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Be Here Now

 音楽のことは詳しくないのですが、先日ニュースで元ビートルズのポール・マッカートニーの来日を知り、その頑張りに、ほほ笑ましさを覚えました。しかし引き続き急病による講演中止の報道・・・やはりよる年波には勝てないのか、と何となくわびしさを憶えた次第です。私もそんな風に感じる年齢になったようです。

 ところで、その折に同じメンバーのジョージ・ハリスンの「Be Here Now」という曲を、ふと思い起こしました(ちなみにハリスンは2001年に死去)。ハリスンの書いたその英語の歌詞、意訳すると、大体このようになります。

 忘れないでください。そして、今ここに共に在って下さい。
 私の周囲は、昔とは余りに違っているのです。
 だから、私の許に・・・今ここに共に在って下さい

・・・さびの「Be Here Now」を「今ここに共に在って下さい」と捉えれば、これは明らかに「今の辛さ」を訴える、祈りのように響いて来ますね。

 思えば、私達の人生、良いことばかりではない。悪いこと、辛いことが、しばしば起きるものです。そういった時に、ついつい「昔はよかった」といった愚痴が口をつく、そんなこともあるでしょう。また、問題の原因が自分ではなく、他人や、周囲の環境、時代状況・・・で、なすすべのないようなこともあるかも知れません。

 故事は「禍福は糾える縄の如し」と教えますが、辛い状況に陥った時に、私たちはどうしたらよいか。良寛さんはこう語ります。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。 死ぬる時節には死ぬがよく候。 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」と。つまり、自分の置かれた苦しい状況を素直に受け入れて生きよ、ということでしょう。これは大事なことだと思います。

 私は、それに加え、神さまに「私の許に・・・今ここに共に在って下さい(Be Here Now)」と祈ることをお勧めします。その時、主は必ずやこう答えてくださるはずです。「わたしはいつもあなたと共にいる(I will be with you here always.)」と。



☆6月1日説教「神の掟」要約:
「・・・しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(ヨハネの手紙一2:8)

 既に神の光は輝いている。私たちはその事実を知らされ、その光の中を歩くようにと招かれている。私たちはその光の中を歩いて行くことが必ずできるはずだ。自らを闇の中に閉じ込めてはならない。ここからあらたに光の中を歩み出そう。
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by aslan-simba | 2014-05-28 07:08 | Comments(0)

回り道

  子供の頃、学校からの帰り途、友だちとよく回り道をしました。路地裏に入って不思議な空間を探してみたり、興味をそそるガラクタを見つけたり、猫を追いかけたつもりで逆に、野良犬に追われたようなこともあります。そんな回り道には、喜びや驚き、またわくわくするような出合いがありました。学校では学べない社会経験をしたように思います。

  翻って、人生の歩みにおいても、結構回り道を経ながら、今の自分へと至ったと思います。その間、いろいろと不安もありましたが、ただ「ひたすら前に進もう」という思いで歩んで来ました。神さまの導きとは妙なるものです。

  思えば聖書にも、壮大な「回り道」の物語が記されています。モーセに率いられた出エジプトの出来事です。地図を見ると、エジプトからカナン(パレスチナ)まで、直線距離で約300キロ。多少ゆっくり歩いても、おそらくは一、二ヶ月もあれば到達できる距離だと思います。しかし聖書によれば、エジプトを出てカナンに入るまでに、四十年間も要しているのです。「約束の地」に入るためには、相応以上の経験や学びが必要だった、ということかも知れません。しかし、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は日の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は日の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(出エジプト13:21-22)、またモーセは出エジプトの民に、こう語っています。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい・・・」(14:13)と。

  私たちの回り道の人生も、何とかここまで来ましたが、この先、何が起こるか分かりません。現実は、「板子一枚(いたこいちまい)下は地獄」です。それでも私たちには、主が共にいて下さいます。「あなたの御国への歩みは守られている。進むべき道は拓かれて行く。信頼して進め」との促しが示されます。だから、約束の御国に必ず迎え入れられることを信じ、希望もって、さらなる一歩を明日へ向けて踏み出しましょう。



☆5月25日説教「霊の賜物」要約:
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(コリント信徒への手紙一12:4―6)

  個々の賜物、務めは違っていても、私たちは皆、同じ神さまに仕えています。そして、すべては、「同じ神の働き」が現れるためなのです。今、私たちが心したいのは、「同じ」という事です。同じ方向に向って、互いに力を合わせる時、その働きはさらに大きく祝福されるのです。
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by aslan-simba | 2014-05-21 21:44 | Comments(0)

五月の風

 五月の朝、昨夜の恵みの雨は上がり、新緑は一段と鮮やかさを加え、花々も今、活き活きと輝いている。爽やかな風の柔らかな一日となるだろう・・・。 毎年、この時期になると、決まって思い起こす詩がある。

夢みたものは……

夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊ををどつてゐる

告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の小鳥
低い枝で うたつてゐる

夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

 どこかヨーロッパ田園風景を思わせるような、昭和初期の詩人、立原道造の詩である。かつてフランスの芸術家たちが、南仏の田舎町を愛した逸話も思い起こす。

 立原は軽井沢を愛し、信州を好んで旅した。ある評論家は、彼を次のように評している。「立原道造はまさに東京の、町なか育ちの詩人だった。彼はその町なかから、常に自分の環境とは異質のものにあこがれていた(安藤元雄)」。

 立原は詩の世界のみならず、設計技師としても将来を嘱望されていた。しかし結核療養先で「五月の風を ゼリーにして持ってきてください」の言葉を残し、24歳の若さで生涯を閉じた・・・。私は、彼の詩にいつも「五月の風」と「新たな命へのあこがれ」を憶えるのである。彼のこんな詩も好きだ。

歌ひとつ

昔の時よ 私をうたはせるな
慰めにみちた 悔恨よ
追憶に飾られた 物語よ
もう 私を そうつとしておくれ

私の生は 一羽の小鳥に しかし
すぎなくなつた! 歌なしに
おそらく 私は 飛ばないだらう
木の枝の向うに 青い空の奥に

未来よ 希望よ あこがれよ
私の ちひさい翼をつつめ!
そして 私は うたふだらう

大きな 真昼に
醒めながら 飛びながら
なほ高く なほとほく

 私たちも飛び立とうではないか。風薫る五月の光の中へ、御国を目指し、颯爽と!


☆5月18日説教「真実の言葉」要約:
「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」、「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」(列王記上17:1、24)
 大地は旱魃で死んだような状態になり、人々は苦しんでいる。まさに罪の呪いに囚われたように・・・。しかし、絶望してはならない。そのことを経てこそ、生じる希望の出来事があるのだから。彼らはやがて喜びをもって語れるはずである。「主の言葉は真実です」と。
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by aslan-simba | 2014-05-16 08:13 | Comments(0)

南無アッバ

 「風(プネウマ)に己を委(まか)せきってお行きなさい(井上洋治)」「霊(プネウマ)の導きに従って歩みなさい(新共同訳)」(ガラテヤ5;16)・・・「風」も「霊」も原語は同じ「プネウマ」。

 今年の三月、カトリック司祭の井上洋治神父が他界された。神父は西洋で育まれたキリスト教を、日本人のものに「仕立て直し」、主イエスの教えを日本の心に響く形で伝えることに心を砕かれてきた。

 つい先日、その井上神父追悼のアーカィヴ番組(平成18年放送分)が再放送された。神父がインタヴューに応え、自身のそれまでの歩みを振り返る・・・病弱だった少年時代、青年期に襲われた死の恐れと出合った哲学書、そして司祭となることを決意し目指したフランス留学、その渡航船の四等船室で出会った遠藤周作の事など・・・興味深かった。わけても、どこまでも日本の精神風土を愛し、尊重され、それを通して聖書や神学を理解されようとした信仰の姿勢に、今さらながら頭の下がる思いがした。

 神父が最終的に辿り着いたのは「南無アッバ」の祈りだった。その「南無」は、「南無阿弥陀仏」の南無で、「私自身の全部を委せる」ということ。「アッバ(Abba)」は「お父さん」、「父なる神」である。神父はこう語っておられた。「人生とは、自分を示すものではなく、アッバがご自分のわざを、私たち一人一人の人生の上で実現されて行くこと」、「私にとって祈りとは、子供の時やった日向ぼっこみたいな感じで、アッバの眼差しの中で日向ぼっこをすることである」と。そこから主イエスが「アッバ」と呼んだ神さまの風(霊)に静かに身を委(まか)せる、そういった境地に至られたようだ。

 なお番組の中で、神父のこんな詩が紹介されていた。

さわやかな五月の風に
お委せしての
あなたの葉ずれのささやきは
なんと透明に かがやいていて
すばらしいのでしょう
青空にとけこんでいく
その澄んだしらべに
ぼくの心もいつしか
すいこまれていくような
気がします
ぼくもおみ風さまにお委せしながら
うれしいときも
哀しいときも
あなたの葉ずれのように
生の讃歌をうたいたい
アッバ アッバ
南無アッバ

 合掌



☆5月11日説教「新たな創造」要約:
「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。・・・そこには、もはや若死にする者も 年老いて長寿を満たさない者もなくなる・・・」(イザヤ書65:17,20)

 私たちの人生、よしんばそこに喜びを失い、不運に取り囲まれるようなことがあっても、共に礼拝する中で、神さまからの喜びを頂けるなら、私たちはそこで「新しい天と新しい地」の片鱗に触れることができるのです。長寿が祝福となるような約束をこの身に実現できるのです。
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by aslan-simba | 2014-05-06 17:25 | Comments(0)

恵みと慈しみ

 緑の風香る五月、今朝は聖書の詩編23編が示されました。「詩編の中の詩編」「聖書の真珠」と称されるこの詩、愛唱されている方は多いでしょう。私にとっても好きな詩編の一つです。

 
 賛歌。ダビデの詩。 
 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく
 わたしを正しい道に導かれる。
 死の陰の谷を行くときも
 わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖
 それがわたしを力づける。

 わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。

 最初に「ダビデの詩」と記されますが、あのダビデ王自らが作った詩ではありません。「ダビデにちなんだ詩」と述べた方が正確でしょう。ただ作者が誰であろうと、明らかにこれはその人の若い日の詩ではないと思います。察するに、長い人生を歩んだ人の晩年の作ではないでしょうか。そこに「老いの輝き」を見るような気がするからです。

 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」・・・人は長く生きていれば、「欠け」を経験することはいくらでもあるはずです。事実、何かが欠け、何かを失い、奪われて行く・・・ある意味で、一つ一つを失いながら生きて行くのが、私たちの生涯の実感ではないでしょうか。ただし、この人はそうは言いません。むしろ、今、与えられている主の「恵みと慈しみ」に、どこまでも思いを注ぐのです。

 彼は「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない」と告白します。ここまでの歩みの中で、幾度も「死の陰の谷」を行く経験を実際にして来たのでしょう。しかし「恐れない」と言い切る。それは「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う」からです。

 神さまの「恵みと慈しみ」が追いかけて来る・・・「恵みと慈しみ」は、私たちが必死になって「与えてください」とすがって得る類のものではないのです。それは既に、私たちを追いかけて来ているのです。この私たちを支え、励まし、私たちを押し上げ、御国へと大きく前進させるために・・・です。そのように「慈しみと恵み」が力強く私を後押してくれる。実にありがたいことです。

 だから人生の「死の陰の谷」にあっても、病の淵にあっても、死の床にあっても失望してはなりません。常に「憩いのみぎわ」に思いを馳せ、主に委ねましょう。

 今、私たちもこの詩を書いた人と同じ恵み、同じ慈しみ、同じ導きを頂いているのですから。だからどこまでも頑張って、歩み続けましょう。そして雄々しく「主の家」へと凱旋しようではありませんか。



☆5月4日説教「主に従う」要約:

「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた」(ヨハネ福音書21:19)

 人にとって「どのように生きるか」と同様「どのように死ぬのか」も大切だろう。主がペトロに述べた御言葉によれば、私たちがたとえどのような老いを迎え、どのような死に方で人生を終えたとしても、そこにおいてなおキリストの愛に支えられ、死の彼方まで導かれるというのである。感謝なことだ。
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by aslan-simba | 2014-05-01 10:13 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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