のがれる所

 花の盛りも過ぎて、緑色濃い季節となってまいりました。新年度が始まり早ひと月、何やかやと気忙しい日々が続きます。それはそれで楽しんだら良いのかも知れませんが、私はどうも物事を悲観的に考えがちな性分のようで・・・。どちらかと言えば考え過ぎで心配性、気が小さい・・・A型人間のゆえでしょうか?

 今日も、今考えてみても仕方がないようなことを思い煩いながら、キャンパスを歩いていたのですが、その時にふと口をついたのが讃美歌313番「この世のつとめ いとせわしく 人の声のみ しげきときに 内なる宮に のがれてゆきて われは聞くなり 主のみ声を」。

 歌詞に「のがれる」とあるのが妙に心に響きました。今朝家を出る前に口語訳で読んだ詩篇143:9「・・・わたしは避け所を得るためにあなたのもとにのがれました」がシンクロしたのかも知れません。なお、この「のがれる」、新共同訳など他の翻訳では「隠れる」と訳されています。原語は「依り頼む」とも訳し得る言葉です。つまり、四方八方、問題に取り囲まれたとしても、私たちには盾となって下さる依り頼むべき主があるのです。感謝。だから、もっと堂々と構えていたら良いのでしょう。

 そういえば使徒パウロはこう語っていました。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(コリント二4:8-9)、「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」(6:9-10)。

 さすがパウロ先生です。とくに最後のくだりは、「無一物中無尽蔵」(むいちもつちゅうむじんぞう)という禅の精神すら彷彿させられます。「私たちは本来何ももっていない空だが、私たちには無尽蔵の可能性があるのだ」と。だから雄々しく歩める・・・。

 まさに起死回生、倒れても立ち上がって歩むことができるのです。その力は主から来ます。キリストの憐れみと恵みとに与って、聖霊の力によって生きることができるのです。思い煩う時、疲れた時、聖書の言葉に「のがれ」、御言葉に耳を傾けて下さい。必ず力を頂けます。


☆5月1日説教「相応しさ」要約:
「主よ・・・ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(ルカ福音書7:6,7)
 主イエスは部下の癒しを切に求めるローマ軍の百人隊長の言葉を称賛された。なにより大切なのは、主から頂く神の言葉への徹底した信頼なのである。
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by aslan-simba | 2016-04-26 07:34 | Comments(0)

熊本地震に思う

 九州の熊本中心に起こった大規模地震。あの美しい熊本城が破壊され、復旧に数十年かかる・・・何ということか。

 私は「日本のプロテスタント史」の視点から、熊本に興味を覚えて来ました。草創期の同志社は、当時廃校となった熊本洋学校から多くのクリスチャン学生を迎え、後に彼らが学園建設を担った歴史があります。また彼らは日本に会衆派教会を立ち上げました。 以前、その洋学校の足跡をたずね同地を訪れた際、親切な人との出会いもあり、街の雰囲気も好きになりました。

 ともあれ、今回二度の大地震と継続する余震の下で、被災された方々――家や仕事場、生活に必要なものを根こそぎ破壊された方、負傷された方、かけがえのない人を失われた方――その思いと不安は言い尽くせないことでしょう。それでも毅然とされているお姿に心打たれます。また全力を尽くされている自衛隊、警察、消防などの皆さまに敬意を表します。

 それにしても、どうしてこのような地震がまたも起こったのか。何故、こういった天災が繰り返されるのか。これを全能の神は良しとされているのか・・・と考えると心重くなります。 これは東日本大震災の時も、また自らも被災した阪神大震災の時も、否、この世界で生じるいわれなき苦しみの出来事を知る度に思わされる事です。

 愛と救いの神の御心はどこにあるのでしょうか。あまりにも理不尽なことが多すぎるのではないか・・・。 思えばいつの時代も、真摯に生きようとする人間は神にそう問いかけて来ました。そう問わずにはいられなかったのです。神学の世界ではこれを「神義論」と言います。「正しい神がおられるのに、何故この世の中にそのような矛盾が存在するのか」と・・・。

 そのような神との「対話」の中で、今朝示されたのはこのような御言葉でした。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩46:1‐4)、「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)。

 復活と希望の主の導きを切に求め、祈り続けます。


☆4月24日説教「主の友」要約:
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ福音書15:15)
 人が友に心開くように、主イエスは弟子たちにその心を開いて語られた。「あなたがたを友と呼ぶ」と。主は私たちを友と呼ばれた。それは私たちが神との交わりに生き、豊かな実を結ぶためである。
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by aslan-simba | 2016-04-21 20:17 | Comments(0)

今回の九州、熊本を中心に起こった二度に渡る大規模な地震で、被災された方々に心からのお見舞いを申し上げます。被害の深刻さを報道を通して見聞きするにつれ、言葉を失うばかりの思いです。なお余震は続いております。今はただただ皆さま方の安全をお祈り申し上げております。
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by aslan-simba | 2016-04-16 11:28 | Comments(0)

美術館は良かった!

 先日の旅行で体重が3キロほど減った。現地の食事による増加を予測していたのが逆になった。娘に付き合いジェラードやパスタなど、普段口にしないようなものも沢山食べたのだが・・・思いもよらぬダイエット効果。考えられる原因は、よく歩き回ったこと、エコノミークラスでの片道16時間飛行、さらには思いのほか神経を使い続けたためか。

 いずれにせよ、予定していた訪問場所は、「土地勘の良い」娘のおかげで、迷わずに全て回ることができた。分けてもフィレンツのウフィツィ美術館は圧巻だった。この美術館は16世紀後半に建造された堅固な三階建で、世界史でおなじみのメディチ家のコレクションを中心に所蔵されており、そのルネサンス絵画の収集は世界一という。

 そのためすごく混むと聞いていたので、旅行前に事前予約を入れていたが、幸い思ったほどではなく、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの作品、またボッテチェリの「ヴィーナスの誕生」「春(プリマヴェーラ)」などの本物にゆっくりと触れ、胸打たれながら鑑賞できた。

 残念だったのはルネサンス後の画家、カラヴァッジョの「バッカス」が、何と東京行きで見られなかったこと。 実は高校時代に美術の教科書でこの絵を見て、衝撃を受けた記憶がある。あらためて彼の作品を見て、爪に泥が入りこんでいるような徹底した細密さに驚かされた。「すごい」のひと言。ただこの天才画家の私生活、殺人事件まで犯す「暴力と狂気」の歩みだったそうだ。そういう話を知ると引いてしまうのだが・・・。それでも宗教画を描きつらね、カトリックの著名な枢機卿も一時彼のパトロンだった由。

 なお現在、東京・上野で開かれているカラヴァッジョ展、なかには「法悦のマグダラのマリア」という世界初公開の作品もあるというが、学校も始まったため、見に行く時間はとれそうにない。

 ともあれ、角が凹んだ旅行トランク(空港で預けた際に雑に扱われたようだ)を修理に出し、この辺でイタリア自主研修の幕を閉じたい。 さて、いよいよ緑の季節、新たな思いをもって日々の歩みに戻って行きたい。主に在って愛する日本の京都の地で!


☆4月17日説教「命のパン」要約:
「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである・・・わたしが命のパンである」(ヨハネ福音書6:33、35)
 主イエスは、すべての人々の救いのために天から降り、御自身を「命のパン」として私たちに差し出されました。その「パン」に信仰もって私たちは与ることができる。ただただ感謝です。
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by aslan-simba | 2016-04-11 21:26 | Comments(1)

一週間のイタリア紀行

 学校での担当科目の一つに「キリスト教文化史」がある。様々な文献を活用し、楽しみながら講義してきた。なかでもローマ帝国、ルネサンス等は授業の重要キーワード。もっともその発祥現場に実際足を運ばないと、どうしても「講釈師見て来たような嘘を言い」となる危惧がある。

 実は一昨年、ある学生からこう尋ねられた。「この授業を聞いてローマへ行きたくなった。先生はイタリアに何年居られたのですか?」と。私が「アメリカには行ったことはあるが、イタリア、否、ヨーロッパは行ったことはないんだよ」と答えた時の学生のキョトンとした顔。やはり行っておくべきだとつくづく思わされた。

 マンホールにまで描かれているという現代ローマ市の紋章文字「SPQR」。これは古代ローマの「元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)」の頭文字から来ている。彼らの先祖に対する敬意と誇りの表われであろう。ならば、それもこの目で是非とも確認せねばならない。またルネサンス発祥地フィレンツェ、歴史上、独自の共和政をとったヴェネツィアも見ておきたい、と。

 もちろん費用と日程、特に教会を休まない事を念頭に検討し見つけたのが、上述の三都市を巡る、日曜の晩に出て、土曜の夜に戻る現地自由行動の7日間ツアーだった。丁度良いと申し込み、アシスタントとして長女に同行を頼んだ。 旅行中、二人でせっせと歩き廻り、行きたい場所はすべて行った。娘からは、「地図の読めない、旅慣れないお父さん」等々の批判も賜りながら・・・トホホ。

 一日だけ参加した現地ツアー(ナポリ・ポンペイへの日帰り12時間旅行)では、イタリア人ガイドさんから、この国がユーロ圏に入ったがゆえに経済不況が嵩じ、古き良き独自の気風が失われつつあるという問題も聞けた。

 ついでに驚いたことの幾つか・・・トイレの便器の便座が大抵無くなっている(ホテルやそこそこのレストランでも)。街中の落書きがやたら多く(大学の門や、高速道路の塀、地下鉄や市電の車体まで)歴史的景観が台無しに・・・。他にも色々あったがやめておこう。なお、地下鉄でローマ市内を移動中、いわゆるジプシーのスリ集団とも遭遇した(幸い被害はなかった。大声を出して助けてくれた黒人のお婆さんと青年に感謝)。

 ともあれ、立ち寄ったヴァチカンやナポリの諸教会では、観光はさておき、一人祈りを捧げることもできた。 今あらためて思う。時期は復活節、さながらエマオの旅人のように、共にあるキリストに守られ、教えられた旅であった、と。



☆4月10日説教「主に結ばれ」要約:
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:58)
 キリストにおいて十字架の先に栄光の御姿があったように、いつの日か私たちも栄光の姿へ甦らせて下さる。それゆえに上述のように言われるのです。
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by aslan-simba | 2016-04-05 14:18 | Comments(0)

聖母マリアと摩耶夫人

 新たな春の到来を告げる復活節。不思議な事に仏教でも、この花の季節に大きなお祭りがあります。4月8日、釈尊誕生を祝う「花祭」(灌仏会)です。また釈尊が亡くなった涅槃会は2月15日。この二つの法会の季節感、時期的にレントとイースターにかぶり、興味深く思います。

なお涅槃会のテーマは2月10日の記事でも触れましたが、多くのお寺に伝わる涅槃図に描かれて来ました。実は先日、ある涅槃図を見る機会がありました。そして、そこに描かれる釈尊の母、摩耶夫人(まやぶにん)の姿に気づき、ふとイエスの母マリアを思いました。

 普通、涅槃図というと、沙羅双樹の下で入滅したブッダを嘆き悲しむ人々や動物に着目します。しかし、そこには、たなびく雲に乗り、天上界から駆けつける摩耶夫人の姿があるのです。ちなみに彼女は釈尊を生み7日後に亡くなりました。死の床にある老いた息子のもとに向かう若い母の姿、悲しみをたたえつつも、毅然とした表情で・・・。何か主イエスの母マリアと重なるように感じたのです。

 ならば、あの時、十字架の下にたたずんだ実際の母マリアはどうだったでしょうか。彼女は摩耶夫人とは異なり、中年の域に達していました。そんな彼女が、三十代の息子の死と直面せねばならない。しかも彼はもだえ苦しみながら死を迎えようとしているのです。不当な裁きのゆえに。これを正視できるような親などいないはずです。それでもマリアは最後までイエスに付き添った(ヨハネ19:25―27)。何とも気丈な・・・。

 思えば、イエスの母に選ばれたために、彼女は聖霊による受胎から始まり、イエスの十字架の死まで、大変な人生を歩まねばなりませんでした。彼女ほど神の御計画に振り回された人間もないでしょう。しかしマリアはそれに耐え、黙々と歩んだ祈りの人でした。だからこそ、後の教会が彼女を聖母と呼んだのも理解できるのです。

 このマリアの信仰、また難産で早世した摩耶夫人の思いもそうでしょうが、そこに試練と共に忍耐の中で生きる者の真摯な祈りを聞きます。そして、それは復活の御力に与ってよきものへと必ず変えられて行く・・・。今、まさに命と希望の復活の春が訪れました。



☆4月3日説教「燃える心」要約:
「二人が、『一緒にお泊まりください・・・』と言って、無理に引き止めたので、イエスは・・・」(ルカ福音書24:28)
 「一緒にお泊まりください」この言葉は復活のキリストに対する祈りである。ルカは福音書の最後にキリストへの祈りを記した。なお私たちが教会に集うこともまた、その祈りの具体的表現なのである。
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by aslan-simba | 2016-04-03 00:50 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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