「サウルの息子」を見て

 新聞の映画評にひかれ、先日、ハンガリー映画「サウルの息子」を見た。

 アウシュビッツ強制収容所に送り込まれたユダヤ人のガス室を背景にした物語。ここで同胞の死体処理のために働かされる一人が主人公サウル。彼はその中に息子と信じる遺体を見出し、ユダヤ教の教義に則って埋葬したいと切に願う。そのために収容所内をかけずり回るその彼の、最後の二日間が描かれる。

 主人公のみにピントを合わせたカメラワーク、少ない台詞の中で目まぐるしく進行する事態、私はサウルと共に、分からないままに収容所の中を行き来し、時に怒鳴られ、殴られ、目一杯ころげまわる錯覚に陥る。また当たり前のように日常化する「暴力と不条理な死」、「罪と死」、「宿命」、「狂気」にたじろがされる・・・。

 二時間にも満たない作品だったにも関わらず、見終わって途轍もない長い映画を見た気がした。本当に色々と考えさせられる作品だった。宗教的救いの意味や聖職の重みについても、自分に引き付けて思い巡らした。そのためか、帰途は激しい疲労感にさいなまれる。映画を見てこのような経験をしたのは初めてだ。

 映画館のチラシによると「どうしようもない状況下で、人は何ができるのかということを伝えていけたら・・・」というのが監督の意図らしいが、あまりにも悲惨な人間の現実から希望が見えないもどかしさを覚えた。ある意味、受難と悔い改めを覚えるレントの時期に相応しい映画だったかも知れないが・・・。

 ともあれ家に戻り、疲れをやっと癒してくれたのは、脳裏を走った使徒パウロの言葉だった。「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ・・・わたしたちは、このような希望によって救われている・・・目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのである」(コリント二4:18、ローマ8:25,26参照)と。現前する過酷な現実の中にも御旨を覚え、未だ見ぬ御国に希望を抱き、真摯に生きようとする者には、神は今の苦難をも耐え忍ばせ、ついには全き救いへ導かれるとパウロは言うのである。

 「サウルの息子」に象徴されるような不条理な死を遂げたすべての人々をも、神は必ずや救って下さるとどこまでも信じたい。なお、奇しくも使徒パウロのユダヤ名も、ヘブライ語式に発音するとサウルである(使徒言行録9:4他参照)。



☆2月28日説教「復活を思う」要約:
「『これはわたしの愛する子。これに聞け』弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(マルコによる福音書9章7‐8節)
 神さまは前もって弟子たちに、主の栄光の御姿を見せて下さいました。それはこの後、世の試練の中で、彼らが押しつぶされないためになのです。私たちも、毎週の礼拝において、復活の主の栄光の御姿を示されています。だから大丈夫です。頑張りましょう。
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by aslan-simba | 2016-02-23 11:34 | Comments(0)

 書斎に山積する本の整理をしていた折に、『むねあかどり』という絵本が本棚の端にあるのを発見しました。子供たちが小さかった頃、読んで聞かせたものです。またこの教会が始まった頃のレントの時、この話を説教で紹介した記憶も甦ってきました。

 こんな内容の話です。遠い昔、神さまは一羽の灰色の小鳥を造り、「ムネアカドリ」と命名して放たれました。ムネアカドリは、自分がどんなに美しい姿かと思い、池にその姿を映しますが、ただの灰色。そこで神さまに尋ねます。他の美しい鳥たちと違い、「なぜムネアカドリという名前をいただいた僕だけが、こんなくすんだ色なんでしょうか?」。神さまは言います。「わたしがそう決めたのだ。しかし、いつまでも、そのままだとは限らないよ」と。

 そこでムネアカドリは、美しい赤い色をもった鳥になるために努力するのです。赤い野バラの茨の中に巣をつくったり、強い鳥を相手に闘ったり、胸がはりさけるほど大きな声で歌ったり・・・しかし、胸は赤くなりませんでした。

 そのうちに彼は歳をとってしまいました。そんなある日、ムネアカドリはエルサレム城外のゴルゴダの丘で、十字架刑が執行されるのを目撃するのです。額に血が滲み、苦しそうな息遣いを続ける十字架上の人・・・。たまらなくなったムネアカドリは、茨の冠を被せられたその人の下に飛んで行き、その額のとげを一本二本と口ばしで引き抜きました。すると、その額の血がムネアカドリの灰色の胸を赤く染め始めました。その人は囁きます。「ありがとう。今からお前は本物のムネアカドリだ」と。

 物語の原作者ラーゲルレーヴは、スウェーデンの女流作家で、民話や伝説をもとにキリスト教信仰に基づく童話をつくった人です。

 このムネアカドリの物語と讃美歌515が重なります。「十宇架の血にきよめぬれば、『来よ』との御声を われはきけり。 主よ、われはいまぞゆく、十字架の血にて きよめたまえ」、年老いたムネアカドリの願いはまさにキリストによって成就・・・。何歳になっても十字架の主に在って、希望はついえないのです。

 絵本の最後にこうあります。ムネアカドリの赤い色は、「赤いバラの花よりももっと赤く、子孫の小鳥たちの胸を彩っています。あのエルサレムの外の出来事を思い起こさせるように・・・」。




☆2月21日説教「天からの恵み」要約:
「・・・イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した・・・」(ルカによる福音書9:16)

 群衆は単にパンと魚によって満たされたのではない。天の恵みを共に分かち合う喜びによって満たされたのだ。 群衆が味わったのは、まさに神と人とが共にあり、人と人とが共にあって恵みを分かち合う神の国の喜びだったのである。
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by aslan-simba | 2016-02-19 12:08 | Comments(0)

 新たな年も早ひと月が過ぎ、2月。立春を迎え、なお余寒厳しい日々が続く中、気づけばレント(受難節)が始まる。毎年これが、私のこの時期の季節感・・・平均的日本人キリスト者の感性でしょうか。 言うまでもなく、レントはキリストの受難と十字架の死に思いを向ける時ですが、思えば仏教においても、2月は教祖の死に思いを寄せる時期かも知れません。なぜならば、2月15日が釈尊の命日(涅槃会)とされているからです。

 八十歳になったお釈迦様は、死期の近いことを予感し、生まれ故郷に向かって旅をし、その途上で世を去ります。満開の花をつけた沙羅双樹の下、最後の説法をし、横になって静かに亡くなって行く。そして、それを看取る嘆き悲しむ弟子たち、多くの動物たちの姿が種々の涅槃図などに描かれています。 平家物語の冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」とあるのも、この場面から紡ぎ出された言葉かもしれません。いずれにせよ、そこに釈尊の偉大さと共に、自然の理としての死が穏やかに印象深く示されます。

 以前、梅原猛氏がこのお釈迦様の死とイエス様の死を対比して論じていました。釈迦の死は自然死、キリストの死は刑死。そこから「仏教は死―悲しみ―諦め―微笑」、「キリスト教は死―絶望―怒り―復讐―最後の審判」という感情論理が成立する、と。確かに教祖が若くして刑死というのは、客観的に見て尋常なことではありません。しかし、それだけを取り出して仏教とキリスト教を整理されるのは、如何なものか。というのは、釈尊の安らかな涅槃も、キリストの十字架の死も・・・言い尽くせないほどの深い意味があるからです。

 仏教が大切にすることに「慈悲」があります。私はそれを主の愛「アガペー」と極めて近いものだと思っています。ちなみに「慈」は人々に楽を与えることで、「悲」は人々の苦を抜くことを意味します。つまり慈悲とは、すべての生きとし生ける者を苦から救いだすことなのです。主イエス・キリストはその慈悲を真に貫徹されるため、十字架の死を遂げられた・・・。私はそう信じるのです。

 「人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし」(ヨハネ15:13)・・・。


☆2月14日説教「赦し」要約:
「『あなたの罪は赦された』・・・わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(ルカ5:23,24参照)
 主イエスの罪の赦しの宣言が意味を持つのは、赦された人自身が、自らの足で立ち上がり、感謝をもって神と共に歩くときです。そのためにはどうしても、人間の側の罪の自覚と悔い改めが必要なのです。主は今も私たちにそれを教え示し、私たちを導いて下さっています。そして新たにここに罪の赦しを宣言して下さるのです。「あなたの罪は赦された」と。
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by aslan-simba | 2016-02-10 21:27 | Comments(0)

主はわが光

 旧約聖書の詩編を愛唱されている人は多いと思います。私も日々、詩編の詩を一つ読んでいます。 詩編は、「イスラエルの祈りの書」だと言われるように、人生の試練や困難に遭遇した時、祈りに行き詰まった時、朗読するだけで、深い祈りとなります。

 今朝読んだのは詩27編、私の好きな詩です。「主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう」(1節)・・・。

 「主はわたしの光」、ラテン語で「ドミヌス[主は] イルミナチオ[光] メア[私の]」と高らかに歌い出されます。何とも明るい響きを感じますが、実はこの時、詩人は強靭な敵に囲まれ、四面楚歌の状況に置かれていました。それでも、心の向きを徹底して主に向けた彼には、「光」が示されたのです。 詩人は祈願します。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」(4節)と・・・。そこには神への揺るぎない信頼と平安があります。

 しかしこの詩は後半の7節を境に、神へ嘆きを訴えるトーンへと変じます。「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き、憐れんで、わたしに答えてください」(7節)・・・。ある旧約研究者は、そこからは別の詩として解釈するのですが、私にはどこまでもひと続きの詩に思えるのです。つまり、神さまへの信頼を持ちつつも、心が揺れ動くところにこそ、まさに現実の人間の姿があるからです。もっと言えば、神さまを信じるがゆえに、人はすべての思いを包み隠さず神に訴えられるのではないでしょうか。

 そんな私たちの祈りに、神さまはどこまでも耳を傾け、「雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(14節)と語られ、新たな導きを下さるのです。この御言葉をしっかりと心に刻んで、御国の到来を待ち望みつつ、この月も歩み続けたいものです。


☆2月7日説教「荒れ野で」要約:
「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した」(マルコ福音書1:12)
 「送り出した」・・・「追いやられた」という意味。主を荒野へ追いやったのは、聖霊。神の救いの御計画の下に・・・。 もし私たちも「人生の荒れ野」に追いやられたなら、主が先んじてその経験をされていた事を思い起こしたい。そして「人生の荒れ野」にも、主の導きがあることを銘記したい。
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by aslan-simba | 2016-02-04 21:02 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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