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風に吹かれて行こう

 緑まばゆく、頬をなでる風も気持ちのよい五月。キャンパスの坂道を早足で下るのも、心地よく感じられる頃です。先日、授業を終え、駅へと向かっていた際に、学生時代に耳にした、和製フォークの一節が脳裏を走りました。

 風に吹かれて行こう 生きることが今 つらくいやになったら 風に吹かれて行こう・・・
 風に吹かれて行こう 今はつらくても きっと何かあるさ 風に吹かれて行こう
(やまがたすみこ作詞)

 ありがたいことに私自身、今つらいことがあるわけではありません。そればかりか、初夏の風を受け、この先まだ、「きっと何かある」という期待を感じています。

 山田無文という禅者がこう詠っていました。「大いなるものに抱かれあることを、今朝吹く風の涼しさに知る」。山田老師は若き日、修行半ばで大病を患い、自宅療養を余儀なくされました。そんな失意のある日、家の庭で風のそよぎに気づきます。それに自らを委ねた時に示された心境が、「大いなるものに抱かれ・・・」、つまり「自分は一人ではなかった。孤独ではない。大いなるものが片時も離れず、私を守り育ててくれている・・・。その目に見えない力によって、なお私は生かされている」という感謝の思いだったのです(平成23年5月『花園』他参照)。

 そこに天地万物を創造された「神の息吹」を私は覚えます。山田老師もそれを体感されたのではないでしょうか。 ところで、旧新約を問わず聖書の述べる「風」は、同時に「息」および「霊」を表します。まさに、「神の息」、「神の霊=聖霊」に抱かれて、私たちは人生の時を生かされ、歩めるのです・・・。

 そのような恵みを、あらためて示す風薫る季節は、いみじくも端午の節句、鯉のぼりの時期とも重なります。「激しい滝を登りきった鯉は龍となり、そこから天に昇って行く」という故事にあやかって、若者たちが大いなる力に与り、明るく元気に成長することを願います。そして、彼らをはぐくみ育てる、この国の輝かしい希望の未来を信じ、心から祈る次第です。

 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒12:17)。私たちも最後まで、大いなる夢とヴィジョンを忘れずにいたいものです。




☆5月3日説教「新しい掟」要約:
「わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。・・・そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です・・・闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(ヨハネの手紙一2:7―8参照)
 既に光は輝いています。私たちはその事実を知るだけでなく、その中を歩むようにと招かれているのです。「闇」に、自らからを閉じ込めてはなりません。新たな思いを抱き、また光の中を歩み出そうではありませんか。
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by aslan-simba | 2015-04-30 09:57 | Comments(0)

Hope for Tomorrow

 仕事を少し残して一日を終えるような時には、きまって「ひょっこりひょうたん島」のドン・ガバチョの歌を思い起こします。「今日がだめなら、明日にしましょう。 明日がだめなら、あさってにしましょう。 あさってがだめなら、しあさってにしましょう。 どこまで行っても、明日がある・・・」。

 ただ、この歌詞が頻繁に脳裏に走ったのは、17、8年ぐらい前のこと、自分にとって、かなりしんどい経験をしていた頃です。それでも何とか頑張って前向きに仕事をし、少しでも明るい未来を築きたいと祈った折に、よくこの歌が心の内に甦り、励まされました。

 「明日」とは、「明るい日」と書きます。その言葉には単に次の日ということではなく、未来の可能性と希望が示されています。どこまで行っても、その「明るい明日がある」から、「今は大変でもあきらめず頑張ろう」と・・・。 その後も今に至るまで、私は昨日より今日、そして今日より明日へと、思いをつなぎながら歩んで来ました。

 そんな思いに重ね合わせてパウロの言葉を読むと、聖句がリアルに響きます。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:2-6)。「『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントⅡ6:2)と。

 先日、パソコン検索をしていた際に偶然、科学者アインシュタインが遺したこんな言葉を知りました。「昨日に学び、今日に生き、明日に希望をもとう。大事な事はいつも問い続けることであるLearn from yesterday  Live for today  Hope for tomorrow The important thing is not to stop questioning.)」。

 過去から学び、今日を真摯に生き、未来に確かな希望をつなぐ・・・。明日という未来があるからこそ、今日という日が恵みになるのです。思いを常に前に向け、ベストを尽くして今日を生きる姿勢をいつまでも大切にしたいと願います。「人事を尽くして天命を待つ」・・・。

 私たちには、「どこまで行っても明日がある」。輝く未来がある。約束された御国に召される日まで、希望の明日は続きます・・・。




☆4月26日説教「心の目」要約:
「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」(エフェソの信徒への手紙1:18)
 神さまは大きな力を、私たちの内に働かせ導いて下さいます(19‐20参照)。そのことに気づき、常に期待をもって歩んで行けるよう、「心の目を開いて」行きましょう。
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by aslan-simba | 2015-04-23 12:07 | Comments(0)

春の相国寺

 京都御所の北側に、相国寺(しょうこくじ)という臨済宗の禅寺があります。この寺院は、あの金閣寺(鹿苑寺)や銀閣寺(慈照寺)ほか、全国の100カ寺あまりを統括する臨済宗相国寺派の大本山で、歴史は古く、京都五山の一つとして、室町幕府の足利義満が創建。当初の建造物は、応仁の乱や天明の大火などで、多くが消失しましたが、1807年(文化4年)に再建され現在に至る、といいます。由緒正しいお寺さんです。

 だからでしょう。市内の中心部にありながらも、広い境内を誇っています。壮大な伽藍・・・。参道の生け垣は清楚に手入れされ、木々はいつも美しい緑に彩られています・・・。と言っても、境内に入ったのは、昨年度までに三度しかありません(隣にある同志社のキャンパスへ、週に一度は出向くのですが)。そのいずれも、境内にある美術館の展覧会目当で、授業の合間の時間つぶしと気分転換が目的でした。

 この新たな年度は思いを新たに、桜の時期に合わせて足を運んでみました。ちょうど春の特別拝観が行われており、伽藍の中に入ることができました。まずは法堂(はっとう)、これは大火の中、奇跡的に残った建造物で、国内の法堂建築として最古のものだそうです。天井に描かれた狩野光信の筆による『蟠龍図(ばんりゅうず)』が見事です。「八方睨みの龍」ということで、法堂内のどの角度から見ても、たえず龍がこちらを向いているのです。方向によって昇り龍になったり下り龍になったりしながら・・・。いったい、どういう構造になっているのでしょうか。まさにトリック・アートの先駆けです。

 さらに、お寺の人の指示に従って手を叩くと、「ブルルン」と龍の鳴き声が耳に・・・。ふと、子供の頃に住んでいた東京の家が脳裏を走りました。あの小さな玄関で手を叩いた時とまさに同じ音が響いたからです。あの頃、母が言っていた「うちには鳴き龍がいるみたい」という言葉を、懐かしく思い起こしました。

 次に訪れた法堂の北の方丈(ほうじょう)、そこで禅庭の意味を教えてもらったり、お釈迦さまの誕生仏に甘茶をかけるのを見学したり、美しい桜の木々をめでたり・・・実に有意義なひと時を過ごしました。

 たまには寺社に足をのばすのも良いものです。新たな発見があります。




☆4月19日説教「真実の言葉」要約:
「女はエリヤに言った。『今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です』」(列王記上17:24)
 エリヤは、紀元前9世紀中ごろに、北イスラエル王国で活躍した預言者。主に仕える彼は、当時のイスラエルの霊的状態を憂い、主に立ち帰ることを真剣に祈り求めました。ヤコブ書はこのエリヤに言及しつつ「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらす」(5:13以下参照)と記します。
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by aslan-simba | 2015-04-16 14:25 | Comments(0)

復活、神の賜物

 「キリストの復活がなかったなら、わたしたちの信仰はむなしい」(コリント一15:17他参照)。

 キリスト教は「イエス・キリストの復活」から始まった宗教です。福音書、使徒言行録、パウロの手紙・・・新約のみならず旧約の記述を含む聖書の一切が、最終的にはこの出来事を指し示していると述べても、過言ではないでしょう。

 しかし「復活」とは、読めば分かる、聞けば理解できるといったものではありません。当初は弟子たちさえも、疑い迷った出来事だったのです。

 事実。四つの福音書の記す「復活」の事実は、決して理路整然としたものでなく、相互に相違や矛盾もあります。聖書の研究者の中には、その理由として、「身体伝承」(文字通りキリストが体をもって、リアルに甦ったという話)と、「幻視伝承」(弟子たちは、復活のキリストを幻視したという理解)が、複雑に入り組んで構成されているため、と指摘する人もいます。

 ある神学者は言います。「(復活に関して)身体的であれ幻視であれ、いずれかを選び解釈しようとも、解決不可能な諸問題を我々は受容せねばならない。・・・(復活とは)死を超える命という神の賜物なのである。イースターは、自然それ自身が再生する春に来るという、幸せな偶然がそこにある」(ジョン・ヒック『神とはいったい何ものか』より)と。

 理屈より先に、新たな命が息吹き、花咲き誇る春の自然が、「復活」を語っているのです。「文字は殺し、霊は生かす」(コリント二3:6)と言いますが、信仰とは決して「死んだ言葉」ではありません。そもそも「キリストの復活」などといった途轍もない出来事を、人間が客観的な仕方で書き尽くせるものではない。我々にとって「復活信仰」とは、「生ける主」に出会い、立ち上がって行く体験なのです。「死」という終わりの先に「復活」という新たな始まりという「事実」があることを信じて・・・。

 最初に復活を知らされた女性たち、弟子たちを始め、どれほど多くの信仰の先達が、この「復活の事実」に触れ、深い希望と尽きない喜びを得たことでしょうか。

  今、季節の明るい光の中で、甦られた主が私たち一人一人の傍らに立たれ、生きる勇気と希望を与えて下さっています・・・私たちも、この「事実」にしっかりと触れて、恐れずに歩んでまいりましょう。



☆4月12日説教「土の器」要約:
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(コリント信徒への手紙二4:7)。
 「土の器」が意味するのは、弱さ、脆さであり、最終的には壊れてしまうものです。私たちはその「土の器」に喩えられますが、単なる入れ物ではありません。キリストという[宝」を内に抱き、「神の並外れて偉大な力が現れる」ための「器」とさせて頂いているのです。感謝
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by aslan-simba | 2015-04-07 11:25 | Comments(0)

新たな一歩を

 桜の季節を迎えました。新たな年度、私にとって京都での21年目の年が始まりました。これまでの人生の滞在地で、一番長かったのが、伏見区を含む、この京都山城の地ということになります。

 「人生は山あり谷あり」と言いますが、こちらに住むようになって、色々な経験をしました。ふり返ってみると、そのさまざまな事柄、楽しい事のみならず逆境経験をも通して、本当に大切なことを学ばされたように思います。その歩みは、思い描いた直線コースではありませんでした。逆に、予想もつかなかったような回り道の人生だったと言えるでしょう。しかし、神さまはいつも私共に最高の道を与えてくれていると、ひたすら信じて今日まで歩んで来ました。

 「必要にして十分な人生」という表現があります。「人生には何一つ無駄なことなどない」ということでしょう。必要なものはすべて与えられているのだと思います。また、あらためてパウロの記した「常に喜べ。絶えず祈れ。凡てのこと、感謝せよ…(Be joyful always, pray continually, give thanks in all circumstances)」(テサロニケ一5:16‐18参照)が脳裏を走ります。もっとも、この言葉を日々、実践できているとは断言できませんが・・・。

 ともあれ、「感謝」の思いを忘れず、「今」を大切に、これからも夢とヴィジョンも携えて精進を続けたく願っています。この「今」という時が、過去の積み重ねによるだけではなく、そこに未来の希望が含まれていることも覚えて・・・。

 むろん、この私たちの人生の未来は、この世の死で終わるのではありません。目指すのはどこまでも御国です。「神は・・・わたしたちを新たに生まれさせ・・・生き生きとした希望を与え・・・守られています。・・・今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され・・・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れをもたらすのです」(ペトロ一1:3―9参照)。

 前を向いて新たな一歩を踏み出しましょう。




☆4月5日イースター礼拝説教「キリストの復活」要約:
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(マタイによる福音書28:5-6)
 墓の中にキリストはいなかった。復活された主は既に、先に進んでおられた。神によって新たなことが既に始まっていた。「新たな始まり」・・・私たちの人生の挫折や失敗も決して終わりではない。十字架と復活の主に在って、常にそこには新しい始まりがある。希望がある。

★桃山栄光教会のイースター(復活祭)礼拝のご案内:

  4月5日(日)午前10:30~11:30
  礼拝後にお祝いの食事会(13:00ごろまで)を行います。

  是非、お立ち寄り下さい。
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by aslan-simba | 2015-04-01 08:13 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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