<   2014年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

山滴る

 梅雨の晴れ間、遠くに見える山々の緑が色濃い。四方が山に囲まれた京都、その南端にある宇治に在ることを実感する。 夏の季語、「山滴る(したたる)」を思う。本当にそうだ。日本人の自然に対する感性が豊かに表現される言葉ではないか。「山笑い」、春に芽吹いた若葉が、今、勢いを増し,活き活きと輝いている。見上げる「滴る山」は、私たちに元気を与えてくれるようだ。

 思わず、イエスさまの「山上の説教(垂訓)」、八つの祝福が口をつく。

幸いなるかな、心の貧しき者、 天国はその人のものなり
幸いなるかな、悲しむ者、その人は慰められん
幸いなるかな、柔和なる者、その人は地を嗣がん
幸いなるかな、義に飢え渇く者、その人は飽くことを得ん
幸いなるかな、憐憫ある者、その人は憐憫を得ん
幸いなるかな、心の清き者、その人は神を見ん
幸いなるかな、平和ならしむる者、その人は神の子と称えられん
幸いなるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり

 恵みの御言葉が心に染みる。そこには今、困難な状況にある者への励ましがある。

 「心の貧しき者」・・・日本語のニュアンスは、決して印象のよい言葉ではない。しかし原語は、「霊において貧しい人」、だから「神に依り頼まねばならない人」ということを意味する。「神さまなしに、自分の力では何もできない自分を自覚し、ひたすら神の依り頼む人は幸いだ。その人は神さまの力で御国に入れられるのである」とのメッセージを、今朝新たに頂けた。彼方の山々から響いてくるように。

 そして、足下に目を向ける。たまたま、そこにカタツムリの死骸が転がっていた。ふと、「かたつむり どこで死んでも わが家かな」との小林一茶の句を思い起こす。「かたつむりは、どこでその命終えようとも、そこがわが家であるから何の心配がない」と。主の御言葉を聴き、神さまを信じて生きる人も、いつ何があっても常に神さまの御救いの中なのだと示される。「天国はその人のものなり」、と。だから常に「柔和な者」として生きて行きたい。自らのことのみならず、他者の幸いも真摯に願い、神共に在って・・・。



☆6月29日説教「救いの達成」要約:
「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(フィリピの信徒への手紙2:12)
 私たちは無償の賜物として、罪の赦しを得て、信仰生活の恵みを頂いています。そのことを真摯に受け止め、救いの完成に至るまで、最後まで神と共に歩むことを、本気で祈り、求めてください。パウロは「従順」を勧めます。つまり、どこまでも「主を信じ、従い続けよ」と。大事なことです。
[PR]
by aslan-simba | 2014-06-25 07:10 | Comments(0)

我が家の犬

 わが家に同い年の二匹の犬がいました。両方ともスコッチ・テリアという独立心の強い犬種でアスランとシンバと命名しました。アスランは5年前に亡くなりました。彼について2009年11月の週報に、愛らしくお茶目、それでいてカッコいい、我が家の「小さなキリスト」だった、と書きました。今も、そう思っています。

 ならば、現在も健在なシンバは、我が家の何でしょうか。彼はここ数年、体全体の毛が薄くなり、テリアらしくなくなって来ました。また皮膚炎気味で、ほのかに悪臭も放ちます。それでも凄い食欲・・・。家のペット・シートの上で小用をした場合、妻がおやつをやるようにしたのですが、最近ではおやつ欲しさに、かなりの量の水を飲み、何度も何度も小用をします。賢いと褒めるべきか、悩みます。体型も不格好になりました。

 そんなシンバを連れて散歩に行くのが何となく恥かしい・・・。かつて、アスランも元気だった頃は、シンバも恰好よかった・・・否、カッコつけて空威張りをし、よその犬に吠えかかり、アスランや私を困らせるのも度々でした。

 以前、シンバと我が家の面々の出会いを、こう書いたことがあります。「妻と子供たちが近所のホームセンターで買い物をした折に、店の一角に設けられているペットコーナーでやせ細り、しかも耳の後ろが禿げている雄のスコッチ・テリアを見つけた。生後五カ月。半額以下の大特価の値札が付されている・・・」(2002年12月8日桃山栄光教会週報)と。そこで、このままでは殺処分になるのでは、と我が家に迎える決意をした次第ですが・・・。

 その後、家に来てからのシンバ、一時はアスランや娘たちに噛みついたり、私にも手向かって来たり、それは大変でした。(正直、保健所へ連れて行こうとまで、考えたこともありました)。

 今は、別人、いや別犬のようになりました。散歩中の空威張りもしません。逆にほえられる始末です。また家で、行儀が悪い時、注意をすると、両手両足を上にあげて腹を見せたり、可愛い様子をします。私たちの食事中には、テーブルの下に来て、まさに「ツロフェニキアの女の信仰」(マルコ7:24-30参照)を思い起こさせてくれます。彼が我が家に来たのも、神さまの導きでしょう。

 そのシンバが、この24日に12歳になります。人間の年齢で言えば64歳。私よりも上です。いつまでも長生きしてくれるようにと、心より祈っています。



☆6月22日礼拝説教「神を求めて」要約:
「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。・・・『我らは神の中に生き、動き、存在する』、『我らもその子孫である』・・・」(使徒言行録17:27、28参照)
 神が私たちに与えて下さるのは、御自身との交わりです。私たちにはさまざまな願いがありますが、それらを祈り求めるのに先んじて、まずは神さま御自身を求めましょう。神さまはご自身を、与えてくださると共に、それらの願いも聞き届けて下さるはずです。それは神さまご自身の求めでもあるからです。
[PR]
by aslan-simba | 2014-06-18 14:18 | Comments(0)

あじさいの季節

 梅雨の季節となりました。色鮮やかなあじさいの花が、雨に打たれ、静かに咲いています。清楚な姿です。この花を嫌いな人はいないと思います。蒸し暑いこの季節、何ともうっとうしくなる私たちの思いを、あじさいの花は半減させ、「爽やかな心」を与えてくれます。

 そんな花を見つめながら、ある仏教学者が人の命を花にたとえて、こう記していたのを思い起こしました。「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ。永遠は現在の深みにありて未来に輝き、常住は生死の彼岸にありて生死を照らす光となる・・・」(金子大榮)。本当にそうだと思います。キリスト信仰に引きつけていえば、信仰者は主に在って、永遠の命の約束に生かされている、ということです。

 ところで、この雨の季節になると、決まって思い起こすのが、八木重吉という夭折した信仰の詩人です。彼は「雨」と題する詩をいくつも遺しております。中でもこんな詩が脳裏を走ります。

 雨のおとがきこえる
 雨がふっていたのだ
 あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
 雨があがるようにしづかに死んでゆこう

 目を閉じると、重吉が教員生活のかたわら、聖書を読み、祈り、詩作に励んでいる姿と、彼の生きた大正時代の風景が、雨の景色の中に浮かび上がってくるようです。重吉は大正の最後の年に、こう記しています。

「・・・世界中のすべての詩の本が亡びても、私には一冊の聖書があればすこしもさびしいことはありません。・・・イエスは、右の手に光を持ち、左の手に救いを持っていられたのだと思います。右の手の光で、私らをすっかり照らして、私らに自分の底をよく見させ、自分とはこんなものだということを知らせ、それから左の手で救いとって下さるのだとおもいます」(御影師範学友会誌『甲陽』第37号より)と。

 翌、昭和2年の秋、23歳の妻と幼い二人の子どもたちを残して、八木重吉は御国へと旅立ちました。享年30歳。



☆6月15日説教「神を賛美し」要約:
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように・・・わたしたちは・・・神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(エフェソ1:3、14)
 私たちの人生の歩みは、祝福されています。キリストを知り、主と共に歩めるからです。そのように導かれたのは、一方的な恵みによるのです。それゆえ、人生のどんな日々においても、神を心からほめたたえ、過ごしたいものです。信仰生活とは賛美の生活です。願わくは、私たちの人生全体が神への賛美となりますように。
[PR]
by aslan-simba | 2014-06-11 13:53 | Comments(0)

タンポポ魂

 六月、今年も一年の半分が過ぎます。まさに光陰矢のごとし。ちなみに6月10日は、時間の貴重さを心に刻む「時の記念日」です。私たちはその大切な時間の中を生きます。

 しかし、時間の中で、七転八倒しながら、何か空回りしているように思えることもあります。成果は上がらず、時間だけがどんどん経ち、そして馬齢を重ねる「己の現実」・・・如何でしょうか。人生の歩み、決してたやすいことではありませんね。

 たとえば、お釈迦さまはそんな人間の、生まれてから死ぬまでの一生の時間を、「苦」という言葉をもって諭しました。「一切皆苦」「四苦八苦」などと言い表されます。だからといって、辛い気持になる必要はありません。あるお坊さんが、こう書いていました。「人生におけるすべての苦は、如来の励まし、むしろ苦しみや悩みが私を育ててくださるのだ」と・・・。

 また、その「苦」という言葉そのものの意味ですが、仏教学者によると単に「苦しい」だけではなく、「自らの思い通りにならないこと」といった含みがあるそうです。分かるような気が致します。

 ところで昨日、学校帰り、キャンパスの草むらに、いまだに咲いているタンポポの花に気づき、嬉しくなりました。六月のタンポポです。こんな詩を思い起こしました。

 タンポポ魂
 踏みにじられても
 食いちぎられても
 死にもしない
 枯れもしない
 その根強さ
 そしてつねに
 太陽に向って咲く
 その明るさ
 わたしはそれを
 わたしの魂とする
 (坂村真民「たんぽぽ魂」)。

 思い通りにならない苦を抱えた人生の歩み、いろいろな困難や問題もつきまといます。そして過ぎ行く時間に流されそうになる。でも、負けずに、不屈の「たんぽぽ魂」をもって生きましょう。聖書は言います。「主は人の一歩一歩を定め 御旨にかなう路を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」(詩37:23-24)と。

 そして、私たちの人生の時の一切を、主に委ねられることを憶えて下さい。「わが時はすべて汝の聖手にあり」(詩31:15文語)。だから大丈夫、安んじてまいりましょう。



☆お気軽に礼拝にお立ち寄りください。

6月8日はキリスト教の三大祭りの一つペンテコステ(聖霊降臨祭)です。どうぞ、お気軽に当教会にお越し下さい。礼拝は午前10:30~11:30頃です。本当に小さな、よく言えば家庭的な教会です。

ペンテコステ礼拝の説教要約:
「・・・一同が一つになって集まっていると」(使徒言行録2:1)
 ペンテコステの物語は「何か特別な人たちの特別なファンタジー・ストーリー」ではありません。それは私たち皆が現実に求め、期待すべきことなのです。 聖霊降臨の前提には、祈りがあります。私たちは常に聖霊の満たしを、祈り求めるべきです。この世界、人々の罪を語る前に・・・まずは自分が神に従順になれるように、そして皆が一つとなれるように・・・と。その時、聖霊の働きは確かに起こります。
[PR]
by aslan-simba | 2014-06-03 17:00 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30