<   2015年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

清浄無垢の今日から

 梅雨の合間の晴天、雨に洗われた山々の緑が、色鮮やかに輝いています。青田を渡る風も爽やか・・・昨日の豪雨が、うそのように思われます。 六月最後の週・・・。

 この時期に和菓子屋さんの店頭を飾る、美味しい和菓子が、この月と同名の「水無月(みなづき)」です。このお菓子の形姿には、意味があるそうで、「小豆は悪魔払いを示し」、「三角の形は暑気を払う氷を表す」とのこと。また食べるのは水無月晦日(みなづきみそか)、つまり6月30日の「夏越の大祓(なごしのおおはらへ)」の日にです。

 京都などの神社で行われるその大祓の神事は、正月から六月までの半年間に知らずにおかした罪や穢れを祓う、「茅(ち)の輪くぐり」が行われます。それは境内に作られた大きな茅の輪の中を、「水無月の夏越の祓する人は、千歳(ちとせ)の命 延(の)ぶというなり」と唱えながら8の字を書くように三度くぐり抜け、罪の赦しを頂くのです。やった事が無いので、何とも言えませんが、何か旧約聖書の伝える「贖罪日」(レビ記23:27)という言葉を彷彿させられます。罪穢れを赦して頂き、清浄にされて、また新たに生きようという思いは、古代イスラエル人にも今の日本人にも通じるものがあるのでしょう。

 ともあれ、今年も半分が過ぎようとしています。真摯に主に祈り、赦しの福音を頂き、新たな思いをもって後半戦に立ち向かいたいものです。漢文古典の言葉が口をつきます。「筍(まこと)に日に新たに、日々に新たに、また日々新たなり」・・・高校時代に教わった漢文ですが、以前この言葉を評して、ある財界人がこう記していました。「・・・新たに今日という清浄無垢の日を迎える。今日という一日に全力を傾ける。今日一日を有意義に過す。これが私にとって、最大最良の健康法になっているのかもしれない」(土光敏夫)。

 昨日まで気になっていた問題を改めるのも今日。いつかはせねばならぬと思っている事柄も、今日から始められます。頑張りましょう。 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5:17)。



☆6月28日説教「御計画の中に」要約:
「異邦人たちはこれを喜び、主の言葉を賛美した。・・・こうして、主の言葉その地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から追い出した」(使徒13:48-50参照)

 アンティオキアでのパウロの宣教、そこには豊かな実りと共に大きな徒労もあった。その両面を真摯に受け止めつつ、彼は前進する。ひたすら神の救いの御計画を信じて・・・。 私たちもまた、同じその御計画の中に今、置かれている。そこで私たちは為すべきことだけを行えばよいのだ。焦る必要はない。神の大いなる御業を心底ほめたたえ、安じてここから、一週間の旅路を歩み出そうではないか。道は必ず拓かれる!
[PR]
by aslan-simba | 2015-06-25 13:35 | Comments(0)

あじさい教会・・・

 朝からどんよりとした曇り空、家を出るとぽつぽつと雨が降り始めました。傘をもって乗る朝の電車、周りの迷惑に気遣いながらの一日の出発です。くしくもそんな日に限って学校では、冷房の十分でない教室での授業が重なります。それはそれで、自然の摂理と達観・・・。

 午後の授業を終えて帰途へ。雨はあがっていますが、蒸し暑い。多少の疲れを覚えながらの一時間ほどの帰路、駅に到着し改札を出た途端に、豪雨に見舞われました。とほほ・・・。

 毎年、この時期にはこうした経験を繰り返すのですが、そんな梅雨の真只中、道行く私たちの気持ちを和ませ、元気づけてくれるのが、色鮮やかなあじさいの花々です。さまざまに色を変えながら咲き誇る姿、その華麗な美しさには感嘆させられます。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。・・・栄華を極めてソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」というイエスさまの御言葉が、まさにこの日本の季節、この風土のなかで受肉し、私の心に響いてまいります。そういえば、あじさいは元々、日本固有の花木と言われます。 西洋あじさいについては、江戸後期に、 長崎のオランダ商館の医師シーボルトなどによって欧州へ送られたものが、改良されたものなのだそうです。

 さて、今年は何とか時間をつくって、あじさいの名所、三室戸寺や藤の森神社なども訪ねたいものです。また、いつか桃山栄光教会が大きな会堂を持つ際、庭は美しい花で彩り、「花の教会」に出来ればと願います。今の時期ならば「あじさい教会」、どうでしょうか。

 ところで、あじさいをこんな風に詠った詩がありました。「あじさいの花をみているわたし あじさいの花にみられているわたし 花にみられてはずかしい  にんげんのわたし」(相田みつを)。あじさいの花を通して、神さまに見られている自分。今を懸命に生きる花に恥じないように、一日一日を一生懸命に生きたいものだ、とあらためて痛感させられます。なお、相田みつをのこんな言葉も好きです。「名もない草も実をつける いのちいっぱいの花を咲かせて」。希望と祈りを大切に、教会生活も精一杯に頑張りたいものです。雨の日にも・・・



☆5月21日説教「神は聞く」要約:
「『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする』。神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」
(創世記21:17-19)
 泣く声の言葉にならない祈りを、主は聞いておられた。神は、私達の悲しみも、苦しみもすべてを聞き、御手を伸ばして下さるのである。ただただ感謝
[PR]
by aslan-simba | 2015-06-18 13:19 | Comments(0)

念速寺

 先日、母の33回忌の法事で、東京の菩提寺、念速寺を訪れた。この寺は文京区にあって、地下鉄・後楽園駅からタクシーでワンメーター。歩いて行くと20分ほどの距離だ。境内に、日本で初めて行われた病死体解剖に志願した、美幾女と称される人の墓(文京区指定史跡)があることで、地元の歴史に興味を持つ人たちの間では案外知られた真宗寺院だと聞く。

 我が家は宗教的な家庭ではなかったが、それなりにお寺との繋がりは欠かしていなかった。子供の頃から仏事の度に、よくここに連れて来られた。そのせいだろう。寺のまわりの光景は昔とは随分変ったものの、何か懐かしさを感じるのである。

 幼稚園の頃だっただろうか。お坊さんの唱えるお経が、歌のように響いたり、阿弥陀さまの向こう側に、何か不思議な世界があるように思えた記憶がリアルにある。宗教の違いはともかく、この頃から「宗教の道」への導きを頂いていたのだろうか・・・。

 ところで、母が32年前の6月に亡くなって以来、信心にはまったく興味のなかった父が、月命日には必ずこの寺を訪ねるようになった。そこまで宗教に思いを寄せるなら、キリスト教のことも是非知ってもらいたいと、当時、東京に戻った折には、父にキリスト教入門書を手渡したり、教会の話などを意図的に行った。その甲斐あってか父は、家に訪ねて来るエホバの証人の人に「息子がキリストをやっていますから、結構です」とお断りしたり、近所の人々に「息子は牧師です」と話してくれたという。何もそこまでやらなくとも・・・。

 きわめつけはこの念速寺のご住職にも、私のことを話し、ご住職が心から喜んでくれたと言っていた。にわかに信じ難かったが、本当だった。その後、ご住職にお会いした折に、「よかったですね」と言って下さった。彼自身、若い頃、キリスト教の勉強を随分とされたそうだった。いつかゆっくり語り合いたいと思っていたが、果たせないまま亡くなられ、現在は奥さんがお坊さんをやっておられる。頑張って欲しい。

 私共は互いに、無限の大いなる御力に生かされているのを知るのだから。いつまでも寛容であり続けたいものだ。




☆6月14日説教「私達のため」要約:
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」
(コリントの信徒への手紙二8:9)
 
 「キリストの恵みを知っている」・・・教会の働き、信仰の業は、そこから生じるものです。だから、そこには喜びがあるのです。キリストはそんな「豊かさ」を私達に与えるために、「ご自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ2:6-8)のです。
[PR]
by aslan-simba | 2015-06-12 16:49 | Comments(0)

今日も花道

 ここしばらく駆け足の日々が続く。多少の緊張感もあり、充実した毎日だが、今朝、学校へ向かう途上の坂道で、膝に痛みが走った。やはり疲れがたまっているのだろうか。「心は燃えていても、肉体は弱い」(マタイ26:41)のか。それ以前に、やはり寄る年波には勝てないのだろうか・・・などと口走りつつも、私の中には年をとったという認識は、あまりない。おまけにやりたい事、やらねばならない事がまだまだある。

 ところで先日、そんな私も、身近に「老い」の問題と直面するはめとなった。私自身の話ではない。我が家の飼い犬シンバのことである。それは一週間前のこと。シンバが急に立ち上がれなくなった。高齢による体の弱りで、後ろ足がまったく利かなくなったのである。文字通り腰が抜けた状態となってしまった。

 3月にも、このブログで紹介したように、シンバは「ズタボロ犬」だが、食欲旺盛で、私たちの食事中には必ずテーブルの下にやって来ていた。また普段からエサ欲しさに吠えたり、散歩を要求したりする元気もあった・・・そんな彼がその日を境に動かなくなり、声を出さなくなったのだ。

 現在、妻と娘が近所の獣医科へ通院させてくれており、彼なりに前足二本で何とか体勢を整え、懸命に生きようとしている。逆に、そのシンバらしくないけなげさに、胸が痛む。正直、私の「老い」を、彼が身代わりになって担ってくれているような気さえするのである・・・。

 なお獣医さんの話によれば、シンバは人間の年齢に直せば90歳ほどとの事・・・。それを聞いて、ふと107歳で亡くなった清水寺貫主の大西良慶氏が、90歳の頃に、「坊さんの花道は七十代だ」と語ったという逸話を思い出した。ならば、シンバの「犬の花道」はいつだったのだろうか。それは「今」に決まっている。彼はいつも「今」を生きて来たのである。

 ついでに我が「牧師の花道」は・・・「主に在って毎日」と、僭越ながら述べたいと思う。どこまでも「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)ことを愚直に信じて。シンバも頑張れよ。



☆6月7日説教「救いの完成」要約:
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(エフェソの信徒への手紙1:3)
 信仰生活とは、いつも神をほめたたえて生きる生き方です。喜びの日も、悲しみの時も、豊かさの中にも、困窮の折も、また病床にあっても、賛美して生きる生活なのです。
[PR]
by aslan-simba | 2015-06-04 22:29 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31