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大暑到来

 梅雨明けと同時に激しい炎暑。ここ数日、最高気温はウナギ登り。夜も寝苦しい。この街の辺り一面も熱帯と化してしまったようだ。ご近所で交わす挨拶も決まったように、「この暑さ、何とかならないでしょうか・・・」だ。

 以前、知人から「夏」(なつ)の語源は、「熱」(ねつ、あつ)から来ていると聞いたことがあった。文字通り今、その「夏」だ。ともあれ、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の思いで、一日の祈りと、今日の仕事を季節感あふれる(要は、冷暖房のない)我が庵で開始。ここにデスク・トップのパソコンを据え、書斎としているため。

 夏のこの庵、早朝のうちは問題ない。しかし午前十時を過ぎると「大暑」となる。もっとも普段は8時前に出かけることも多いため、今年はまだ庵での大暑は経験せずに済んできた。ただし今日は出かける予定もないので、こうして黙々と、パソコンに向かっている次第である。

 今朝はセミの声が賑やかだ。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」(芭蕉)どころではない。主体はクマゼミの声か。思えば子供の頃の記憶にあるセミといえば、アブラゼミが中心だった。日本列島の温暖化と関係しているのだろうか。

 「惠蛄(けいこ)春秋を知らず」という言葉を思い起こした。惠蛄とはセミのこと。夏の短い期間に地上の生涯を終えるセミは、他の季節を知らない。つまり限られた了見、狭い視野しか持たないとの意味。それが人間の生になぞって語られる。「迷いの生しか知らない我々は、わが人生が迷いの生であること自体、知ることができない」と。確かに、それが私たちの人生の姿かも知れない。ただ、そうであっても私たちは御言葉から聴き、分からないなりにも、主に在って「生きる意味」の豊かさをかみ締め続けたいものである。

 芭蕉に、こんな句もあった「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」。地中で何年も幼虫生活をなしたセミたちは、地上での最後の日々、ただただ無心に声をあげる。今を精一杯生きるそのセミの声に、私たちの日本の夏が彩られるのである。 さて、そろそろ十時、大暑の到来。熱中症予防のため、書類を抱え、エア・コンのある本宅へと避難を始める。セミの声を浴びながら。




☆7月27日説教「今という時」要約:
「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです」(コリン信徒への手紙ト二6:1‐2)

 パウロはイザヤ書の預言の言葉を引用し、今を救いの時と言う。つまり私たちが、真摯に福音の言葉に耳を傾ける時にはいつも、決定的なことが起こるというのである。そう!福音がこうして語られる今が、恵みの時であり、救いの日なのである。
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by aslan-simba | 2014-07-25 12:07 | Comments(0)

生きる喜び

 祇園祭の時期、湿度が高く、蒸し暑い日が続きます。一年には、こんな時期があっても良いのかも知れません。その中で体調を崩すことなく、忙しく過ごせること、感謝です。

 気づけば、今年も半分が過ぎ、後半戦に入っています。どおりで歳をとる訳だ・・・と言っても、当人には歳をとったという自覚はあまりありません。ただ最近は、少し疲れやすくなりました。

  そんな一日の夕暮れ、何も考えずに散歩に出向き、生い茂った葉陰を通して吹く一陣の涼風を身に受けることができれば、最高です。これぞ季節の醍醐味、至福のときでしょうか。もっとも、いつも風に吹かれる訳ではありませんし、時には悩みや問題を引きずりながらの外出もあります。いや、逆に何か考え込みながら、歩くことの方が多いようにも思います。

 先日、薄暗い梅雨空の下を行きながら、こんな詩が心に浮かび、今を生きることのできる喜びに、思いを馳せました。

 神さまの
 大きな御手の中で
 かたつむりは
 かたつむりらしく歩み
 蛍草は
 蛍草らしく咲き
 雨蛙は
 雨蛙らしく鳴き
 
 神さまの
 大きな御手の中で
 私は
 私らしく
 生きる

 「まばたきの詩人」といわれた水野源三さんの「生きる」という詩です。ちなみに水野さんは、小学校の時に重い病気をし、それがもとで口を利くことも、身体を動かすこともできなくなり、亡くなるまで寝たきりの生活を続けた人です。「死にたい」・・・神さまを知る前、詩作を始める前までは、そう思っていたそうです。御言葉は人を新たに生かすのですね。 

 今朝、水野さんのこんな詩を目にしました。

 たくさんの星の中の一つなる地球
 たくさんの国の中の一つなる日本
 たくさんの町の中の一つなるこの町
 たくさんの人間の中のひとりなる我を
 御神が愛し救い
 悲しみから喜びへと移したもう

 今、こうしてこの日本で、この町で、主が共にあって、生かして下さっている恵みを覚えます。 祈りを終えて気づけば、蝉の鳴き声が賑やかです。もう梅雨明けでしょうか。いよいよ夏の到来。今年一年の後半戦、さらには人生の後半戦もファイト!



☆7月20日説教「執り成し」要約:
「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(テモテへの手紙一2:1)。
 問題に突き当たったら、まずは祈ることです。(しかも、その祈りにはすべての人々のための執り成し、感謝も含まれます。)そして、神の望んでおられることに、私たちの思いを向ける。そうする時、目の前の問題についての相応しい関わり方が、必ず見えてくるに違いありません。
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by aslan-simba | 2014-07-18 15:28 | Comments(0)

すべてはよくなる

 私たちは幸いを祈られている。常に心にかけてくれる人がいます。そのような人々の祈りに与って、今日もここに生かされています。その祈りの根底には、神さま、イエスさまの、私たちに一人一人に対する慈愛に満ちた祈りがあると思うのです。

 最後の晩餐の席で、イエスさまがシモン・ペトロに、こう告げたとルカは記します。「シモン、シモン・・・わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22:31、32参照)と・・・。つまり主イエスご自身が、私たち一人一人の名を呼んで、私たちのことを、どこまでも御心にとめていて下さっているのです・・・。そうです。私たちが神さまに対して祈るよりも前から、まず神さまが御顔をこちらに向けて、祈っていて下さるのです。それによって、私たちの信仰があるのです。

 そういえば、以前ある方から、「祈り」の語源は「意宣(いのり)」で、「神仏の意(意思)に宣る(乗る)」の意味だと聞いたことがあります。その「神仏の意思」とは、どこまでも私たちの「幸い」でしょう。 原始仏教のお経に、こういう言葉がありました。

 目に見えるものでも見えないものでも
 遠くにあるいは近くに住むものでも 
 すでに生まれたものでも
 これから生まれようと欲するものでも
 一切の生きとし生けるものは
 幸せであれ
 (『スッタニパータ』中村元訳・ 岩波文庫)。

これは仏陀の人々に対する、まさに「祝福の祈り」ではないでしょうか。有難いことだと思います。私たちはこのように「幸い」を祈られているのです。

 14世紀、ノリッジのジュリアンと呼ばれる英国の修道女に現れたキリストは、こう語ったと伝えられます。「すべてはよくなる、すべてはよくなる、すべて一切のものはよくなる」(All shall be well, and all shall be well,   and every kind of thing shall be well.)と。

 多くの方々に、そして神さま、キリストに幸いを祈られている私たち・・・。私たちも祈りましょう。愛する人々、愛するこの国、愛するこの世界の幸いを心から願って。今、「すべてはよくなる」という主の御声が、響き渡っているのが聞こえてまいります。




☆7月13日説教「主は忘れない」要約:
「・・・わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ書46:15)

 「あなたを決して忘れない」と、主は言われる。それは神さまの深い憐れみなのです。見捨てられても仕方のない者をも、赦し受け入れて下さる神の憐れみ・・・。主の御言葉は、さらにこう続きます。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある」(16節)。「手のひらに刻みつける」、ここに十字架に釘付けられたキリストの御手が予表されます・・・。
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by aslan-simba | 2014-07-11 07:34 | Comments(0)

もうじき七夕

 教会へ来てよかったな。
 神様に聞いてほしいことがいっぱいある。
 神様に力になってもらいたいこともある。
 教会へ行くと私はおかあさんにあえるような気がする

 サラリーマン一年生の頃、社内のコーラス部で歌った合唱組曲「おかあさんのばか」(母を亡くした少女の詩がもとになっている)の一節(吉田幸作詞)。四十年前の土曜の午後、忙しい仕事を終え、皆で集まって楽しく練習したのが懐かしい。

 その組曲の中にこういう歌もあった。

 今夜は七夕 また雨空 七夕ってどうしていつも 晴れないのかしら。
 夢でもいいからお母さんに会いたいと思って、
 隣のせっちゃんの笹に「お母さん」と書いて短冊を下げた。

 思えば今年も、もうじき七夕、私の印象にある7月7日も、たいてい雨だった。記憶を幼稚園時代にまで遡らせてみると、七夕の由来を、先生がこんな風に話してくれたのがよみがえる。

 「むかしむかし 天の神さまのために、いつも一生懸命に機織りをしている織姫さんと 牛つかいのお仕事をしている働き者の彦星さんがいました。ある日、二人はお友達になりました。本当に仲良くなったのはよいのですが、二人は神さまの言いつけも、お仕事も忘れ、いつまでもいつまでも遊んでばかりいたのです。困った神さまは天の川をはさんで二人を別れ別れにされました。でも、神さまは優しいお方です。元の働きものに戻った二人を、年に一度だけは会わせてあげようと約束されました。それが7月7日の七夕なのです。ただ雨が降ったら来年までは会えません。だから晴れればいいね・・・」と。

 これを聞いて短冊に、覚えたてのひらがなで「はれて」と書き、皆で「ササの葉さらさら」を大声で歌った。でも、あの年の東京の七夕も確か雨だった・・・。

 今年の七夕はどうだろうか。晴れるだろうか。もし雨だったら、天の国、神さまの御許には年に一度だけではない、永遠の出会いがあることを覚えたいものだ。 さらに、私たちの教会も、「教会へ来てよかったな」と歌えるような空間、主が共にあって天上の人々からの支えを実感できるような場でありたいと心より願う。




☆7月6日説教「神の備え」要約:
「サウロはエルサレムに着き・・・」(使徒言行録9:26)

 サウロは教会の迫害者としてエルサレムを後にし、ダマスコへと向かった。しかしその途上で復活の主と出会い、今やキリストを信じる者となって再びエルサレムに戻ってきた。神は不思議なことをされる・・・。このサウロこそ、あの後の大使徒パウロなのである。
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by aslan-simba | 2014-07-03 14:52 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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