失敗にも意味あり

 私たちの人生の歩みは、自分の思い通りに物事が運ばずに失敗を繰り返したり、多くの問題を抱えて苦悩することが多いように思います。
 先日、たまたまつけていたインターネット・ラジオで、こんな英語表現が紹介されていました。「It was a great opportunity to learn.」(それは良い学びの機会であった)。つまり、問題や失敗を経験したとき、逆にそこから良い教訓を学べたという思いを伝える言葉なのです。
 その番組では取り上げていませんでしたが、「失敗は成功のもと」(Failure is a stepping stone to success.)という格言や、エジソンの「私は失敗したことがない。ただ1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ」(I have not failed.I have just found 10,000 ways that won’t work.)といった言葉も、合わせて思い起こしました。
 そこからあらためて思うのは、神さまが与えて下さったこの命、そのご計画の下にあるこの人生ですから、失敗にも意味があるのだ、ということ・・・。言葉を換えれば、失敗を含め、私たちの人生には無駄なことなど何一つもないのです。嬉しいことや楽しいこと、成功体験だけではなく、辛いことや悲しいことも、その一つひとつが、私たちの人生を彩ってくれているのです。そのような人生を歩み、今ここに生かされて在ると気づくとき、この生涯において出会うすべての事柄は、私たちの目に、違った様相をもって見えて来るのではないでしょうか。
 使徒パウロの言う「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケ一5:16-18)の真意が心に響きます。
 もちろん、そのような心意気までには、すぐには到達できないかも知れません。それでも、小さな失敗を通し、「大難を小難に」変えて下さる神さまが共にいて下さること。うまく行っているから感謝するのではなく、まずは感謝できることこそが幸せなのであると、心に刻み歩んでまいりましょう。そこに必ずや豊かな「成功」が訪れるはずです。


☆3月30日説教「汝を罪せじ」要約:
「女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」(ヨハネによる福音書8:11)
 「我も汝を罪せじ」と言われた主は、ご自身が「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)として、十字架への道を歩んだ。即ち、この「わたしもあなたを罪に定めない」とは、まさにキリストの命の重さが込められた御言葉なのである。そして「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11)と言われる。真にキリストの赦しの言葉に出合った者は、その十字架の恵みに真摯に応えて、立ち上がり、新たな人生を歩み出すのである。
[PR]
by aslan-simba | 2014-03-26 08:55 | Comments(0)

帰る場所を知る人生の旅

 寒さも和らぎ、明るい春の日差しを感じるようになりました。本当に「暑さ寒さも彼岸まで」です。
 もうすぐ桜の季節・・・年度変わりのこの時期、人生の節目の時にもあたります。
 「人生とは旅であり、人間は大きなゴールに向かっている旅人とも言える。人生の旅は、ただ簡単にみんなが歩いている道をたどるのではなくて、勇気をもって右、あるいは左へ、生涯の転機をも選ばなければなりません」。「死の準備教育」を提唱するアルフォンス・デーケン司祭の言葉です。こう続きます。「ときに、それは苦しい選択にもなるわけです。でも判断を停止してそこに止まることはできないのです」。
 若者には卒業や進級、入学や就職の時、勇気をもって羽ばたいて行って欲しいものです。私たちにとっても、更なる一歩を踏み出す時です。恐れずに前進しましょう。この先、仮に苦難が待ち受けていようとも、主が共にあれば、必ず乗り越えて行けることを信じて。
 ある仏教者の方が記していました。「私たちの人生という旅は、『帰る場所』に支えられてこそ、どんな苦難にあっても安心して生き抜くことが出来る。救いとは、その『帰る場所』を与えられることではないか」と。また、こんなことを書かれたお坊さんもいました。「旅を終えて帰って行く世界、お浄土があるとは安心です。お浄土はまた懐かしき人と会える世界、倶会一処の世界です。お念仏申すものはお浄土という世界があるのです」と。いずれも、100パーセント同感です!
 ちなみに「浄土」=「清浄で清らかな国」とは、私たちの言う「天国」「神の国」「御国」のこと・・・私たちの人生の旅には辿りつく目的地、帰るべき「天の故郷」があるのです。だから安心して人生の旅を続けようではありませんか。心配はいりません。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント一10:13)。雄々しく歩んでまいりましょう。
 なおデーケン先生の教える思い煩いから自由になる言葉は、「晴れてもアーメン、雨でもハレルヤ」だそうです。どんな時にも神さまに委ね、いつも感謝ということでしょう。



☆3月23日説教「ヤコブの祝福」要約:
「その日、父は彼らを祝福して言った。『あなたによってイスラエルは人を祝福して言うであろう・・・」(創世記48:20)
 「祝福」、それは祈りです。二人の孫に対するヤコブの祝福・・・それはこうでした。48章15節「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」、16節「どうかこの子供たちの上に祝福をお与え下さい」・・・と。こんなふうに神さまの助け、導き、贖い、神さまの好意、その恵みの導き、恵みの支配を祈る。これが聖書の示す祝福なのです。そして、神さまは、この祈りに必ずや応えて下さいます。
[PR]
by aslan-simba | 2014-03-20 19:44 | Comments(0)

ありがとう・さよなら

 暖かな日差しの中に、春の足音が確実に聞こえて来るようになった。作業をしながら聞いていたパソコン・ラジオは、卒業式の歌を流している。もうそんな季節だ。
 「ありがとう・さようなら ともだち ひとつずつの笑顔 はずむ声」、この歌をはじめて知ったのは、子供の幼稚園卒園の時だった。園児にはむずかしいかも知れないが、小中学生にはぴったりの曲だと思ったのを覚えている。二十年以上も前のこと。懐かしさも手伝い、しばし手を休めてこの歌に聴き入った。
 「ありがとう・さようなら 先生 しかられたことさえ あたたかい 新しい風に 夢の翼ひろげて ひとりひとりが 飛びたつ時  ありがとう・さようなら 先生・・・」。胸が熱くなった。
 自分が子供の時から、大人になるまでお世話になった先生方を思い起こす。そういえば小学校の卒業式で、校長先生はこんな内容の話をしてくれた。「皆さんは生まれた日から、今日の日に至るまで、お父さん、お母さんをはじめ、多くの方々から見守られてここまで来ました」。そして、これから中学へ、さらには上級学校へと学びを進め、家族や社会、また自分たちを生んだこの国にもお返し出来るようになって欲しい・・・と。
 あれから五十年、国はもちろんのこと、親に対しても、お返しは出来ていなかったという反省が残る。 そんな訓示をされた校長先生をはじめ大半の先生方は、既に天上の人になられているだろう。時間の経過の早さをあらためて思わされる。また卒業を含めた多くの節目を通り、現在、自分も非常勤ながら「先生」であることに不思議な導きも感じる。
 今、学校の卒業生・・・のみならず教会の皆さんの人生の旅のはなむけの言葉を問われるなら、迷わず聖書の「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)をおくりたいと思う。
 どうか勇気をもち、「新しい風に 夢の翼ひろげて」飛び立って欲しい。そこにどんな苦難があろうとも、主が共に在ることを覚え、勇気をもって歩んで行こう。私たちにとって最後の、そして本当の卒業式は、御国に凱旋する時であることも心に刻みつつ・・・。


☆3月16日「神に近づく」要約:
「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(ヘブライ人への手紙10:20)
 キリストの十字架、それは私たちのために主が拓いて下さった「神に近づく道」、「御国への道」だ。すなわち十字架によって罪の贖いが成し遂げられ、人と神とを隔てる「垂れ幕」は裂かれたのである。
[PR]
by aslan-simba | 2014-03-13 20:02 | Comments(0)

しもべ聴く

 「主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ』。サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております』」(サムエル記上3:10)。
 小学生の頃に通っていた近所の日曜学校、部屋の一角に巻き毛の小さな少年が正座し、手を合わせて祈っている絵があった。幼いイエスさまの御姿だと思っていた。それが「幼きサムエル」(18世紀のイギリス画家レイノルズの作品)だと知ったのは、随分と後、大人になってからである。(ちなみにサムエルとは、旧約聖書に登場する紀元前11世紀頃のイスラエルの士師[宗教的指導者])。
 この少年の祈りの姿に、絵本で見たある仏教祖師の姿を思い起こしたこともあった。掌(たなごころ)を重ね合わせ祈る、それは神仏と結ぶすべての宗教に共通するゆえだろう。
 ともあれ、手元の神学書に「祈りとは、人と神とのある意味での交流。人は祈りによって天の聖所に入り、神の前に出る」(カルヴァン『キリスト教綱要』)とある。つまり、私たちにとっての祈りとは、一方通行ではなく、神さまから聴くところへと導かれるのである。「しもべ聴く。主、語り給へ」という神との語らいこそが祈りなのだ。
 日々、私たちの身の回り、この社会、この国、この世界には、さまざまなことが起こる。それは良いことよりも、「なんでこんなことが」という出来事の方が多い・・・。そんな生活の中、日々好日(にちにちこうじつ)であるよう祈りをもって神に願える幸いに与る。これだけでも大きな力である。
 さらに、祈りを通し、祈る自分が神さまの大きな御手の内にあって、祈られていることに気づかされる。すべてを包み込む贖い主の憐れみの祈りに励まされ、多くの方々の祈りに支えられ、神に赦されて今を生かされている・・・。そして、祈りは、ただただ感謝の思いへと変えられて行くのである。
 「常に喜べ。絶えず祈れ。凡(すべ)てのこと感謝せよ・・・」(テサロニケ一5:16-18文語訳)。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです」(ペトロ一5:7)・・・今朝はそのような御言葉が示された。本当に有難いことである。


☆3月9日説教『悔い改め」要約:
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。 
 主の宣教の第一声として、伝えられている御言葉だ。同時にこれは、主イエスの教え全体の要約であるとも言われる。 かつてガリラヤで語られた生前の主、今、その十字架と復活を経て、私たちの救い主、贖い主として同じ御言葉を語りかけて下さっている。そんな主の肉声が私たちの心に響く。
[PR]
by aslan-simba | 2014-03-06 22:37 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31