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Bridge over troubled water

 最近ラジオの音楽番組を聞くようになった。数か月前に購入したスマートフォンで幾つかのラジオ番組を聞けるおかげだ。結構、60年代、70年代の古い曲が流れている。私も懐メロを楽しむ年齢になったようである・・・。ともあれ、以来電車での移動中は本を読みつつ、イヤフォンを耳につけ音楽を聴く、「ながら族」をやっている。
 先日、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」が流れて来た。「あなたが疲れ果て、どうしようも無い思いになった時、涙があふれて止まらない時、私がその涙をぬぐってあげよう。私はあなたと共にある。つらい時、友があなたを見捨てて誰もいなくなった時、私は自分の身を投げて、この荒波の上に橋を架けよう・・・」。瞬間はっとして、手にしていた本をひざの上に置き、英語の歌詞に聞き入った。「あなたが落ちぶれ果て、あてもなくさまよう時、厳しい夕暮れを迎える時、私はあなたを慰めてあげよう。私があなたの代わりになろう。夜のとばりが訪れて、痛みに悩まされるときには・・・」。
 聞きながら、聖句が脳裏を走る。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネ黙示録21:3-4)。「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)。これは「讃美」の歌ではないか。以前は漠然と聞き流していた歌だったが、新鮮な思いをもってこの曲に聞き入った。
 思えば、私たちの人生の奔流には、確かに絶えず荒波が渦巻いている。なかなか順風満帆には事は進まない。幸せを願っても不運に襲われることがある。愛を求めても孤独にさいなまれることさえある。もっと言えば、「板子一枚下は地獄」なのかもしれない。しかし、恐れなくてよい。キリストが私たちのためにご自身を投げ打って、この人生の荒波に、希望の救いの橋を架けて下さった(Bridge over troubled water)からである・・・と、あるいは作詞者(サイモン)の予想を越えた、そんなメッセージが心に染みた。良い歌と再会できた。昔の歌は良い(まあ、歌にもよるだろうが…)。


6月2日説教「祈り求める」要約:
「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。・・・僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(使徒言行録4:29―30参照)
 ペトロとヨハネの祈りです。彼らは自分たちを取り囲む厳しい現実を神に訴えました。しかし、単にそこから逃れることを願ったのではありません。御旨に従って、その困難に立ち向えるようにと祈り求めたのです。そして、その通りになりました。神は私たちの祈りに対して、聖霊の満たしをもって必ず答えてくださるのです。どのような状況に置かれても、困難から逃げないで、神さまが私たちを“霊”に満たして用い給うことを期待して、祈り求め続ける者でありたいと心から願います。
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by aslan-simba | 2013-05-31 08:50 | Comments(0)

マカリオス

 「ガリラヤの風かおる丘で 人々に話された 恵みのみ言葉を わたしにも聞かせてください・・・」、そんな讃美歌のメロディーをパソコンで聞いています・・・(讃美歌21 57、新聖歌40、典礼聖歌388参照)。 
 さて、木々の緑もひときわ色濃くなってまいりました。五月も下旬、例年この時期に決まって心に響く聖句があります。ご存じ山上の垂訓(説教)の最初の部分です。「幸いなるかな 心の貧しき者 天国はその人のものなり。 幸いなるかな 悲しむ者 その人は慰められん。 幸いなるかな 柔和なるも者 その人は地を嗣がん。・・・」(マタイ5:3-5文語訳参照)。いかがでしょうか。ここに主の祝福の言葉「マカリオス」(「幸いなるかな」「幸いである」の原語)が記されています。このイエスさまの御言葉は「八福の教え」とか、古くは「真福八端(しんぷくはったん)」と言われました。本当の幸せになるための「八つ心の状態」が述べられているからです。その御言葉をかみしめつつ、あらためて自らを振り返ってみます。
 この心のありよう・・・「心の貧しさ」「悲しみ」「柔和」などといった状態は、神さまとの関わりにおける表現です(それは「義に飢え渇く」「平和を実現する」なども同様)。つまり、神の前に己の足りなさ、罪深さを悲しみつつ省み、徹底的に身を低くする、そのようなへりくだった思いが表わされているのです。素直な自分に戻り、主の御前に遜り、憐れみを乞いつつ祈る者には祝福があるのだ・・・と、示されます。
 ところで先日、宗教学の調べものをしていた折に、こんなお経の言葉にも出合いました。「目に見えるものでも、見えないものでも、遠くにあるいは近くに住むものでも すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳・岩波文庫)。これはお釈迦さまの言葉とされますが、私には、イエスさまの祝福の御言葉と重なるように聞こえてまいりました。初夏の若葉の香りを運ぶ聖霊の風にのって・・・。そうだ! 私たちは今、大きな祝福の御手の中にある! 有難いことです。


☆5月26日説教「御子の祈り」要約:
「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ福音書19:30)
 キリストは、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった。だから、もはや何も恐れる必要はありません。主が身をもって現して下さった神の愛の中に、憐れみの中に、ただひたすら身を置いて歩めば良いのです。神に向かって顔を上げ、神の愛を信じて、神と共に生きたら良いのです。今、私たちは大きな救いの中にあるのです。神を私たちと隔てるものは、もはや何もないのです。
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by aslan-simba | 2013-05-23 21:32 | Comments(0)

人生の道

 人生はよく長い道行きにたとえられます。「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし・・・」(徳川家康)と。私たちはそのように重い荷物を背負いながら、自らの道を自分のペースで歩んで行くのでしょうか。
 高村光太郎の詩の言葉に「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る・・・」とありました。一日一日、一歩一歩を踏みしめながら、前を見つめて歩んで行く時、そこにその人なりの足跡がのこされるということです。それは他の人が代われるものではありません。人生の道は自らが歩むことによって、つくられてゆくものなのです。
 その道行き、時には歩き続けるのに疲れ切ることもあるでしょう。歩くのが空しく感じられることも、あるかも知れません。また、突然足に痛みを覚え、歩くのが困難になる日すらあるでしょう。そういったことに直面する時、これまで当たり前のように歩けたのが、当たり前ではなかったことに気づかされます。そして、その足の痛みがとれ、再び立ち上がり、歩き出せた時には、何にもまさる大きな喜びにみたされるはずです。
 光太郎の詩の続きを思い起こします。「・・・ああ、自然よ 父よ 僕を一人立ちさせた広大な父よ 僕から目を離さないで守る事をせよ 常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ この遠い道程のため この遠い道程のため」(「道程」)。そうです! 私たちの道行きは「父」、すなわち「父なる神さま」が共に在り、守られているのです。「主は人の一歩一歩を定め 御旨にかなう道を備えてくださる。 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」(詩37:23-24)。 
 これからも、神さまにゆだね、たえず祈りながら、我が足を踏み出して行きたいと思います。まっすぐ前を向いて、心を高くあげ、さらに、この道が御国に繋がっていることを確かに信じて。


☆6月19日説教「聖霊に満たされて」要約:
「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に霊を与えてくださいました」(コリント信徒への手紙二 1:21)
 この「保証」の原語は「手付け金」・・・後に完全に受けるものの一部が、先に与えられることを意味します。つまり聖霊に満たされることによって人は、神の国における全き救いを喜びの一端を、今ここに経験させて頂いているのです。感謝


*6月19日(日)はクリスマス(降誕祭)、イースター(復活祭)と並ぶキリスト教の三大祝日の一つペンテコステ(聖霊降臨祭)です。是非、礼拝にお越しください。10:30~です。お待ち申し上げております。
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by aslan-simba | 2013-05-16 20:32 | Comments(0)

つつじとゴッホ

 雲ひとつない快晴の下、見事につつじが咲き誇る。あの「ひまわり」のゴッホがこの光景を見ていたなら、どう描いただろうか。彼が浮世絵を通して知り、愛した光の国=日本のこの美しい花々を・・・。
 オランダ生まれの画家ゴッホは、「炎の人」と言われる。実際、激しい情熱で一心不乱に生きた人だった(ある意味、「狂気の人」というべきか・・・)。学校を終えて、画商に勤め懸命に働く。しかしそのロンドン画廊勤務中、下宿先の娘に夢中になり、一方的に求愛し拒絶される。そのため仕事に身が入らず解雇に。
 その後、英国の寄宿学校教師などを経て伝道を志す。彼は元々、牧師の息子である。しかしその時の「信仰」への情熱は弟のテオに、「聖書以外の本は一切読んでいけない」と厳命するほどの激しさだった。彼はロンドンの貧民街で伝道しながら、正規の牧師資格を得るため、神学大学の学びも考えるが、学科に対する興味がわかずに挫折。おまけに彼の伝道は教会側からクレームを受ける。その理由は、彼が極端なまでに「熱心」すぎたためとのこと。
 次に画家を志す。彼は弟テオから貰う金の大半を画材につぎ込み、口にするのはパン、コーヒー、タバコとアブサン(アルコール度の強い酒)のみ。歯は抜け、身体は衰弱した。また弟テオと暮らしたパリ時代には、南仏のアルルで画家たちと芸術共同体をつくることを夢想。唯一アルルに来てくれた画家仲間のゴーギャンに、自画像の耳の形がおかしいことを指摘され、怒りにまかせ自分の耳を切り落す事件まで起こす(彼の自殺はその一年半後)。自傷癖まである実に困った男だ。こんな人間がそばにいたら、本当にかなわないだろう。
 それでも最後まで純粋に生き、必死で空回りを続け、燃え尽きた芸術家ゴッホ・・・しかし彼の絵に引かれる人は多い。先日訪れた京都で開催中のゴッホ展も満員だった。その人混みをかきわけながら観賞だったが、十分に堪能できた。彼の太い線描画「グレーの帽子の自画像」に圧倒されながら、その生涯と信仰にも思いを馳せつつ、たまらないやるせなさと、いとおしさをも感じた。なお、ゴッホの生前、売れた彼の絵は一枚だけだったという。


☆5月12日説教「御名によりて」要約:
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である・・・」(ヨハネによる福音書14:16-17)
 「真理の霊」は、私たちに真理を悟らせる。ならば、その真理とは何か。主は言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と。私たちが知らなくてはならない真理とは単なる抽象概念でなく、イエス・キリストというお方なのである。つまり真理の霊(聖霊)は、私たちに主イエスを示し、主に在って導いて下さるのである。
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by aslan-simba | 2013-05-07 19:59 | Comments(0)

今朝吹く風

 連休も残りあとわずか、手元の書籍や雑誌の記事の整理をしていた折、こんな短歌と出合い、共感を覚えた。「大いなるものに抱かれあることを 今朝吹く風の涼しさに知る」。これは昭和時代の著名な禅者、山田無文老師が詠ったもの。
 1900年、愛知に生まれた無文は、法律家を志し東京へと出るが、期するところあってチベット探検家で僧侶の河口慧海に師事、仏教を学ぶ。ところがその道半ば、結核を患い、郷里へと戻る。実家の離れで療養を続けるも、病状は一向に回復せず益々悪化。しかもその折、兄までも結核に罹り、そのため兄は他界。無文は精神的に追い詰められ、まさに極限状態に陥った。 そんなある日、彼は庭隅の南天に吹く、風のそよぎに気づいた。そして自身もその風に吹かれながら忽然と、「ああ、自分は一人ではなかった。孤独ではない。大いなるものが片時も離れず、私を守り育ててくれている・・・。その目に見えない力によって、なお私は生かされている」と感じ入ったのだった。その心境を託したのが、この短歌である。なおこの経験を境に、無文は健康を大きく取り戻して行ったそうだ(2011・5月『花園』他参照)。私は、そこに天地万物を創造された大いなる主の御手を覚えざるを得ない。無文師が感じたのも、その力ではないだろうか・・・。
 手を休めて外に出る。若葉の美しい端午の節句、鯉のぼりが薫風を一杯にはらんで、空高く泳いでいる。激しい滝を登りきった鯉は龍となり、そこから天に昇って行くという故事を思い起こし、心から願う・・・我が国の、そして世界の子どもたち、若者たちが大いなる力に与って、明るく元気に成長することを。また、私たち中高年も負けずに頑張ろうではないか。なお、今朝はこんな聖句が示された。「主は人の一歩一歩を定め 御旨にかなう道を備えてくださる。 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。 主がその手をとらえていてくださる」(詩37:23-24)。感謝。


☆5月5日説教「神を知る」要約:
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(ヨハネの手紙一4:16)
 ヨハネは「神を知る」ことを、「愛を知る」こととして語ります。すなわち、キリストにおいて現された神の愛を受け容れ、信じて生きること、完全にその愛に身を委ねて生きることなのです。
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by aslan-simba | 2013-05-04 07:44 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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