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神義論の問い

 雨の多かった夏、豪雨が各地に並々ならぬ痛ましい爪痕を残して行きました。 今ニュースで放映されている、広島の土砂災害の惨状に言葉を失います。多くの命と生活を奪った自然災害、これは何を意味するのか。 何故こんな酷い災害が起こるのか? 何故人々をこんなに苦しめるか? 神は何をされようとするのか? そもそも本当に神は存在するのか?・・・。こういう思いを抱く人がいても当然でしょう。

 「神が創造した世界に、何故悪が存在するのか?」を問う・・・神学用語で神義論(theodicy)と言いますが、この神義論が、事あるごとに自分自身の現実課題として突き付けられます。福音を語る者の常として・・・。

 さて、旧約のヨブは、「無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてきた」(ヨブ1:1)人望厚い人でした。その義人ヨブが怒涛のような苦難に襲われ、東国一番と言われた財産全てを取り去られ、10人の子供たちの命も一気に奪われたのです。それに加え、ヨブ自身も全身を覆うひどい皮膚病を与えられる・・・。何ということか。彼の苦悩、痛苦、悲嘆は筆舌尽くし難いものでした。見舞いに来た友人たちへの言葉を通して、ヨブは神へ訴えます。「このようにされれば、だれでもしみに食われた衣のようになり、朽ち果てるほかはありません。人は女から生まれ、人生は短く、苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ、影のように移ろい、永らえることはない」(13:28-14:2)と。「あきらめ」でしょうか。あるいは諦観(悟り)なのか。私たち自身、彼の思いは十分理解できますが・・・ただ、そこに神義論の答えはありません。

 ヨブ記のみならず、神義論はキリスト教の歴史の中で、ずっと問われて来ました。容易な答えの無い問題です。ただ、一つの事は確かだと思います。それは、神が人間の苦難や悲惨な状況に、決して無関心ではないということです。その御旨は十字架を通して示されています。神の御子が、私たち一人一人を心に刻み、塗炭の苦しみを受け、十字架で非業の死を遂げたのです・・・。

 今、十字架の主に、あらためて思いを馳せます。そして、その主が災害で、事故で、不条理な出来事で死を遂げた方々、その遺族の方々と共にあること、さらに、その十字架の彼方に復活がある事を覚えます。




☆8月31日説教「誠実に生きる」要約:
「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。・・・自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(テサロニケ二3:10-12参照)

 「働かざる者、食うべからず」という言い回しの由来は、実はここにあります。「働きたくない者は、食べてはならない」・・・。ただこれを単に「労働」の意味で考える必要はありません。自分が召されている「務め」のことなのです。この務めを日々、忠実になす大切さが言われている。心したいと思います。
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by aslan-simba | 2014-08-26 14:17 | Comments(0)

まほろば

 「われ山にむかひて目をあぐ」(詩121:1)。早朝のウォーキング、空を見上げれば、すっかり秋模様となっています。 それでも昼間は相変わらずの真夏日。汗をかきかき所用の外出。歩いて行くと、薄紅色の花が風に吹かれ、足元を舞いました。サルスベリです。新たな「季節のしるし」(創世記1:14)を感じます。

 私は季節の感性を育むこの国に信仰者として生かされ、有難いと思っています。欧米のキリスト教世界とは一味違う季節観、独自の文化や伝統、歴史がこの国の魅力であり、誇りです。

 先週、父が復員した時に口ずさんだ「国破れて山河あり」(杜甫)に言及しました。実は私は、この言葉を聞くと、「倭(やまと)は 国のまほろば たたなずく青垣 山こもれる 倭しうるわし」という詩を同時に思い起こします。「まほろば」とは、「素晴らしい場所」、「住みやすい場所」の古語ですが、この詩は『古事記』に、ヤマトタケルノミコトの言葉として記されます。

 8世紀に書かれた『古事記』は、文字どおりに「古(いにしえ)の出来事を記した書物」、日本最古の歴史書です。戦前の我が国のキリスト教の中には、古事記を日本の創世記として大切にする人も、少なくなかったと聞きます。今も、その思いは理解できます。

 旧約聖書の民も、正にその「まほろば」を目指して旅をしたのです。アブラハムも、モーセも、また捕囚からの帰還民もそうでした。その地の姿を、イザヤはこう記します。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。 花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」(イザヤ35:1-2)と。しかし、彼らは、その地を地上では、手に入れられませんでした(ヘブライ11:13参照)。

 ヤマトタケルも「まほろば」の地に戻れず、力尽きて途中で亡くなりました。しかし、その魂は白鳥となって大空の彼方へ飛び立った、と古事記は語ります。結局「まほろば」とは、天の御国のことではないでしょうか。「・・・神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために[天上の]都を準備されていたからです」(ヘブライ11:16)。



☆8月24日説教「天の国は」要約:
「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)

 どういうことだろうか。それはイエス・キリストに憧れて、主イエスに倣って生きることである(ラテン語でイミタティオ・クリスティ)。主イエスは、そのように生きようとする私たちを指して、こう言ってくださることだろう。「天の国はこのような者たちのものである」(マタイ19:14)と。
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by aslan-simba | 2014-08-20 13:59 | Comments(0)

8月のカレンダー

 休みに入り、個人的には一段と忙しい8月、文字通り暑い日々が続いている。それでもカレンダーは、一週間前に既に秋を迎えていた(8月7日立秋)。立ち止まって、耳をすまし、目をこらし、五感を自然へ傾ければ、季節が少しずつ秋色に染まっていることに気づかされる。夜半には虫の声が聞こえるようになってきた。早朝は涼しく、夜明けも少し遅くなった。つい先日まで、明るくなっていた時間帯が深い闇に包まれている。暦は本当に正直だ。

 11日の宇治川の花火大会は中止だった。台風による増水のためだ。毎年、妻と夜に散策し、遠くから美しい花火を眺めるのを楽しみにしていたのだが。夏のささやかな喜びが一つ欠けてしまった・・・。

 15日終戦の日。子供の頃、父からこんな話を聞いたのを思い出した。「国破れて山河あり」、戦地から復員してきた父が、日本の地を踏んだときにまず口をついたのが、この言葉だったそうだ。国家は滅亡して往時の面影はないが,山河だけは昔のままである・・・と。

 ラジオをつけると、流れて来たのは英語(進駐軍向け放送を選局したらしい)。「言葉まで変ってしまった! 日本がなくなった・・・戦争に負けるのは、こういうことか」、とつくづく思ったという。同様の思いを持った先人の方々は多いかも知れない。なお、そこにあったのは美しい「山河」ではなく、一面の「焼け野原」だった・・・けれども、日本人は負けなかった。祖国、日本の復活のために、「荒野よ、荒れ地よ、喜び踊れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ・・・」(イザヤ35:1)とばかりに頑張った。

 父も言っていた。あの戦争で亡くなった「人々の無念な思いを無駄にしないために、皆一生懸命働いた」と。(父のそんな話を素直に聴けたのは小学生の頃まで。その後の自分は「生意気」だった。父の戦争に関わる話や苦労話には、反発ばかりするようになって行った)。

 今、あの戦争で亡くなった多くの方々、そして戦後、この国の礎を築かれた数多くの「父や母」たちに感謝の誠を捧げたい。御言葉は告げる。「あなたを破壊した者は速やかに来たが あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃墟とした者はあなたを去る」(イザヤ49:17)と。

 8月第三週は、地蔵盆。町内でも、ラジオ体操や子供会が開かれ、近所の子供たちの賑わいが戻ってくる。夏休みも後半。最後まで楽しく有意義に過ごして欲しい。


☆8月17日説教「希望を」要約:
「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」(ハバクク書3:18―19)。

 他国の襲来によって災いを受け、大切な羊や牛を奪い取られた人・・・しかし、主に在る喜びだけは奪われません。生活の糧のすべてを失っても、生きる力だけは失わないのです。彼は、これで終わったなどとは思いません。なおも前を向き、主の復活の力に与って雄々しく立ち上がって歩み出すのです。
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by aslan-simba | 2014-08-14 16:45 | Comments(0)

お盆の季節

 仏壇の前に文机を置き、小さな提灯と共に、割り箸の足を4本さした胡瓜と茄子が供えられた。「それに乗っておばあちゃんが帰って来るの」という母の言葉が、不思議に印象に残っている。祖母の新盆の最初の日、半世紀以上も前の7月15日の記憶である。あの晩の東京の町は雨が降っていた。妙に蛍光灯の灯りが明るく感じられたのも、よく覚えている。東京でお盆を意識したのは、後にも先にも、あの時だけだった。

 お盆を、ある意味で身近に感じるようになったのが四十年前。大阪でサラリーマン生活が始まった年からだ。 関西のお盆は、旧暦の7月15日、すなわち月遅れの8月15日前後に迎える(関西に限らず、東京以外、全国的にこの時期だろう)。国内の大半の取引先は、「お盆休み」となる。勤めていた会社に盆休み制度はなかったが、多くの社員がこの時期に有給休暇をまとめて取っていた。

 私は毎年、お盆休みは取らず、人のいない静かな社内で、ゆっくりと書類の整理を行う期間としていた(休暇はお盆の後に取った)。それはそれで良かった。ただあの頃、思っていたのは、日本に固有な先祖供養の習俗など、キリスト教の自分には全く関係ないという事だった。今にして思えば、表面的にしか物事を見ない、実に狭い了見だった気がする。

 お盆の意味するところは、「ご先祖さま」、つまり身近な死者たちに対する、畏敬の念と共に、今の自分の与えられた「いのち」の尊さと、その繋がりを感謝する心が込められているからだ。そこに先人を見つめるこの国の文化の、また日本人の温かい眼差しがあることに、気づかされるのである。 ある方がお盆の意味を、こう記していた。「自分の命とは決して自分だけのものではない。数限りない方の命が受け継がれ、あらゆる命に支えられ、今自分がここにある。さらにその私の命が大事だと、仰って下さる仏様がおられるのだ」と。

 私は、亡くなった先人たちは今、神と共に在って、私たちを、どこまでも優しく見守り、私たちのために天上で祈り、執り成して下さっていると思っている。だから「眠っている人々については、無知でいてもらいたくない」(テサロニケ一4:13口語訳)のだ・・・。合掌



☆8月10日説教「御名によりて」要約:
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」
(コロサイの信徒への手紙3:16―17)

 コロサイ書3章には、私たちの家庭生活のあるべき姿が語られています。そして、その前提は、御言葉を心に宿し、神を礼拝し、感謝して生きること。そう教えるのです。
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by aslan-simba | 2014-08-06 12:08 | Comments(0)

祈りの道

 日本の文化を象徴するものに、茶道、華道、剣道、柔道・・・といった「道」があります。ここで言われる「道」、それは目に見えないものを求めて行く精神性のことではないでしょうか。

 それに関わって、ある武道家の方が、「礼は心から生まれ、礼は形を作り、形は心を求め、心は形に備わる」と記していました。味わい深い表現だと思います。礼を正すことで、心が整い、具体的な形が造られて行く、それが武士道、すなわち武士(もののふ)の道(みち)ということでしょう。これは、この国に生を享けた私たちの「祈りの道」にも、深く通じるものがあると思うのです。

 そういえば以前、「心は形を求め、形は心を進める」という言葉を、仏壇屋さんのコマーシャルか、お寺の掲示板だったか・・・で見たことがあります。そこに手を合わせ、姿勢を整えて祈る敬虔なたたずまいが示されます。文字通り、礼拝をもって「心と形」が研ぎ澄まされて行くのです。私は、私たちにとってかけがえのない行為のひとつが、この祈ることだと思っています。無論その祈りは信仰者に限りません。実際に、この国の人々は、宗教の有無、宗教の違いを越えて、祈ってまいりました。

 「神さまや 仏さまが ほんとうにいらっしゃるかどうか・・・ でも あの合掌したときの安らぎは どこからくるのでしょう 右の手の悲しみを 左の手がささえ 左の手の決意を 右の手がうけとめる その上を流れる静かな時間 こうした姿勢を教えて下さったのは どなたでしょう・・・」(高田敏子「浅草観音」より)。

 炎暑の8月は、「祈りの月」と言われます。私たちにとって、お盆の月であり、同時に敗戦(終戦)の月にもあたります。今年も多くの先人たちを心に刻み、「追悼」、「鎮魂」の祈りが、また今在る者の「幸福」や「繁栄」、さらには祖国の「安寧」と、この世界の「平和」の祈念が、数多くが捧げられるはずです。私たちも、それらの祈りの心を真摯に覚え、その祈りに合わせ、執り成し、その祈りを深化させて行きたいと願います(テモテ一2:1)。その時、祈りの道は益々豊かに祝福されるでしょう。




☆8月3日説教「永遠の絆」要約:
「・・・だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。・・・」(使徒言行録20:31-32)

 エフェソ教会に対するパウロの別れの言葉。そこから、この地上の人生における、別れの意味を知らされる。それは決して永遠の別れではない。永遠の神の恵みが互いを結び付けているからである、と。
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by aslan-simba | 2014-08-01 19:14 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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