人生の秋の道

 現在は回復しているが、先日激しい膝痛に襲われた。医師の話によると、原因はウォーキング/ランニングのやり過ぎらしい。健康のためだったはずなのに・・・。

 心身一如(こころと身体は不可分)というが、体に一つ痛みを抱えただけで、いつもの気力が半減している自分を覚えた。強いつもりだったが、案外脆い自分の現実。とほほ・・・。

 さらに心細くさせられたのは、一抹の哀愁に彩られるこの季節・・・。折しもここ数年、この時期に知人の訃報を耳にする。今年もそうだ。年齢を重ね、知り合いが増えたゆえでもあるが。ともあれ、人は働き、疲れ、齢を重ね、病を得て、その生涯を閉じて行くという事実にあらためて気づかされる・・・。いや、そんな簡単に言い切ってはならないだろう。その一人一人の生涯の歩みに思いを馳せる時、そこに示されるのは、生きるという事の重さである。結局は一人で担わねばならないこの人生。多くの場合、そこに孤独な闘いが浮かび上がる。

 ふと、松尾芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」という句が脳裏を走った。「この道とは、自分の一生の道、俳句において自分が歩んできた道。今や、この道を行く人はいない・・・」、ある人がそう記していた。亡くなる一ヶ月ほど前の句で、事実上、これが芭蕉の辞世だという。もしかしたら、晩年の芭蕉の心境のすべてが、ここに託されているのかも知れない。何という孤独な俳人・・・。

 否、芭蕉に限らず、人は誰もがこの孤独を携えて、人生を歩まねばならないのだろう。そうであっても、私たちはその孤独な闘いに、押し潰されてはならない。

 そうだ! 忘れてはならないことがある。人の孤独を、その極みまで徹底的に味わい尽くされた方がいたではないか。人々に捨てられ、理不尽な十字架に架けられながらも、なおも最後まで私たちのために祈り続けて下さった方がいたではないか。その方が甦られたのだ。だから、私たちは立ち上がって行けるはずだ。その方、主イエス・キリストに信頼し、委ねられるのである。

 ならば私たちの人生は、本当の意味では、決して孤独の闘いに終わらない。主が共に闘って下さるのである。そこにこそ、輝きに満ちた御国へと向かう人生の道の醍醐味がある! そして覚えたい。この晩秋の次にクリスマス、その次にはイースターという喜びの季節が巡り来ることも。



☆11月2日聖徒の日 説教「道、真理、命」要約:

「私は道であり・・・」(ヨハネ福音書14:6)

 「道」というヘブライ語は、「踏みつける」という言葉に由来する。確かに道は、人が踏んで通るもの。主イエスは自らが十字架にかかられることによって、私たちが父のみもとに行けるような「道」になって下さった。十字架の贖いは、まさにそのことを意味するのである。「わたしがあなたの罪の代償として苦しみを背負う。わたしを踏んで父のもとに行きなさい」。そんな御言葉を聞く。勿体ないことである。
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by aslan-simba | 2014-10-27 20:37 | Comments(0)

 10月31日のハロウィーン、日本でも若者の間でポピュラーになってきました。元々はケルト人(ヨーロッパの先住民)の一年の終わりのお祭り。後にカトリック信仰が彼らに入り、翌日11月1日の「諸聖人の日(オール・ハローズ)」の前夜祭(イブ)として祝われるようになり、「ハローズイブ」すなわち「ハロウィーン」となったようです。但し、教会暦の正式行事にはなっていません。

 ところで、この日は宗教改革記念日にもあたります。プロテスタント発端の日です。1517年10月31日の正午頃、ドイツ北部のヴィッテンベルグ城教会に、「免罪符」に関する議論を呼び掛ける「提題」が貼られました。提起したのは司祭で大学教員のマルティン・ルター。彼も翌日の「諸聖人の日」を意識していました。実は免罪符には、聖人たちの功徳のおすそ分けの意味が込められていたのです。つまり、免罪符を買うことで聖人の遺徳に与り、罪赦され、死後の煉獄の苦しみから解放されると言われていたのです・・・。

 その時代、普通の人は・・・地獄に行くほどの大罪を犯してはいませんが、天国へ直行できるほどは功徳は積んでいないため、まずは煉獄(れんごく)へ行き、業火で魂の徹底浄化が図られねばならないとされていました。だから「免罪符を買い、煉獄の苦しみをいち早く逃れ、天国へ行こう」という訳です。これに対するルターの批判は「罪が赦されるのは自らの悔い改めと信仰以外に手はない。罪の赦しを口実に、聖人の功徳の売買という発想はおかしい」ということでした。

 彼の提題はすぐさま印刷され、人々のあいだに大きな反響を呼んでいったのです(宗教改革に15世紀の印刷術の果たした役割は絶大)。正に良い意味で、メディアの力がルターを支えたのでした。

 そういう訳で、ハロウィーンの日には、お化けカボチャやキャンディーだけではなく、ルター先生の神学的情熱も思い起こして下さい。当日ドイツでは子供たちに、ルターの顔を描いたルター・キャンディーを配る教会もあるとか。味はどうでしょうか? ともあれ、宗教改革の大切なメッセージ「人が義とされるのは信仰のみによる」(ローマ3:28・ルター訳)ことを十分に味わいつつ・・・。



☆10月26日説教「救いを見よ」要約:
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。・・・主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」
(出エジプト記14:13-14参照)

 主はご自身で戦われ、私たちのために救いの御業を現されます。私たちがなすべきことは、どこまでもその主に信頼して歩み続けることなのです。その時、そこに必ず新たな道が開かれます。感謝
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by aslan-simba | 2014-10-23 08:50 | Comments(0)

秋の深まりの中で

 台風が去って、急に秋が深まりました。晩秋と呼ぶには、まだ少し早いかも知れませんが、暦の上ではすぐに「霜降」(夜露が寒気で冷え、初霜が降りる時期)を迎えます。日足も短くなり、何とはなしにメランコリックな思いに囚われる今日この頃です。

 最近知った京言葉に「おしまいやす」があります。晩秋に使用する「こんばんは」にあたる言葉だそうです。「秋の日暮れ、たとえば路地なのでこの『おしまいやす』を耳にすると、とても人懐かしい気分になる」(『京の季語・秋』)・・・この時期、確かに「人懐かしい」季節。それもメールや電話で連絡出来る相手ではなく、既に亡くなった人に対してです・・・。

 「うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒(さむ)み、偲(おも)ひつるかも」。万葉集の大伴家持のうたです。意味は「この世が、はかないものと分かってはいるものの、秋風が冷たく、(妻のことを)思い出してしまう」と。彼は天平11年(739年)に妻を亡くしていますが、この短歌は、その一月後に詠んだものだそうです。愛する者を失った悲しみは、いつの時代も変りないものです。

 「グリーフワーク」(grief work)という表現があります。死によって大切な人を失うと、私たちは大きな悲しみ(悲嘆・grief)を負い、長期に渡って特別な精神状態の変化を経て行くことになります。遺族が体験し、乗り越えねばならないこの「悲嘆プロセス」のことです。

 もっとも人の悲しみは、時間の経過と共に簡単に癒されるものではありません。亡くなった人への「後悔の念」をいつまでを抱き続けながら打ちのめされる人もおられます。ただし、遺された者が悲歎にしゃがみ込み続けることを、召された人は望んでいません。召された人は、主イエスと共に、いつまでも愛する遺された者の傍らにおられ、愛する者がそこから、立ち上がって歩み出すことを願い、励ましてくれているのです。どうか、そのことに気づいて下さい・・・。

 深まり行く秋、「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:8)・・・御言葉が、すすきの原に響き渡ります。そこに復活と御国での再会の希望を確かに聴きます。



☆10月19日説教「世の光」要約:
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」
(ヨハネによる福音書8:12)。

 人生は荒野の旅の歩み・・・これを避けることはできません。そこに困難や危険、不条理な現実が横たわっています。だからその中で、幾度涙を流した事でしょう・・・。それでも私たちはなお、希望の内を歩めます。それは、光なる主が共におられるからです。
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by aslan-simba | 2014-10-14 16:46 | Comments(0)

スチュワードシップ

 「春はあけぼの。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて(早朝)」(枕草子より)。四季それぞれが美しいこの国・・・。古来、日本人は季節の移ろいの中を、情感豊かに生きて来ました。万葉の詩人も、平安の文学者も、江戸の俳人たちも、その自然にことよせ、自らの思いを、人生を綴っています。

 ある意味、そこには日本人の宗教性があるのかもしれません。森や山や川、その他あらゆる自然、あらゆる命に対する畏敬と祈り・・・。日本人は自然を尊び生活してきた、と述べて間違いないでしょう。

 他方、西洋の自然観は人間中心主義といった議論があります。またそこから環境破壊が起こるとも・・・。その関連で言及されるのが、例えば創世記のこんな言葉です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・・『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」(1:26)。取りようでは、神の名による人間の好き勝手な自然利用の肯定、自然支配の正当化も読み取れます。

 もちろん、これに対する聖書解釈上の反論があります。この「支配」と訳される原語、実は「管理」を意味する言葉にも訳し得る。つまり、神は人間に自然を、賢く管理・養う(英語のsteward)よう命じられている。人間が求められているのは、スチュワードシップ(stewardship)―預けられたものを、責任をもって管理することである、と。

 私もこの反論見解に賛成です。さらに私は、このスチュワードシップを、日本人は忠実に守って来たのではないかと思うのです。私たちの先祖は、自然を手つかずのままに放っておくのではなく、人と共生できるよう自然に手を加えて来ました。田畑がそうです。里山がそうです・・・。

 もっとも人間に、その自然の一切をコントロールはできません。時にそれは恐ろしい牙をむきます。地震、豪雨、台風などの猛威によって、どれだけの尊い命が奪われてきたことか。今年の日本もそうです。つい先日には、火山の噴火もありました。胸が痛みます。犠牲になられた多くの方々に報いるためにも、神から与えられたスチュワードシップの最大課題として、災害対処の益々の技術向上が早急にはかられますよう祈念します。

 神よ、私たちを、この国の自然をお守り下さい。




☆10月12日説教「命の勝利」要約:
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネによる福音書11:25-26)。

 人間の目に、死はまさに「終わり」としか見えない。しかし、そこに復活であり、命であるキリストが介在されると、「終わり」が「新たな始まり」に変り、「絶望」が「希望」に変わる。主は私たちに問われる。「このことを信じるか・・・」と。
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by aslan-simba | 2014-10-10 07:19 | Comments(0)

キリストの秋の香り

 今朝、読んだ使徒パウロの言葉。「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」(コリントの信徒への手紙二2:14)

 古代ローマの凱旋パレード。勝利を携え、意気揚々と馬に乗る凱旋将軍を先頭にして、胸を張って行進する兵士たちが続く。人々はローマ軍の大勝利に酔い、感謝しつつ道々で神々へ捧げるお香を炊きます。その香りが広がり、市街全体を覆って行くのです・・・。

 この光景を目の当たりにしながら、パウロは「キリストの勝利の行進」を思い巡らしたのでしょう。彼の心に描く先頭に立つ凱旋将軍はキリストです。また、これに続く兵士たちは、文字通りキリストに従う者たち。そして「香り」については、このように語ります。「・・・わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。・・・わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」(同15,17節)。

 「キリストの香り」として、キリストに従う誇り高き兵士として生きるパウロの、並々ならぬ思いがそこに伝わります。「御言葉を売り物にしない」とも述べられています。心すべきことです。 他の手紙に記された、こんな彼の言葉も思い起こしました。「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」(テモテ二2:3)。

 パウロの言葉に励まされ、キリストの一兵卒の気概を忘れずに、私は家を出ました。外に出ると秋風と共に、どこからともなく甘い香りが・・・。キリストの香り? いや、金木犀の香りでした。「花の香りは風に逆らっては進んで行かない。・・・しかし、徳のある人はすべての方向に薫る」(『真理のことば』)という仏陀の言葉も脳裏を走ります。 そう! 徳のある人・・・主イエスが、その豊かな香りをもって、既に私たちを包んで下さっている。だからどんな時も、そこにキリストの勝利がある。

 「Take it easy. 肩ひじを張らずにリラックして」と示されます。気負わずに今日も一日頑張ろう・・・。主に委ねて元気良く、務めを果たして行きたいと思います。




☆10月5日説教「主に在る希望」要約:
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(コリント二5:1)

 私たちはやがて完全な救いに与ります。天に備えられている家で、文字通り主と共に生きる。それを私たちは知っているのです。だから、今どんなに辛くとも、天を仰ぎ、勇気をもって足を前に踏み出せるのです。
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by aslan-simba | 2014-10-03 12:18 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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