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絶景かな!

 仕事がオフの日、秋日和に誘われて京都市内へ出向く。少し前に植物園を訪ねたので、今回は動物園を目指した。創世記の語る、「神が良し」とされた自然や動物の世界に触れることも期待して・・・。だがあいにく休園日だった。そこで、南禅寺を訪ねてみることにした。寺の近隣にある若王子の墓地や、哲学の道などは時折立ち寄るが、南禅寺そのものに入るのは、実は今回が初めて。

 南禅寺は700年以上も前、亀山法皇によって創建された由緒ある禅寺。境内には琵琶湖疏水の水路橋も走る。その広大な敷地に、色づき始めたカエデの木々が美しい。

 広々とした参道を少し行くと、三門がそびえ立つ。「三門」とは、迷いと煩悩の世界から通過しなくてはいけない門で、ここを通って仏国土へ至るという象徴的な意味があるそうだ。なお案内板によると、現在の門は、「大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建されたもの」で、楼上に行ける。折角来たのでこれは登らねばと受付へ。拝観料は500円、少し高いかなと思いつつも、登る気持ちは変わらない。

 靴を脱いで、急な階段を一段一段踏みしめながら上へと向かう。足を踏み外さないように適度な緊張感をもって、足をしっかりあげる、そんな程よい筋トレを意識しつつ楼上へ辿り着いた。

 そこに美しい青空と京都市街が眼前に拡がる。この楼上は東西南北が見渡せるよう、ぐるりと回廊が巡る。そこから眺望する景色はまさに圧巻。足がすくむようだ。かの石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな!」と称え、「この五右衛門の目からは値万両」の景色と述べたという(歌舞伎の台詞)。まさに五右衛門の言う通り、500円程度の拝観料など目ではない。

 秋たけなわのそんな京都の街並みを見つめながら思った。「神が良し」と言われた世界がここにも確かにある、と。そして時に、急な階段を上らされような人生の歩みに、意味があることも感じた。この三門の向こうの仏国土ならぬ神の国を目指して、益々元気に歩んで行きたい。「絶景かな」と神の創造の業を心から褒め称えつつ・・・。



☆11月1日説教「希望」要約:
「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ・・・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、・・・天に蓄えられている、・・・財産を受け継ぐ者としてくださいました」
(ペトロの手紙一1:3‐4)
 私たちは、置かれている環境や境遇で、自分の人生を決められる必要はありません。ましてや他の心ない人の言葉や行為ゆえに、暗い人生を強いられる必要は全くないのです。神を見上げ、信仰をもって、神の子どもの自覚の下、希望をもって生きようではありませんか。
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by aslan-simba | 2015-10-29 20:41 | Comments(0)

主に望みを・・・

 人生、突然の厳しい試練に見舞われることがあります。事故や災害、病気など厄介なことが次から次へと起こる。信用していた人に裏切られ、すべてが塵芥に帰す。「何故自分がそんな目に遭うのか・・・」と、そういったご相談を受けることがありあります。

 もちろん、そこまで至らなくとも、人は日頃から、大なり小なり何らかの問題や思い煩いを抱えつつ、今を生きています。過去の「良き時代」を懐かしんでも、悔やんでも何も始まりません。人の一生は、生まれてから死ぬまでの一瞬一瞬の積み重ね。過ぎ去った時は帰りません。時計の針のようには戻せないのです。まずは今の現実をしっかり認識して、前に進む以外に手はないのです。

 ただ心に留めたいのは。この人生、神より賜った大切なものだということです。だから、いかなる試練にも押し潰されてはならないのです。聖書は言います。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント一10:13)と。

 思えば、神の真実を私たちに示されたイエス・キリストご自身、とてつもない試練に苦しまれた方です。主は、私たちのために十字架の死を遂げました。それほどまで、私たちを愛し抜いて下さったのです。この主イエス・キリストが共にあり、私たちを支えて下さっている。ならば、私たちは見捨てられることはありません。

 また、こうも記されます。「およそ鍛錬[試練]というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:11)・・・。 御言葉を真摯に捉え、試練によって鍛えられことを切に信じ、主を仰ぎつつ、新たな一歩を踏み出せますよう、心よりお祈りします。

 「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)。 見上げれば、今日は雲ひとつない秋晴れ。抜けるような青空、日差しがまぶしいくらいの暖かさ。共に心を高く上げましょう。



☆10月25日説教「信じること」要約:
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(ヨハネの黙示録7:10)
 ヨハネ黙示録は、迫害下の人々に宛てられた手紙。そこに苦難の中にある彼らを励まし、神の愛と真実は変らないことが示される。私たちは今、自由と平和を存分に享受できる環境下で同じ神を、同じキリストを礼拝する恵みに与っている。その意味を感謝をもって捉えたい。
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by aslan-simba | 2015-10-20 23:11 | Comments(0)

日暮れて

 「秋の日はつるべ落とし」・・・今日も一日が暮れて行きます。「寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ」と百人一首にも詠われますが、もの寂しく、もの憂いこの季節感は、いつの時代も同じなのでしょうか・・・。

 金木犀の香りがほのかに漂う夕暮れ。仕事に疲れを覚え、しばし手を休めると、決まって口をつくのが、讃美歌39番です。「日暮れて 四方(よも)は暗く 我が霊(たま)は いと寂し 寄る辺(べ)なき 身の頼る 主よ、ともに宿りませ」・・・。

 何年も前のこの時期のことですが、ふと自らを振り返えり、「自分は何をなし得て来たのだろうか。自分の人生はこの先、どこに向かっているのか。このままで良いのだろうか・・・」といった思いにさいなまれたことがありました。皆さんにも、そのような経験がおありかも知れません。この世に生活している限り、私たちはさまざまな出来事や問題とぶつかります。勿論、それらを少しでもよい方向に解決したいと願います。しかし、だからと言って、必ずしも満足な結論には至らないのが、人生の現実かも知れません。また、人は年齢を重ねるごとに、体の衰えも増して行きます。「涙とともにパンを食べた経験のないものに、人生の味はわからない」とはゲーテの言葉ですが、人生には涙と嘆きがつきものなのでしょう。

 そんな思い悩みの折に、確かな励ましを与えてくれるのが聖書の言葉です。「いかに幸いなことでしょう あなた[主]によって勇気を出し 心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」(詩84:6-7)、「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる」(詩55:23)・・・。

 人生の道、人それぞれに重荷を負って歩んで行かねばなりませんが、それらを少しでも主に委ねられれば幸いです。「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)と語り、主イエスは今日も私たちを招き、共にいて下さる・・・。

 なお讃美歌39の原題は“Abide with me“(私のもとにどどまってください)。主への切なる祈りがそこにあります。




☆10月18日説教「主の苦しみ」要約:
「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイの信徒への手紙1:14節)
 キリストのおられるところに罪の赦しと和解があります。つまり、そこには神と人との間の平和、そして、真実の希望があるのです。そのキリストを我が内に抱いて生きる幸い・・・パウロは言います。「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」。感謝
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by aslan-simba | 2015-10-16 07:46 | Comments(0)

バオバブの木と聖書

 青々と高い空が拡がり、白く薄い雲がたなびく、気持ちの良い日です。日差しも優しく感じられる今日この頃、このまま時間がゆっくりと流れて欲しい。そんな思いさえします。

 先週、爽やかな季節の風に誘われて、仕事の合間に植物園を訪れました。正面の花壇には、ケイトウやマリーゴールドが美しく咲き誇り、コスモスが咲き染めていました。また「昼夜逆転室」では月下美人やドラゴンフルーツを、そして温室では何とバオバブの木の実が育っていました。

 バオバブの木、サンテグジュペリの『星の王子さま』の世界です・・・。そう言えば、あの小説にはこんな言葉が出ていました。「心で見なくっちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」・・・。私はそれを、聖書のこんな御言葉と重ねて覚えています。

「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリント二4:18)、「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマ8:24―25)と・・・。「見えないもの」といえば、福音書にもこうありました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」」(ルカ17:20―21)と。

 永遠なる御方に支えられ、そのような希望、そのような神の国の只中に、私たちは生かされているのですね。見える美しい秋の光景の中で、見えない神さまの働きを思い、感謝の思いに満たされます。しばしの秋の時間、植物園散策がそのような心豊かな時を与えてくれました。

 もしかしたら、園内に吹いていたあの時の秋風はそのまま、聖霊の息吹だったのでしょうか。否、聖霊の風は、今日も、今も、絶えずここに吹いています。


*京都府立植物園に行ったのは、文中にあるように先週。今週はお猿さんの顔に見えるラン「ドラクラ・ギガス」の花が随分と話題になっています。



☆10月11日説教「待望」要約:
「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる」(ヘブライ人への手紙9:28)
 いわゆるキリストの「再臨」と、「救い」の関わりを述べる箇所。十字架によって、私たちは罪の赦しは受けたが、完全な救いはまだ到来していない。今は、それを希望と忍耐をもって待つよう勧められている。
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by aslan-simba | 2015-10-07 16:53 | Comments(0)

すずしかりけり

 十月に入り、急に肌寒くなりました。多少、荒れた天気が続きますが、過ぐる日々には一時の金木犀のほのかな香りに心癒され、またスーパームーンの美しい輝きを愛でることもできました。秋の到来と四季の巡りをあらためて覚えます。

 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」・・・と、道元禅師の和歌ですが、春夏秋冬の四季の自然が美しことばかりで、それを愛でつつ、日々感謝だけをもって歩めれば、どれだけ素晴らしいことでしょう。

 あるお坊さんによると、この歌は「この世のすべては本来は純粋」であると述べ、「今現在の自分自身そのままを受け容れて行く事」ができる時、「心のとらわれがなくなる」という「悟り」を示しているそうです。なお「すずしかりけり」とは「清らかに澄んでいる。純粋である」の意味で、道元はこの歌に「本来の面目」という題をつけたといいます。本来の在り方ということでしょうか。

 思えば人間も自然の一部。ならば人は、自分の人生の春夏秋冬と重ねて、この歌を詠んだらよいのかも知れません。花咲き、小鳥鳴く少年期および青年期、輝きをもった壮年期、頭に雪積もる老年期・・・。我が身を振り返って思いますが、その具体的な生活の日々においては、喜びの溢れる時あれば、悲しみに心塞がれる時も・・・それぞれの季節が、さまざまな彩りに包まれていたのが実態です。「純粋」には程遠いかも知れません。しかし、そのような人生の季節を、心底共に在る神さまを忘れず、本気で委ね、祈ることを通して、「今現在を受け容れ」、精一杯生きる純粋な姿へと、変えられて行くのでしょう。

 まだまだ「悟り」には達し得ない、否、委ね切れないところのある自分ですが・・・。 ふと、ある神学者の黙想の言葉が脳裏を走りました。「ありがとう、インマヌエル、神は私と共におられます。私たちが神と離れても、神の手である救い主イエスは私たちを捉えて離さず、私たちがどんな有り様の時でも大丈夫である」と・・・。

 そうです。自分たちの人生の如何なる時も、主の御手が常に捉えて下さっているのです。だから安んじて人生の四季を歩み続けたいものです。



☆10月4日説教「礼拝の喜び」要約:
「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(ヨハネの黙示録4:1)
 天の門は開かれている。主イエスが十字架にかかり、私たちの罪を贖ってその門を開いてくださった。それは誰も閉じることはできない・・・。そして今、私たちの礼拝は天に向かって、天上の礼拝と一つになって行くのである。
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by aslan-simba | 2015-10-02 15:16 | Comments(0)

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