「リバー・ランズ・スルー・イット」(A River Runs Through It)というアメリカ映画、ご存知でしょうか。90年代の知る人ぞ知る秀作だそうです。

 実は先日、ある方の著書に、この映画が言及されていました。曰く「アメリカ的精神がそのまま析出し」、「深く宗教的な感性が刻印されている」映画である、と(森本あんり『反知性主義』)。 興味を引かれ、早速ビデオを取り寄せた次第です。

 舞台は20世紀初頭のモンタナの田舎町。郊外には広々とした草原、深い針葉樹に囲まれた渓谷・・・それが画面一杯に拡がります。物語は、学究肌の牧師の父と、優しい母の愛情の下で育まれた性格の異なる二人の息子たちの成長を中心に展開して行きます。兄は長じて大学教授職を得てシカゴ赴任。他方、地元紙記者の弟は、ギャンブルにのめり込み、破天荒な人生に陥って行くのです・・・。

 けれども二人はいつまでも、仲の良い兄弟でした。彼らを結んでいた絆は、生真面目な父から教わったフライ・フィシングという、疑似餌を正確な四拍子のリズムで森林の渓流に掉さす釣りを楽しむことでした・・・。

 中略してエンディング・・・年老いた兄のこんなモノローグで閉じられます。 「妻を含め、あの頃の親しかった人々は、もはや皆亡くなった。生前の彼らには、理解できないこともあった。しかし今なお、彼らは私の心の内に生きている・・・」、そしてこの老人が一人、フライ・フィシングを行う姿に合わせて、「渓谷に黄昏が忍び寄る時にはすべては消え、残るのは私の魂と彼らとの思い出・・・さらに、川のせせらぎと四拍子のリズム。いつしか、そのすべてが一つに溶け合う。そして<川はそれを流れて行くのである>・・・」と語られます。

 大きな自然と一つになったこの老人の姿に、ふと何十年後かの自分の姿を思い描きます。おそらく、この映画を見た多くの人が、自らの人生を、家族を、愛を、自然を、亡くなった人々との関わりを、また信仰者であるなら神を思うのではないでしょうか。

 それにしても原題をカタカナ書きにしただけの邦題、何故なのか。おそらくは「イット(It それ)」に込められた、語り尽くせぬ人生の重みと、自然ないし神の、時に優しく、また時に冷酷なまでに厳しい摂理が理由なのでは・・・。



☆9月27日説教「落ち着いて」要約:
「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(テサロニケの信徒への手紙ニ3:12)
 これは終末意識に煽られ、日常生活を放棄した「熱狂的信仰者」に対するパウロの叱責です。人はどんな時でも、主に在って泰然自若としていなければなりません。「たとえ世界が明日終わるとしても、今日、私はリンゴの木を植える」(ルター)と・・・。心に刻みたいものです。
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by aslan-simba | 2015-09-24 08:01 | Comments(0)

白髪は冠

 九月も半ば、いつも通る緑道の土手に曼珠沙華の花が咲いている。秋彼岸、毎年決まった時期に咲く花に、あらためて時の経過の早さを覚える。

 ところで、次の月曜は敬老の日。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」祝日だ。聖書も「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」(レビ19:32)と高齢者を敬愛する大切さを教える。箴言は「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」(16:31)、「力は若者の栄光、白髪は老人の尊厳」(20:29)と高齢者の尊厳にも言及する。

 一方、「老いる」ことの辛さも聖書は語っている。それは仏教のいう「一切皆苦」や「四苦八苦」・・・「思うようにはならない人生」「誰もが衰え、やがて死んで行く現実」を悟る意味と重なるようだ。特にコヘレトの言葉の12章はそれを示している。「『年を重ねることに喜びはない』・・・その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ」(コヘレト12:1-3参照)・・・。

 しかし、神は言われる。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:3-4)、「わたしは長寿をもって彼を満ち足らせて、わが救いを彼に示すであろう」(詩篇91:16口語訳)と。神が与える長寿は、この世の生を充足させるのである。

 私たちの人生の歩み、今がいかに辛くとも、主の御国へと向かって日々を歩む希望が、常に与えられている。また私たちの体が弱ろうとも、いつまでも祈り求めることが許されている。地上最後の日まで。

 「・・・神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友、われなんじを見捨てじ』と」(ヘルマン・ホイヴェルス神父)。

 祈りをもって迎えた新たな人生の秋をここに喜びたいと思う。




☆9月20日説教「恵みと平和」要約:
「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(ガラテヤ信徒への手紙1:3)
 「恵みと平和」は、父なる神に由来します。御子の十字架は、その神の御旨を成就させるためだったのです(4節)。 私たちはこの教会で、御言葉を聞き、聖書の示すその「恵みと平和」を頂くのです。しっかりと受け取って、新たな週の歩みへと送り出されたいと願います。
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by aslan-simba | 2015-09-16 16:13 | Comments(0)

忍の一字

 「人生は忍の一字」、父がよくそう口にしていた。会社の先輩からも「『忍』いう字は心の上に刃と書く。何度も何度も鋼を叩いてつくられる刀。そんな強く鍛えられた刃を粘り強く支える心、それが忍耐だ」と教えられた。今朝、ヤコブの手紙を読みながら、ふとそんな昔の記憶が甦ってきた。

 ヤコブ書には「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います・・・」とある(5:11)。ある聖書注解者は、聖書の記す「忍耐」を「能動的に人生の苦難や試練に打ち克つ精神である」という(W.バークレー)。

 ちなみに聖書の「忍耐」の原語、ギリシア語「ヒュポモネー」は「下に身を置く」という意味。私には、それは神の下に身を置く行為のように思われる。だから、聖書の告げる「忍耐」は、どんなに厳しい状況にあっても常に、「希望」と関わって行くのである。たとえば、パウロはこう記す。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5章)、「愛は・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(コリント一13章)と。

 なおヤコブ書5:11は、このように続く。「・・・あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」。周知のように旧約のヨブは、語り尽くせないほどの悲惨な状況の只中に置かれながらも、どこまでも食い下がるように神に問い続け、徹底して神に寄りすがった人物である。そして、その凄まじい試練の後に、彼は以前に倍する財産と家族、さらに長寿を与えられたと描かれている(ヨブ42:10―17参照)。それは、如何なることがあっても、最後には全き救いへと神は導かれるとの固い約束が、象徴的に告げられているのだろう。

 私たちも主の憐れみを心底信じ、安んじて神さまの下に忍耐したいものだ。心配はない。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくださいます」(コリント一10:13)。




☆9月13日説教「パンの奇跡」要約:
「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(マルコ福音書8:14)
 主イエスが共におられることが、どれほど大きな意味を持つか、悟るべきです。そこにパンが一つしか無くとも・・・「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)
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by aslan-simba | 2015-09-10 07:34 | Comments(0)

主のくびき

 徳川家康の遺訓として語られる人生訓。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。 不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし・・・」。本当に考えさせられます。私たちは皆、さまざまな重荷を負って、日々を歩んでいるからです。

 今朝、詩55編を読みました。最初にこう記されます。「神よ、私の祈りに耳を傾けて下さい。・・・わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です」(1-3)。抱える重荷の種類は違っても、この詩人の思いも、私たちの人生の現実と重なります。しかし詩人は最後には、こう導かれるのです。「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる」(23)と。

 ある神学者の言葉を思い起こしました。「救い主イエスがゴルゴダの丘で裁かれた時、救い主イエスの背にはすべての時代の、すべての人の罪の重荷が背負われていた。私の罪も、あなたの罪も、人間が正義だと考える罪も、愚かな罪もすべてである。救い主イエスはその罪の重荷に押しつぶされて死なれたのではない。その重荷に耐え十字架の上で『わが神、わが神、なぜ私を見捨てられるのか』と私たちの代わりに叫んで息を引き取られたのだ。愛する友よ、だから私たちの荷物である罪を救い主にゆだねなさい・・・」(カール・バルト『教会の信仰告白―ジュネーブ教会信仰告白による使徒信条講解』)。あらためて十字架の出来事の勿体なさと有難さが心にしみます。

 そして四苦八苦しながら生きる日常のなかで、忘れかけている招きの御言葉が大きく甦ってきます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28―30口語訳)。 この人生に重荷が無くなる訳ではありません。けれども主が共にくびきを負って担って下さるのです。

 初秋の風がそよぎはじめました。新たな気持ちで歩んで行きましょう。


☆9月6日説教「豊かに蒔く」要約:
「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(コリント二9:8)
 伝道を考える時、いつも自分たち自身が問われていることと思います。私たちが、御力を心底信じて、同じ方向に祈りを重ねれば、教会は大きく変わると思います。益々の恵みによりすがりつつ・・・
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by aslan-simba | 2015-09-03 07:55 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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