たえなる道しるべの光よ

 桜のつぼみが色づき始めました。開花も秒読み段階です。花の季節にイースターを迎える。感謝。

 近づく新しい月、新年度、文字通りに新たな始まりの時を、私たちは迎えようとしています。思えば、我が人生で迎える64回目の新年度・・・。新学期の朝、小学校の桜並木の門を目指して、元気よく歩いた・・・。そんな昔の記憶を脳裏に走らせながらの今朝の散策、ふと口をついたのが讃美歌288でした。

 たえなる道しるべの 光よ 
 家路もさだならぬ やみ夜に、
 さびしくさすらう身を 
 みちびき ゆかせたまえ

 この讃美歌は、19世紀の英国の神学者で司祭だったヘンリー・ニューマンの作です。若き日、イタリアを旅した彼は、そこで死線をさまようほどの病に冒されます。しかし復活の主より「祖国・英国でなすべき仕事がある」と示され、癒しを受けました。ただ病み上がりの弱った体での帰路の船旅は、決して順調ではありませんでした。時化のため、1週間も船がかりせねばならないこともあったのです。この歌はその船中において詠まれたものです。

 元の原題は「慈しみ深い光よ、打ち囲む暗黒の中にて 我を導きゆかせたまえ(Lead kindly Light, amid the encircling gloom) 」。それが示すように、人生の、またこの世のいかなる闇の中にあっても、先立ちたもう主を信じ、力強く導かれるようにと高らかに歌われます。

 とこ世のあさにさむる そのとき
 しばしの別れをだに なげきし
 あいするもののえがお、
 みくにに われをむかえん

 復活の確かな響きがここにあります。永遠の命を確信する者の希望があります。このような思いをもって今を生きることができるならば、すでに「勝利の人生」(ヨハネ16:33)に与っているのです。私たちも今、まことの光なる復活の主を見つめ、導きを切に信じ、さらなる人生の一歩を踏み出そうではありませんか。内なる聖霊の働きに真摯に生かされ、御国を仰いで・・・。
 
 その後、英国へと戻ったニューマンは、バーミンガムの教会を中心に活躍し、当時としては長命の89歳で天に召されました。



★3月27日(日)は復活祭(イースター)です。是非、桃山栄光教会へお越しください。礼拝は10:30~


☆復活祭礼拝の説教「生けるキリスト」要約:

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」(ルカ福音書24:5)
 主イエスは墓の中にはいない。復活された・・・主は生きておられるのです。しかし、それはキリストご自身だけに関わる話ではありません。主はこう言われます。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(ヨハネ14:19)と。私たちも主に在って復活の命に生かされて行くのです。尽きない希望の内に・・・。
イースターおめでとうございます。





 
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by aslan-simba | 2016-03-23 13:22 | Comments(0)

心の窓

 六十を過ぎて、体のキレが今一つ悪くなったように思う。記憶力も多少落ちた。気持ちは若くても、寄る年波か・・・トホホ。ともあれ「最低限の病気予防だけは」と、定期的にチェックを受けている。歯科、内科、そして最近では半年ごとに、眼科検診も・・・。

 目は市民健診で「緑内障の疑いがあり」と診断されたのが切掛け。幸いなことに、その後の検診は「異常なし」だが、目は昔からあまり良くなかった。中学生の頃、仮性近視の治療も思わしくなく、メガネ生活が始まり、やがて強度の近視・乱視へと進む。さらに30歳代半ばにして飛蚊症に。そして今では勿論、老眼も・・・。目の酷使は避けねばと思うが仕事柄、ついつい使い過ぎてしまう。もう少し大事にせねば・・・。

 ところで、自分の目ではなく、「人の目」が気になるとのご相談を受けることがある。無理もない。多くの視線の中で、私たちは生きているからだ。翻って私自身も、周りの人々の眼差しに一喜一憂させられたことも多い。

 ならば、主イエスは、どのような目をもって今、自分たちを見つめて下さっているのだろうか。レントの折、受難物語を読みながら、ふとそんなことを考えさせられた。

 ルカは、主を否認したペトロを見つめる主イエスの目を伝える。「突然、鶏が鳴いた。主は振り返ってペトロを見つめた」(ルカ22:60―61)と。それは厳しい裁きや非難の目ではなく、全てを知り、全てを赦す慈愛に満ちた眼差し、励ましの目だった。「わたしはあなたの信仰がなくならないように祈っている。立ち直った時には、兄弟たちを力づけてあげなさい」(ルカ22:32参照)と・・・。その譬えようもないほどの大きな愛に触れたペトロは、「激しく泣く」(ルカ22:62)ほかなかったのである。

 その主イエス・キリストの眼差しが、時にくずおれそうになるこの弱い私たちにも、注がれていることに気づき、感謝したい。また同時に、私たち自身、そんな主の眼差しに多少なりとも習える者でありたいと願う。

 「目は心の窓」、これまでどんな眼差しをもって、自分は人生を歩んで来ただろうか。まずは御言葉に照らして、自らの心の窓のチェックを・・・。



☆3月20日説教「御心のままに」要約:
「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(ルカ福音書22:46)。
 試練や悲しみ、まさに祈らねばならない時に、祈りをやめてしまう事がある。あの弟子たちだけではない。いつの時代の信仰者にもある経験だろう。無論、私たちも例外ではない。しかし、そのような私たちを起こして、主は祈りへと導いて下さるのである。御声に耳を傾け、あらためて祈り始めよう。
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by aslan-simba | 2016-03-14 21:40 | Comments(0)

近づく復活の季節

 三寒四温の気候不順な折ですが、明るい日差しが新たな季節の到来を確かに告げています。いみじくも今朝、うぐいすの鳴く声を耳にしました。嬉しい限りです。

 啓蟄も過ぎ、寒さに耐え、命を育んできた生き物が目覚め、木々や草花が一斉にめばえる時。神さまの造られた自然の中、素直に黙々と精一杯に生きる動植物に励まされるのも、この時期でしょう。復活の季節が一段と近づいています。ちなみに三月を意味する「弥生」という言葉は、草木が、「ますます」元気に「生い茂る」ことを意味するそうです。

 今しがた学んでいた聖書の箇所はイザヤ書55章。そこに御言葉を通して、自然の恵みと解放の喜びが記されていました。

 雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。
 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。
 それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。
 あなたたちは喜び祝いながら出で立ち 平和のうちに導かれて行く。
 山と丘はあなたたちを迎え 歓声をあげて喜び歌い 野の木々も、手をたたく。
 (イザヤ書55章10-12節)。

 力強い御言葉です。時は紀元前6世紀、神さまは第二イザヤと称される無名の預言者の口を通して、イスラエルの人々のバビロニア捕囚からの解放と帰還を、このように語られました。
 
 そうです。人々は自由になります。苦役の時は終わり、故郷に帰れる・・・。彼らにとって、本当の喜びの季節が巡って来るのです。 そんな彼らの喜びを、新たな復活の春を心待ちにしながら、レントの時を過ごす私たちの信仰と重ねたく願います。

 だから今なお厳冬の思いの中にある人は、過去のことだけに心縛られるのではなく、自由な未来に思いを向けてください。神さまが解放の時を与えてくださるのを信じて・・・。また、この春、人生の新たな岐路に立つ人もいます。先立ちたもう主の導きを心底信じてください。希望へと続く道が必ず拓けます。復活の主の祝福が、皆さまの上に豊かにありますように。



☆3月13日説教「いつも思う」要約:
「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」(テモテへの手紙二2:8)
 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」(口語訳)と、パウロがテモテに書き送ったのは、テモテが「主の恵みによって強くなる」(2:1参照)ことを心から念じていたからでした。 この言葉は今の私たちにも向けられています。困難の中にあって弱さを覚える時、私たちも生ける主を思い、強く生かされましょう。
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by aslan-simba | 2016-03-10 07:49 | Comments(0)

 レント、様々なことが私たちに起こる。受難の主を覚えるこの時期、聞きなれた主の御言葉があらためて心の内に深く染み込んで来る。

 今朝、示された聖句箇所。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)。

 不安や苦悩、体の弱りなどの困難を覚えつつ日々を過ごすのは、自分たちだけではない。老若男女、人として生まれた以上、誰もが負いきれないほどの重荷を負って人生の旅路を歩むのである。徳川家康の遺訓にもこうあった。「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し」と。家康はそれに続き、「急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし」と記す。「決して急いではならない。満たされない状況を当たり前と捉えれば、不足を感じないはず」と・・それは多難な人生を生き抜く知恵だろう。

 聖書の示すキリストは重荷を負う私たちに、主ご自身の「軛(くびき)」を負うようにと言われる。軛とは、農夫が畑を耕すときに使用する二頭の家畜を結びつけるため道具。一頭が単独で重い荷を負うのではない。農作業をする家畜は、二頭離れることなく結ばれて、共にその荷を背負うのである。つまり主の軛を負うとは、私たちの重荷を、御子、主イエス・キリストがどこまでも共に負って下さるということだ。思えば、何とも勿体ない話である。こんな自分の荷を負うために来て下さるキリスト・・・。

 実に主はそういう方ゆえに、「人」となり、死に至るまで「柔和で謙遜」な御姿で地上を歩まれ、最後は私たちの罪のための十字架という壮絶な重荷を担われたのである(フィリピ2:6-8)。 しかしその十字架の死は、死のままでは終わらなかった。その向こうに栄光の復活が・・・。

 「わたしに学びなさい」と言われた御言葉。そこに、この世の重荷の向こうに、「神の栄光にあずかる私たちの希望」(ローマ5:2参照)が示されるのである。だから日々の痛み、苦しみはなお残っていても、確かな安らぎが今、既にここにある。感謝。




☆3月6日説教「教会の土台」要約:
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ福音書16:18)
 私たちの信仰が、生ける神、キリストを土台とする教会の上に立つなら、陰府の力、死の力を恐れる必要はない。もはや何ものも私たちを神の愛から引き離し、滅ぼすことはできないからだ。
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by aslan-simba | 2016-03-02 21:29 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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