、災難も、病もない平穏無事な歩みなど、あろうはずがない。悲しんだり喜んだり、春あれば秋あり、夏もあれば冬もある。だから面白い。今は若い時に気づかなかったことも見えて来た。多少の物忘れは気になるがね・・・」などと言いながら、こんな聖句を思い起こしていた。

 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(コリント二4:16-17)。

 宗教改革者カルヴァンの言葉も脳裏を走った。「人間は全てが望み通りに満たされる生活に深入りしたら、良心が麻痺して神や永遠の事を考えなくなる。だから神は私たちの衣服を少しずつはがして永遠のことを考えるように配慮される」と。

 そこで「神の国を目指す限り、これからの人生の歩みも面白いはず」と述べた私の言葉に、彼も頷いてくれた。彼も洗礼を受けていることを思い出した・・・。


☆5月22日説教「神の霊」要約:
「このイエスを・・・あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」(使徒言行録2:23-24)
 人の罪深さは、神の御子をさえ十字架につけた。しかし神の恵みは、それを覆って余りあるほど深く、高く、広い。キリストの復活、聖霊の降臨は私たちにその恵みの事実を示している。
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by aslan-simba | 2016-05-18 13:09 | Comments(0)

神の風

 青葉若葉を渡る風もすがすがしい今日この頃、「五月の風をゼリーにして持ってきてください」と語り、世を去った立原道造の詩に思いを馳せます。

 先日、書棚を整理した際に昔読んだ立原の詩集が出て来ました。 「さうして小川のせせらぎは 風がゐるから あんなにたのしく さざめいてゐる あの水面(みづ)のちひさいかげのきらめきは みんな 風のそよぎばかり 小川はものをおし流す・・・」(風に寄せて・その一)」。 立原は「風」が自然の命を生かす「力」であり「源」であると歌っているように思います。

 この感性、聖書の人々の思いと重なります。旧約における「風」、ヘブライ語の「ルーアッハ」は「息」、「霊」と捉えられ、全てのものを生かす「神の息吹」と解されました。そのルーアッハが新約ではギリシア語の「プネウマ」です。 主イエスは言います。「風(プネウマ)は思いのまま吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くかを知らない。霊(プネウマ)から生まれた者も皆その通りである」(ヨハネ3:8)。

 聖霊なる神の風は思いのままに吹き、自由に働いて、神さまとの関わりを回復させ、新たに生きる力を下さるのです。 使徒言行録2章によると、ペンテコステ(五旬祭)の日に突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、聖霊が人々の上に止まったと伝えられています。こうしてこの日ペンテコステは、復活祭や降誕祭とならぶ聖霊降臨祭として祝われるようになったのです。もっともイースター、クリスマスほどポピュラーではありませんが。

 ともあれペンテコステは大抵の場合、爽風の季節に巡って来ます。ただし「神の風」、プネウマ、ルーアッハは、この時期に吹くだけではなく、一年中、否、生涯を超えて私たちの中に吹き続けて下さる・・・「わたしはどこへ行って、あなたのみたま(ルーアッハ)を離れましょうか・・・わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます」(詩篇139:7―9口語訳参照)。そうです。主が常に共にいて下さるのです。

 ペンテコステおめでとうございます!



☆5月15日聖霊降臨祭礼拝「聖霊の満たし」要約:
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ福音書11:9)
 「良きものを与えてくださる天の父」を常に覚え、門を叩き、その御方によって常識では開かれるはずのない扉が次々に開かれて行った。それが歴史の示す信仰者の歩みである(使徒言行録参照)。その流れの中に、私たちも今、共にある。
感謝。
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by aslan-simba | 2016-05-12 12:20 | Comments(0)

薫風の天を見上げ

 風薫る五月、そよぐ風にも若々しい新緑の香りが漂います。初夏へ向かう明るい時期。ふと四十年ほど前の自分を思い起こしました。

 四月、大阪で始まった社会人生活、西宮独身寮から通った御堂筋のビル、本当に大人になった思いがしました。一週間の全社研修の後、担当部課に配属。そこは今までとは別世界でした。朝は8時に席につき、上の人が来るのを待つ。会社を出るのも夜8時過ぎ・・・。12時間強の拘束、勿論、早出も残業もつきません。

 ともあれ当初困ったのは、何をしてよいか分からなかった事。先輩から簡単な引き継ぎメモを渡され、言われたのが「分からない所は前のファイルを読んでおいて」。もっとも鎮座する課のキャビネットはファイルの山、どれを見るべきなのか、それも分からない。ただ、いちいち聞くと嫌な顔をされるので、自分で探す。そんなこんなであたふたしていると、「これ計算して」とか「タイプしといて」と具体的な指示が来て何とか恰好をつける。 8時半、やっと帰れると思うと先輩達から「軽く飲もう」とか「ハンチャンだけ」とのお誘い。ドキッ。マージャンの方はできないので固辞しましたが・・・。

 あの社会人一年生のゴールデンウィーク、緊張の一カ月から解放された帰省、両親も随分気遣ってくれました。わけても私を元気づけようと母が寅さんの「男はつらいよ」のレコードを買っておいてくれたのには笑いました。さらに「上を向いて歩こう」も買おうと思ったが売ってなかったとも・・・母親にこんな茶目っけがあったとは。ともあれ柴又ならぬ埼玉の5月の空を見上げて力を得た次第です。

 いみじくも今朝読んだマルコ福音書、癒しをされる主イエスが「天を仰いで深く息をつき」(7:34)とありました。主も上を向かれた。天を仰ぎ、両手を上げ、深く呼吸・・・それが力の源になるのを示されます。祈りの基本は、文字通り天を仰ぐことなのでしょう。

 今、爽やかな季節の天を見上げ、手を広げ、大きく深呼吸してみましょう。それは祈りへとつながるのです。

 思えば、この人生「男はつらく」とも、「男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ること」(Ⅰテモテ2:8)ができるのです。ありがたい。現在も、過去も、そして未来も感謝。




☆5月8日説教「エリヤの召天」要約:
「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った・・・」(列王記下2:11)
 エリヤは紀元前9世紀のイスラエルで活躍した信仰の勇者。その人生の歩みには浮き沈みも多々あった。しかし絶えず困難を克服し、勝利の戦いへと立ち向った。そこに神の配慮があったのである。そして最後は「火の戦車」に乗って、天の国へと凱旋して行く・・・。印象深い物語だ
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by aslan-simba | 2016-05-03 11:30 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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