あしあと

 「あしあと」という信仰の詩(マーガレット・パワーズ作)、ご存じの方は多いと思います。
 「ある夜、わたしは夢を見た。 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった」・・・しかし自分の人生の最も辛い時には足跡が自分のものひとつしかない。そこで主に問うと・・・「主は、ささやかれた。 わたしの大切な子よ。 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。 あしあとがひとつだったとき、 わたしはあなたを背負って歩いていた」。
 イザヤ書の「わたしが担い、背負い、救い出す」(46:3―4参照)がモチーフとなっているのでしょう。主が共に在ることを示す感動的な詩だ、と言われます。
 ところで最近、ある仏教詩人の短い詩からもリアルに、主が共に歩んで下さることが示されました。「シドロ モドロ 私があるいた足あと よく見ると この足あとのなかに もう一つの 足あとがあった」(榎本栄一「同行二人」)。
 その「もう一つの足あと」とは、私たちにとっては「キリストの足跡」でしょう。キリストと同行二人(どうぎょうににん)で、この人生を共に歩ませて頂いている、本当に勿体ない話です。どうかそのことをしっかりと心に留め、辛い時、悲しい時・・・しどろもどろの歩みになりそうな時には、ひとりでふさぎこまずに、共にある主に呼びかけて下さい。主はその悩みを真摯に受け止められ、そして慰めを与えて下さると思います。 また嬉しい時、楽しい時には、そのことを主に心から感謝しましょう。主は「本当によかった」と共に喜んで下さるはずです。
 そうです! 御名を呼ばわるとき主は、あなたの傍らで、あなたに語りかけて下さるのです。復活の春は、復活の主イエスと共に歩める幸いを憶える時でもあります。主は私たちに言われています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28:20)と。 感謝


☆5月4日説教「勝利のしるし」要約:
「・・・『平和があなたがたにあるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(ヨハネ福音書20:20)
 復活されたキリストは、勝利と赦しのしるしを、その身に帯びています。もはや人は、不安と恐れにとらわれて生きる必要はありません。罪の重荷を生涯引きずって、自らを責め続けて生きる必要もないのです。共々に復活のキリストの賜る「平和」(シャローム)を頂き、幸いな者として、歩もうではありませんか。
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by aslan-simba | 2014-04-24 12:28 | Comments(0)

 インターネット・ラジオから懐かしいカーペンターズの曲が聞こえる。兄が楽器、妹がヴォーカルを担当した彼らの音楽は爽やかだ。
 流れているのは「イエスタディ・ワンスモア」・・・英語の歌詞が今日は妙に心に響く。それを日本語に置き換えてみると、大体こんな風に訳せる。
 「若かった頃、よくラジオを聴いていた。お気に入りの曲を待ちながら。それがかかると合わせて歌い 笑顔になったものだ・・・過ぎた年月を振り返ると、私の良き時代が 今日をさらに悲しくさせているように思う 本当に多くの事が変わってしまった。・・・(でも懐かしい昔の歌と共に)最上の思い出のすべてが ここに鮮やかに蘇ってくる 悲しくなる思い出もあるが まさに昔と同じ思いが今甦る あの日がもう一度ここに甦る・・・」。
 しっかりとした曲調で歌われるのは、実に哀愁漂う内容ではないか。この歌をよく耳にしたのは二十代の時、あの頃は、歌詞について考えたことなど一度もなかった。若かったからだろう。思えば三十年以上も前の話、否、四十年近く前と言った方が正確かも知れない。当人としては、今なお十分若いつもりでいるのだが・・・現実的には結構いい年になったようだ。
 確かに良くも悪くも時は経過した。思えば、両親や親しい近親者も天へと送っている。ちなみに、このイエスタディ・ワンスモアを歌っていたカレン・カーペンターも80年代の初めに早世していたはずだ。まさに諸行無常・・・。
 ふとイザヤ書の聖句が脳裏を走った。「草は枯れ、花はしぼむが 私たちの神の言葉はとこしえに立つ」、また「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と。
 そのようにどこまでも信じ、歩んで行ければと願う。その時、周囲のみならず、自分自身の移り変わり(老化について)も、安んじて受容して行けるだろう。私たちは、どこまでも復活の主が共にあって、御国の希望のうちを生きているのだから。


☆4月20日復活祭礼拝説教「開かれた出口」要約:
「あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である」(マルコ福音書16:6)。
 墓に座っていた若者は告げました。復活したのは、十字架につけられたあの御方である、と。三人の女性たちは、あの日、あの朝、出口の開かれた墓を見たのです。それは死の世界からの出口。救いの扉であることを知らされたのです。
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by aslan-simba | 2014-04-16 21:15 | Comments(0)

4月20日の日曜日はイースター(復活祭)です。キリストの復活と春の到来を喜ぶ、古くからの教会行事です。

桃山栄光教会では、次のようにお祝いします。
 10:30~11:30 復活主日礼拝
 11:50~13:30 お祝いの会

キリスト教の三大祝祭日の一つであるイースターを、今年はご一緒にお祝いしませんか。
気さくでアットホームな教会です。どうぞお気軽にお越しください。
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by aslan-simba | 2014-04-13 16:02 | Comments(0)

祈られている

 受難週の説教準備をしながら、ふと僧侶で仏教学者だった曽我量深(そがりょうじん)さんのこんな法語が脳裏を走りました。「われわれは知らなくても 仏に願いをかけられ 望みをかけられている」・・・。
 聖書にこうあります。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22:32)・・・これは最後の晩餐の席上で、主イエスがペトロに語りかけられた御言葉です。主はこの後、ペトロが三度に渡ってご自身を否認することも知っておられました(34節)。やがて十字架の出来事を前に、離反するこの筆頭弟子のあり様を見据えつつも、なお、そのペトロのために主は祈られ、励まされたのです。「あなたのために祈った」・・・実に深く、また重い御言葉ではないでしょうか。
 翻って、この御言葉は、ペトロと同様、私たちにも向けられている・・・。そうです。自分のことで一杯になり、時に神を忘れているような者をも主は憶え、今も祈っていて下さっているのです。一人一人の名を呼び、励まし、支えて下さっている。何と感謝なことでしょう。主イエスが、神さまの方が、私たちが祈るよりも前に、私たちのために祈って下さっているのです。そこに私たちの救いと信仰の土台があります。
 ある方がこう記していました「信仰者というのは、恐れや疑い、失意、繰り返される試みを免れている人のことではなく、祈りによって支えられ、悔い改めと赦しによって、生きる力と恩恵とを見出す人々なのである」と。 大きな力に支えられ、祈られて在る人生・・・私たちはこれからも失敗をしたり、絶望したりすることはあるかも知れません。けれども、たえず主イエスの祈りにより励ましがある。そして最後には、「復活」という大いなる望みがある・・・。
  「神に願いをかけられ、望みをかけられ、祈られて生きる人生」、私たちは主に在って日々赦され、新たにされて、どこまでも希望をもってこの世の旅路を歩める者たちなのです。ただただ有難いことです。


☆4月13日説教「私達のために」要約:
「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ書53:6)。
 主の十字架によって、イザヤ書のこの言葉が成就・・・。十字架上で主は叫ばれた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と・・・それは父なる神が御子を裁く事で、私たちに救いの御手を伸ばされた出来事なのである。

★4月20日(日)復活祭(イースター)です。桃山栄光教会では10時半から復活祭礼拝を行います。是非お気軽にお出かけ下さい。
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by aslan-simba | 2014-04-09 07:54 | Comments(0)

大きな桜の木

 我が家の近くのお地蔵さんの傍らに、大きな桜の木があります。その花は今、見事に満開です。つい二週間ほど前までは、未だつぼみでした。通るたびに「この木の開花はいつだろう」と思いながら眺めておりました。それが二、三日前に咲き始めたと思うと、あっという間に桜花爛漫・・・。
 薄紅色に輝く桜の花々は、人々の心をなごませてくれます。このつかの間の輝きが、私たちの心に永遠の美しさを残してくれるようです。この最上の美を示すため、桜の木は、夏の暑さ、冬の寒さを耐え忍びつつ立ち続けます。その命を保持するために、それぞれの季節の中で、一心になすべきことを行っている・・・。そう思うと、あらためて静かな感動を覚えます。その木の命の背後にも、間違いなく創造主の御業があるのでしょう。桜の木は、どこまでもその御力に委ねて、ひたすらに時の流れを生きているのです。
 翻って、私共もこのような木々と同じように、一切を委ねて、与えられた時を一心に生きることができたなら、もっとおだやかな日々を歩めるのではないでしょうか。
 坂村真民さんの詩を一つ思い起こしました。「咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる」。また、よく聞く主イエスの御言葉も、新たな輝きをもって迫ってまいります。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし栄華を極めたソロモンでさえ、この花のひとつほどにも着飾っていなかった。・・・だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな」(マタイ6:27‐31参照)と。
 おりしも新たな年度の始まり、肩のこるような古くて重たい冬の衣服を脱ぎ棄て、身軽になり、新たな思いを以って主に委ねて行こうではありませんか。その時、きっと“新しくなった自分”に気づくはずです。そう!桜の季節の次には、新たな「いのち」の誕生を示す復活祭の時を迎えます。



☆4月13日説教「大祭司キリスト」要約:
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ人への手紙4:15―16)
 大祭司としてのキリストに在って、今を生かされている。感謝
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by aslan-simba | 2014-04-02 15:31 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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