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ウグイスの初音

 今年も早や2月が終わろうとしています。お正月を迎えたのが、つい昨日のことようにも、随分昔だったようにも同時に思えるのが不思議です。いずれにせよ、年齢を重ねるに従って、月日の過ぎ去る速度が速くなってきました。

 ある説によると、「時間の心理的長さは年齢に反比例する」とのこと(ジャネーの法則)。すなわち、「人間は、『新鮮な経験』が多いほど、時間の経過を長く感じる」ということなのです。例えば子供の頃は、見るもの聞くもの未経験なことが多いため、その分多くの出来事があった(=時間が長い)と感じる。 大人になると、「経験」によって処理できることが多くなり、その分、新鮮さや強い印象が薄くなる。よって、出来事の数が少ない(=時間が短い)と感じる、というように説明されます(「時間管理術研究所」ブログ参照)。

 ともあれ、迎える新たな月、3月の古い言い方「弥生(やよい)」という言葉・・・この「弥(いや)」は「ますます」「いよいよ」で、「生(おい)」は草木が「生い茂る」のを意味します。新たな命がいよいよ芽生える月ということです。

 そんなことを思いながら、今朝は駅まで少し遠まわりして、早春の里山を歩いてみました。何とそこでウグイスの初音を耳にしたのです。まだ完成されていない幼い鳴き声に、初々しい春の到来を覚えました。「鶯の谷よりいづる声なくは 春来ることを 誰か知らまし」、「もしも、ウグイスが谷から出て鳴く声がないならば、春の来ることを誰が知るだろうか」。平安時代前期の歌人、大江千里(おおえのせんり)の短歌です。「春告げ鳥」(ウグイスの別名)が「新鮮な若い喜び」を今年も新たに運んでくれました。神さまは四季の自然を通して、日々新鮮な経験を下さっているのですね。

 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、『内なる人』は日々新たにされていきます」(コリント二4:16)。




☆3月1日説教「荒れ野で」要約:
「イエスは・・・ヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天か裂けて“霊”が鳩のようにご自分に降るのをご覧になった。・・・それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(マルコ福音書1:9-12参照)
 人生において、荒れ野に置かれるような経験をすることがある。そんな時には思い起こしたい。主ご自身も、まず荒れ野へと「聖霊」によって導かれたことを・・・。
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by aslan-simba | 2015-02-25 16:38 | Comments(0)

梅の季節・・・レント

 暦の上ではすでに春ですが、まだまだ寒さ厳しい早春の日々。それでも「梅一輪 一輪程の あたたかさ」は、確かに実感される今日この頃です。こんな漢詩を思い起こします。

 弘道館に梅花を賞す
 弘道館中 千樹(せんじゅ)の梅
 淸香 馥郁(ふくいく)として 十分に 開く
 好文 豈(あに) 謂う 威武(いぶ) 無からんと 
 雪裡に 春を占む 天下の魁(さきがけ)

 幕末の水戸藩主、徳川斉昭(とくがわなりあき)の詠んだ詩です。文武両道を称揚した斉昭が開設した藩校、弘道館。彼はその校庭に植えた千株の梅林がつけた花々を指さして、「武士たるものは、この梅のように風雪に耐え、美しく己をみがいて生きよ」と述べるのです。

 桜でなく、梅をもって語られる武士道に一味異なる意味合いを感じます。梅は桜と違い、花の美しさを保つためには剪定が欠かせない、と聞きます。また梅は寒いほど香りが強くなるそうです。厳しい環境に負けず、常に努力をおこたらず、日々鍛錬に励む大切さこそが、真のサムライ精神なのでしょう。

 同志社では例年、今の時期、礼拝堂前に植えられた二本の梅の木が、清楚で美しい紅白の花をつけます。そうです。梅を愛し、漢詩に読んでいる人に新島襄もいます。

 庭上の一寒梅
 笑って風雪を侵して開く
 争わず又力めず
 自ら占む百花の魁(さきがけ

歌としても歌われ、詩吟としても吟じられる案外知られた詩です。 新島はまた・・・

 真理は寒梅の似(ごとし) 
 敢えて風雪を侵して開く

・・・とも詠っています。厳しい寒さに負けず、雪や霜にも耐えしのぎ、復活の春を告げる梅、すべての花々に先駆けて咲く「百花の魁(ひゃっかのさきがけ)」の毅然とした姿に、主イエス・キリストが映しだされます。

 このレント(受難節)の時、私たちも梅を見上げながら、筆舌しがたい艱難辛苦に耐え抜かれた、主の雄々しい御姿を覚えたいと願います。そこからキリストの示す忍耐を学び、感謝と悔い改めの心を確かにし、「サムライ精神」をもって自らを正し、新たな一歩を踏み出して行きたいものです。


*2月18日(水)~4月4日(土)は今年のレント(受難節、四旬節)の期間です。イースター(復活祭)は4月5日(日)です。





☆3月22日説教「光の子として」要約:
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソの信徒への手紙5:8)
 「光の子として歩みなさい」・・・神さまは私たちに、そう語りかけておられます。それは、私たちが既に主に結ばれ、光となっているからだ、というのです。主を信じ、主に結ばれ、信仰者として生きるということは、光となることだからです。
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by aslan-simba | 2015-02-18 08:36 | Comments(0)

KANO 

 今から三十年前のサラリーマン時代。台湾の田舎に出張した際、地元のバスに乗ったものの、目的地の停留所が分からずに困ったことがあった。日本語も英語もなかなか通じないため困惑していた私に、運転手をはじめ、乗り合わせていた乗客みんなが助けてくれようとした。夕方だったので、その大半は部活動帰りのジャージ姿の高校生たちだった。わけても一人の男子生徒は、その停留所を特定し、一緒に降りて目的地までわざわざ同行してくれた。心根の本当に優しい台湾の人々、純粋な高校生たちの姿に心底感動した。

 先日、「KANO 1931海の向こうの甲子園」という台湾映画を見ながら、そんな台湾出張の記憶が重なり、胸が熱くなった。

 映画は日本統治下にあった昭和6(1931)年に甲子園初出場を果たした台湾代表チーム(嘉義農林学校野球部。KANOはユニフォーム記された学校の略称:嘉農かのう)の物語。実話に基づく話だが、地元で一勝もできなかった彼らが、日本人監督の熱血指導の下に、みるみる力をつけ、甲子園で決勝に進出するほど成長するのである。真摯に野球に取り組むその野球部員たちの顔が、あのバスの中で出会った高校生たちの顔と、どこか重なるような思いもした。

 なお「KANO」には、日本人技師、八田與一(はったよいち)も登場する。当時、台湾総督府に在籍していた八田は、嘉農が位置する台湾南部の嘉南平野に水利施設とダムを建設し、作物の生育が難しい嘉南平野を、穀倉地帯へと変貌させたのである。台湾を愛し、台湾の人々のために体をはって奮闘した八田、今なお台湾の教科書にその業績が詳しく紹介されていると聞く。

 映画を見た後、「KANO」のプロデューサーがこの映画製作に関わり、こんな趣旨の発言をしていたのも知った。「(台湾も日本も)、互いに過去に非常に輝かしい誇り高い歴史もあった。そういったところから自信を取り戻し、どんなことがあっても恐れることなく、(未来に)向かっていくということが大事だと思う」と。

 歴史にとって、また私自身にとっても、過去、現在、未来を結ぶ、人と人との心の絶えざる繋がりを、真摯に覚えさせられるような映画だった。それをもといに、主に在って「万事が益となる」(ローマ書8:28)ことを信じたい。



☆2月15日説教「栄光を帰す」要約:
「ペトロは我に返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、また ユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ』」(使徒言行録12:11)
 囚われたペトロ、へロデ王の手の内に置かれたわけです。しかし真の支配者なる神は、その中においても具体的に働かれた。神は閉ざされた現実の中においても、確かに働かれるのです。
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by aslan-simba | 2015-02-13 21:08 | Comments(0)

つながり

 二人の日本人が残忍なテロ集団の犠牲になりました。怒りと共に、言葉にならない重い気持です。ただ犠牲者の魂は今、神さまの御許で確かに平安の内にあると、固く信じます。彼らの救出のために全力を尽くした政府、関係者の方々、祈り覚えたすべての人々、わけてもご家族の上に主の顧みがありますように。

 「最後だと分かっていたなら」(原題Tomorrow Never Comes)という詩を思い起こします。2001年の同時多発テロの直後に、心底痛みを覚える人々の間で広まったものです。

 あなたが眠りにつくのを見るのが
 最後だとわかっていたら
 わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
 神様にその魂を守ってくださるように 祈っただろう
 あなたがドアを出て行くのを見るのが
 最後だとわかっていたら
 わたしは あなたを抱きしめてキスをして
 そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう
 ・・・
 そして わたしたちは 忘れないようにしたい 
 若い人にも 年老いた人にも 明日は誰にも約束されていないのだ
 ということを
 ・・・
 だから 今日 あなたの大切な人たちを
 しっかりと抱きしめよう
 そして その人を愛していること
 いつでも いつまでも 大切な存在だということを
 そっと伝えよう
 ・・・
 (ノーマ・コーネット・マレック作、佐川睦訳 抜粋)。 

 当初は9.11 で犠牲となった消防士の詩だと言われましたが、実際は10歳で亡くなった息子を偲んで詠った、米国のある母親の詩でした。お子さんは、川で溺れた友だちを助けようとして亡くなったのだそうです。 大切な人々の命が、なすすべもなく奪われたやり場のない悲しみが、この時の人々の間で共感されたのです。

 あらためて思わされますが、私たちには大切な人がいます。普段はそれが当たり前になって、とりたてて感謝の思いを示すことなく、亡くして初めて、その大切なつながりに気づくことの方が多いのかも知れません。

 その大切なつながりの輪は、実はもっと大きいのだとも思います。そう、「私たちは皆、一つの大きな神さまの命の一部」なのだから・・・。そのつながりを断ち切ろうとするのが、卑劣なテロ行為であることは、忘れてはなりません。そして、北朝鮮に拉致された無垢の子供たちの帰りを、待ち続けている年老いた親御さんたちがいることも・・・。



☆2月8日説教「湖上で」要約:
「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』・・・イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ・・・」(マタイによる福音書14:27-29)
 主の御言葉に聴き従うとき、ペトロは海を踏んで歩くことができた。私たちも信仰によってキリストと共に、この世の荒海の上に雄々しく立てるのだ。主は言われる。「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ福音書 16:33)
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by aslan-simba | 2015-02-03 19:00 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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