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山笑う喜び

 新緑がまぶしい季節となりました。そしてゴールデン・ウィーク。殺伐とした都会生活から解放され、緑の自然の中で、ほっこりした日々を過ごすリフレッシュ・タイム・・・。三十年も前のサラリーマン時代、五月の連休に埼玉に戻った時の解放感が、懐かしく甦ってまいります(当時、実家は東京から埼玉に移っていました)。 
 そういえば正岡子規が帰郷の喜びを詠った、こんな俳句がありました。「故郷や どちらを見ても 山笑ふ」。ただし「山笑う」は、「春の芽吹きはじめた華やかな山の形容」(広辞苑)をする季語ということですから、季節的には今より一カ月ほど前を指すのでしょう。それでも、この「山笑う」という言葉に引かれます。事実、そう口にするだけで笑みがこぼれてまいります。
 「笑う」・・・いみじくも今朝は、こんな聖句が示されました。「主がシオンの捕らわれ人を連れて帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。 そのときには、わたしたちの口に笑いが 舌に喜びの歌が満ちるであろう」(詩編126:1-2)。この背景には、旧約聖書の民が実際に経験した、紀元前六世紀のバビロニア捕囚からの解放の出来事がありました。辛い異郷の地での囚われの生活から解放され、懐かしいエルサレムへの帰還がゆるされたのです。それは彼らにとって、「夢を見るような」「喜び」の出来事でした。今、私の心に響く「山笑う」には、この神さまが与えて下さる解放の奇跡という「喜び」が、内包されているのです。無論、この喜びは今だけではなく、一年中、いやこの先、生涯に渡って続くものです。
 「主に贖われた人々は帰って来て 喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき 喜びと楽しみを得 嘆きと悲しみは消えさる」(イザヤ51:11)。私たちもいつの日か、天の故郷、天上のシオンに帰ることがゆるされています。このことも心に刻みつつ、笑顔で歩んでまいりましょう・・・「完全(またき)にむかいて進まん、途(みち)にて気をゆるめず、うえなきめあてをのぞみ、笑みつつたえずすすまん」(讃美歌452より)。



☆4月28日説教「まことのぶどうの木」要約:
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」 (ヨハネによる福音書15:5)
 このキリストとの「つながり」こそが、ヨハネの伝える「信仰」なのです。ちなみに、「つながる」の原語は、「とどまる」とも訳せます。すなわち、どこまでもキリストにとどまり続けることによって、信仰の実を結ぶことができるのです。
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by aslan-simba | 2013-04-26 15:22 | Comments(0)

信仰者トマス

 主イエスの十二弟子の一人に、トマスという人がいます。古来、懐疑的な人、あるいは惑う人のように言われてきた人です。その由来はヨハネ福音書の復活顕現の記事にあります。「トマスは言った。『あの方の手に釘の後を見、この指を釘跡に入れてみなければ・・・わたしは決して信じない』」(ヨハネ20:25)。 しかし、私はこのトマスに親しみを覚えます。彼は疑い深い人だったというより、軽信したり、盲信することのない正直な人だったと思うのです。
 彼はこんなことも言っています。最後の晩餐の席上、イエスさまが弟子たちに、「心を騒がせるな・・・わたしの父の家には住むところがたくさんある・・・あなたがたのために場所を用意しに行く・・・」(ヨハネ14:1-4参照)と言われた時です。主イエスのこの受難予告を聞き、弟子たちは驚きと不安、そして悲しみに覆われ言葉を失ってしまいます。しかしトマスだけは、その辛い思いを絞り出すように言葉にしたのです。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」(14:5)と。そして、主から「我は道なり、真理なり、命なり」という決定的な御言葉を頂いたのです・・・。
 さて、そのトマスのもとに顕現された復活の主は、ご自身の十字架の御傷を示しつつ、それに触れるよう命じられます。しかし、トマスはもはやイエスの御体に手を触れませんでした。直ちにひれ伏して、「わたしの主よ、わたしの神よ」(20:28)と叫んだ・・・自分の前に在る復活の主のご臨在に、ただただ圧倒されたのです。
 物事を客観的に見、論理的に考えることが如何に大切であるかは、言うまでもありません。しかし、復活顕現という圧倒的な事実の前には、そんな私たちの理性による推論や五感の証拠などの一切は吹き飛んでしまうのです。そこに復活信仰の醍醐味があります。私たちの信仰も、最終的にはこの地平に立つのです。トマスの言動はそのことも教えてくれます。



☆4月21日説教「良い羊飼い」要約:
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10:14‐15)
 主イエスは、私たち一人一人の一切を知っておられる。その弱さも悲しみも罪も、何もかも・・・そして主は、その私たちを救うために、ご自身の命すら惜しまないのである。
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by aslan-simba | 2013-04-19 17:17 | Comments(0)

生命の風

 桜の花も散り落ち、木々の小枝が風にゆれています。
 風といえば、大正ロマンの画家で詩人の竹久夢二が、こんな童謡をのこしていました。「風は草木の先生か 風が通れば草も木も みんなおじぎを いたします 風はダンスの先生か  風が踊ればエプロンも 坊やのシャツも 踊りだす  風はどこからどこへゆく 風は山から野へ里へ はてのしれない 海原へ」(『風』竹久夢二)。 本当に、風は桜の木々を、春の草花を躍らせ、季節の自然を導く先生なのかもしれません。そこに目にはみえない大きな力を覚えます。
 ところで、聖書の人々が述べる「風」の原語には、「息」そして「霊」の意味も同時にあります(旧約聖書のヘブライ語は「ルーアッハ」、新約聖書のギリシア語は「プネウマ」)。興味深いことです。言葉を換えれば、私たちは「風」を感じることで、「神の息とは何か」、「聖霊とは何か」を感じられるのではないでしょうか・・・。 「聖霊」、それはつまり、私たちの内面の奥深くまで浸透している「いのちの息吹」、私たちの心の内にそよぐ「生命の風」と述べてよいでしょう。この「神さまの風」が、「息吹」が、私たちを今ここに生かし、元気づけ、勇気づけ、立ち上がらせてくれるのです。
 キリストの復活顕現に直面した最初の弟子たちも、この「風」の力を頂きました。ヨハネ福音書は記します。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』。そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。『聖霊を受けなさい・・・』」(ヨハネ20:21-22)。そして彼らは、「復活の事実」を身を挺して証し続けたのです。
 本来教会とは、真にこの「風」、この「息吹」、この「聖霊」の力に満ちあふれるところであり、その力に生かされた者たちが集められる、生ける「復活の主」の体なのです。 春風に吹かれながら感謝します。そのような教会に集え、復活信仰に与っている有難さを・・・。


☆4月14日説教「エデンの物語」要約:
「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」
(ガラテヤ信徒へ手紙1:4)
 主イエスが、私たちの罪のために十字架に掛られたのは、単に私たちを罪責感から解放するためだけではない。不安や恐れから導き出すためだけではないのです。それは、私たちを「この悪の世」から救い出すため、すなわち、私たちがこの世界を神の世界として、生きるようにするためなのです。
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by aslan-simba | 2013-04-11 20:21 | Comments(0)

回顧と展望の時

 満開の桜、よい気候になりました。家の周りには、近所の小学生たちのにぎやかな声が響き渡っています。子どもたちは、入学や進級を前にした自由な時を満喫しているのでしょう。サッカー、野球、かくれんぼと忙しそうです。 
 思えば、子どもの頃、私も春休みはよく遊びました。また興味ある本も沢山読みました。学校の長期休暇の中では、春休みが一番エンジョイできたように思います。それは、夏休みや冬休みとは違い、学校の宿題がなかったこと。そして日に日に明るくなり、自然が甦る気持ちの良い季節だったのが大きな理由でした。(今のように花粉を気にすることもなければ、もちろん「黄砂」や「PM2.5」の飛来といった迷惑な話もありませんでした)。
 大人になってからのこの時期は、年度変わりのあわただしさに、もっぱら振り回されていた時代もありましたが、いつしか静かな祈りをもって過ごす「自由な回顧と展望の時」となりました。それは、祈りつつ、自分のこれまでの歩みを振り返り、これからの進む道について思いを馳せる時ということです。だからと言って、何か新しいことを始めようというのではありません。今までの神さまのお守りに、ただただ感謝し、これから先の歩みの上に、益々の導きと祝福を祈る時なのです。例えていえば、山登りをしていて、ちょうど山の中腹の見晴らしの良い地点にたどり着き、そこで一息つくといった感覚でしょうか。 
 こんな聖句が示されます。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼は昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(出エジプト13:21―22)、と。本当にそうです。これからも、いつまでもどこまでも、主が共に在り導いて下さいます。「進むべき道は拓かれる。安んじて、ひたすら主を信頼して歩め」・・・そんな御声が心の中に響く、四月第一週の昼下がりです。


☆4月7日説教「宝の器」要約:
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(コリント二4:6-7)
 かつて創造の初めに、「光あれ」と命じられた神さまが、今、私たちの心にも「光あれ」と言われ、キリストを信じる「信仰の光」を下さいました。この光こそが、大いなる「宝」なのです。そして、この宝が私たち自身と、この世界を救うのです。
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by aslan-simba | 2013-04-02 18:58 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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