クリスマスの物語といえば、マタイとルカの福音書が定番ですが、ヨハネ福音書も1章冒頭に、独自の降誕物語を記しています・・・。それはこう始まります。「初めに言があった」(1節)。当時のユダヤ人がこれを聞いて思い起こしたのは、旧約聖書・創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」という御言葉だったでしょう。ヨハネは「初めに」、つまり太古の天地創造以前から、「言」(ロゴス)であるキリストはおられ、私たちの救いは備えられていたと語るのです。

 次に「万物は言によって成った」(3節)とありますが、これも、神さまが「言」をもって万物を創造して行く創造物語を連想させます。そこに私たちの思考をはるかに超えた、途轍もない神さまの「言の力」が描かれているのです。やがて、その「神の言」は、イエスさまという具体的な人間となり、私たちのもとへ・・・「言は肉となって、私たちの間に宿られた」。そのようにしてこの世に生まれた神の独り子は、私たちの抱える現実―喜びや悲しみ、苦しみや嘆き―を共に担い、真実の命を私たちに与える御方、「まことの光」として来臨されたのです。

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(4節)とヨハネは述べ、さらに「・・・わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)と加えます・・・。これがヨハネ版クリスマス物語の内容。マタイやルカの記す抒情溢れるストーリーとは異なりますが、それらとはまた一味違った味わいがあるように思います。少し深遠すぎるのですが・・・。

 要は、永遠なる神の独り子イエス・キリストが神さまの言―つまり御言葉そのもの―として、世に降られたということです。なお、その主イエスを、ヨハネは「光は暗闇の中で輝いている」(5節)と現在形で記しているのことに注目して下さい。光なる主イエス・キリストは、変らずに現在も輝き、暗闇の中で七転八倒する私たちの心を照らし、導いて下さっているのです。

 そして「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」(16節)とヨハネは言います・・・。今年のクリスマス、私たちも更なる希望という恵みを共に頂こうではありませんか。



☆12月6日説教「恵みの御業」要約:
「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」(イザヤ書59:21)
 クリスマスにお生まれになった主は、十字架をもって、私たちの贖いを成し遂げられました。クリスマスの向こうには主の十字架と復活も見えます。
[PR]
by aslan-simba | 2015-11-30 11:01 | Comments(0)

11月の輝き

 急に寒くなりました。色づく秋を楽しんできましたが、気づけば季節は晩秋から初冬へと一歩進んでいたようです。もう11月も最後の時。あらためてこの月の日々を憶えます。

 毎年この月には、現世を超えた静かな喜びと言いましょうか、不思議な感動に与ってまいりました。ちなみに教会の古い伝統で11月は「死者の月」とか「終末の月」と称されます。要するにキリスト教の「お彼岸月」です。

 その11月最初の主日礼拝が「聖徒の日」(逝去者記念礼拝)。私はその日の前には決まってチョウに出会います。今年もそうでした。よくチョウはあの世とこの世を結ぶ象徴だと言われます。キリスト教文化圏においても「復活のシンボル」として理解されます。天に召された先達たちを覚える礼拝の前に、そんなチョウに遭える、本当に有難いことです。

 先週、妻の親戚の人の召天三周年の記念会がありました。熱い信仰をもたれたその方のご一家は、家庭を集会の場、祈りの場として何十年にも渡り、そこで伝道して来られました。実は妻と共に、その記念会に参加する前日にも、私たちはチョウを見たのです。たまたま偶然が重なったのかも知れませんが・・・感謝でした。 

 またこの月、人懐っこいハトとも出会いました。学校の帰りに駅前で腰をかけて、スマホで調べ物をしていた時です。私の許に二羽のハトが、寄り添うようにやって来ました。逃げずに足下に座り込み、動きません。そして私を見上げたそのハトたちの目の輝きが、亡くなった我が家の犬たちの眼差しと重なりました。そういえば最初の犬が死んだのもこの月。今年亡くなった犬と共に、二匹が天上で元気にしているのを教えてくれたように思え、胸が熱くなりました・・・。

 今、見事な紅葉も大団円の時を迎えようとしています。そして迎える12月。永遠の神の御言葉がこの世に宿り、私たちを滅びから救い出し、永遠の高みへと導く新たな時の始まり。待降節、クリスマスの時を迎えます。あのチョウが、またハトたちが指し示してくれた天上の幸いの内に、私たちを迎え入れようとキリストがおいでになるのです。永遠の命の道への更なる一歩を踏み出しましょう。



☆11月29日説教「終りの時」要約:
「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(ルカによる福音書21:32‐33)
 アドベント(待降節)とは、「終り」について学ぶ時節でもあります。最後の日まで希望をつなぎ、待ち望んでいた者として、笑顔で主の御前に立てる私たちでありたいと願います。
[PR]
by aslan-simba | 2015-11-27 20:51 | Comments(0)

錦秋に思う

 暦の上では既に冬ですが、今まさに秋たけなわ。キャンパスに向かう坂道を、ウォーキングのつもりで上って行くのが、楽しみになりました。気分爽快。つい二三カ月前まで、汗をかきかき、足の重さを覚えながら歩いていたのがまるでウソのよう・・・。

 今の時期、「錦秋(きんしゅう)」というのでしょうか。文字通り、紅葉が錦 (にしき) の織物のようにあやなす、美しい季節を迎えています。信仰の詩人・八木重吉のこんな詩を思い起こします。「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 秋の美くしさに耐えかね 琴はしずかに鳴りいだすだろう」。

 こんな季節の余韻にいつまでも浸っていたいのですが、そうはいきません。やらねばならない現実の仕事が待っています。そのように健康を支えられて働けること、また研究できること、本当に有難いことです。「さあ今日も『心を高くあげよう』、頑張るぞ」とキャンパスに到着。

 ふと門の横で「枯れすすき」が秋風に揺れているのに気づきました。そう言えば、以前お世話になったある牧師先生の記した文章にこんな言葉がありました。「人は一皮むいたら『俺は河原の枯れすすき』という感情や意識になるらしい」。信仰者もそうだ・・・。 分かります。ある種の自己憐憫、世をはかなむ思い。人間にはそういう面もあります。勿論それが常に悪いのではない。それが信仰を鍛え、あるいは芸術的才能を開花させる契機となるかも知れません。それでも一歩間違えれば、人生の危機に繋がる怖れもあります。

 私の場合もいろいろありましたが、そのような状況にしゃがみ込むことがあっても、何とかやり過ごし、立ち上がって来ることができました。自分ではそれを、「復活の御力」に与ったと捉えてるのですが、根が楽観的なのかもしれません(自分では、心配性で神経質な人間のつもりではありますが・・・)。そして、いつも昨日より今日、さらに今日より明日へと希望をつないでいます。

 来月初めには64歳の誕生日を迎えます。これからも「ゆきなれた路(みち)の なつかしくて 耐えられぬように わたしの祈りのみちをつくりたい」(八木重吉)と念じながら、共々に思いを一つに、主の道を歩み続けたく願います。




☆11月22日説教「十字架のメシア」要約:
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23:42)
 主の傍らで十字架に架けられている罪人の、この訴えに、メシアなる主は宣言された。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。 メシアとは王のこと。最終的な裁きを行う王である。そのメシアが権威をもって宣言する罪の赦し・・・。今、私たちも同じ赦しの宣言と御国の約束を耳にしているのである。
[PR]
by aslan-simba | 2015-11-19 23:45 | Comments(0)

人生のオータム・カラー

 秋も深まってまいりました。外出時に見上げる木々のオータム・カラーが、本当に美しく輝いて見えます。

 今日は授業の帰りに宇治駅で途中下車し、紅葉で有名な宇治川べりの興聖寺へと足を運びました。山門前の木々は既に紅、黄、緑の美しいグラデーションを示しています。山門に至る坂道の紅葉も始まりつつあります。あと一週間もすれば真紅の「もみじトンネル」となることでしょう。数年前、初夏にここを訪れた時には、緑に囲まれた寺という印象でしたが、秋の色合いにはそれとは違った味わいがあります。

 ところで私たちの人生の歩み、そんな木々の葉の移り変わりに重ね合わせてよく語られます。春の新芽の時期が「幼少期」、初夏の新緑が「青年期」、緑色濃い盛夏から初秋が「壮年期」そして秋に至り「中年期」、「高年期」といったように・・・。ならば緑の葉が自然の中で、雨風に打たれて、厳しい夏の太陽の光に照らされて、やがて美しく色づくように、私たちも悲しみや苦しみ、そして辛い人生経験を経てこそ(嬉しいことも、もちろんそうですが)、豊かな人生へと色づけられていくのはないでしょうか。そう考えますと、自分らしい味わいある色を示せるのは、緑の葉の時期ではなく、やはり人生の秋の頃ではないかと思うのです。ということは、今なお「青年期」ないし「壮年期」のつもりの私の場合は、まだ少し先の話かも・・・。

 ともあれ、私たちもやがては、その「秋」を迎えます。木の葉は落ちる前に美しく紅葉すると言われます。だから、よしんば現実は厳しくとも、心に平安をもって麗しい人生の暮れを迎えたいものです。そして、それは可能です。なぜなら、この世の人生の旅が終わったら、私たちを迎えてくれる素晴らしい天の故郷があり、そこに全き救いの完成がなされることを、私たちは知っているからです。その日に至るまで、人生の季節にある一日一日を大切に、今日という日を歩んで行きましょう。

 「主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 長がらえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる」(詩編103:3‐5)



☆11月15日説教「信仰」要約:
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤの信徒への手紙3:13)
 キリストが私たちに代わり、呪いとなり、贖って下さった。よって受くべき呪いは最早ない。私たちが受けるのは、今や祝福のみ!私たちは神に愛される者として、神と共に生きることが赦されているのである。感謝
[PR]
by aslan-simba | 2015-11-13 09:48 | Comments(0)

11月...

 秋日和のおだやかな日が続いています。有難いことです。本来の季節の姿が戻って来たのでしょうか。これまでの「秋」の姿は、厳しい残暑の後に一息つける短い時期、また直ぐに迎える寒い冬の前に置かれた物寂しいわずかな時間という印象でした。今年は、ゆったりと京都の秋、日本の秋が楽しめます・・・。

 やわらかな日差しの下、授業の合間に考え事をしながら散策するキャンパス風景も秋色になりました。木々の梢も黄色みを帯び、樹木の葉も色づいています。

 思えば、カレンダーは既に11月。古来、教会はこの月を、収穫の感謝と同時に、亡くなった人々を記念する月として来ました(キリスト教版のお彼岸です)。ともあれ、私たちの宗教において人の逝去は、喜ばしい作物の収穫と関連をもって理解されます。それは、いずれも長い間の成長と成熟の歩みの最後の過程だからです。

 聖書は「死後の裁き」も語ります。しかし「恐れおののく必要はない」と、ある神学者は断言します。「ベツレヘムの馬小屋で誕生し、ゴルゴダの十字架で死ぬことによって人間の罪を背負い身代わりになって救い出して下さった救い主イエスが裁き主と信じることがキリスト教の信仰だからである」(カール・バルト)と。

 さらに御国において「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きもない・・・」(黙示録21:3-4参照)のです。神は人々の目から涙をことごとく拭って下さる。「ことごとく」、全部ということです。つまり神さまは私たちが、生前の人生の歩みにおいて流した涙のすべてを知っておられるのです。そして、その流した涙の一切がことごとく報われる・・・ここに「死後の裁き」の意義があるのでしょう。だから死後のことも、安んじて主に委ねられるのです。

 そんな風に思いが及んだ時、目の前を黄色い蝶が飛んでいるのに気づきました。蝶はあの世の使い、キリスト教文化圏では、「復活の象徴」と言われます。 「主はわたしのために すべてを成し遂げてくださいます。 主よ、あなたの慈しみが とこしえにありますように・・・」(詩138:8)。




☆11月8日説教「神の知恵」要約:
「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき・・・大地の基を定められたとき」(箴言8:27―29)
 「わたし」とは、「神の知恵」の事。箴言は知恵を人格化して語る。この自然界には、正にその神の知恵が働いたとしか言い得ない創造の秩序がある。新約はその「神の知恵」を、キリストとも言い換える。天地創造に関わられたその「知恵」なる主に従って歩める人生、感謝。
[PR]
by aslan-simba | 2015-11-05 21:06 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30