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2013年復活祭

☆復活祭(イースター)おめでとうございます。満開の桜の下、この喜びの日を迎えることができ、感謝します。桃山栄光教会では次のようにイースターをお祝い致します。お気軽に是非、ご来会下さいますように。

 3月31日(日)午前10:30~11:20 イースター礼拝
         午前11:30~午後1:00 イースター祝会(食事会)

☆最初のイースターの朝の出来事です。イエスの墓に出向いた女性たちが、空の墓に当惑し途方に暮れていると、天使の声を聞きます。 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5-6)・・・。 
 私たちは、今生きて私たちを守り導かれる、復活の主イエス・キリストではなく、生命のない人間イエスを求めてはいないでしょうか。そのような力ない信仰に止まるのではなく、そこから立ち上がって、復活信仰に立つ者となりたく願います。 
 あの朝、生ける復活の主に出会った女性たちの感動について、福音書は次のように記します。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(マタイ28:8―9)。 
 この世の生活には、本当に神はいるのだろうか、と思わされるような矛盾や悲しみ、暗さや憂いは今なおあります。しかし復活の主は現在ここに、聖霊として、私たちに先立ち、行く手に立って、導きを与えて下さっているのです。 
 復活の主は言われます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ28:10)と。復活の福音を自分たちだけのものにせず、兄弟姉妹と分かち合うために、この音信を告げる最初の証人として、この女性たちが遣わされました。 
 私たちも、彼女たちと大きな喜びを共にし、希望をもって立ち上がり、遣わされて行こうではありませんか。Happy Easter !

☆イースター礼拝説教「復活を信じる」要約:
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(マルコによる福音書16:7)。
 イエス様は、墓の中にはおられません。既に新しく始まった新しい時の中におられるのです。もう先に歩いて行かれ、そして、そこで私たちを待っていて下さるのです。
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by aslan-simba | 2013-03-30 07:56 | Comments(0)

主に祈られ

 寒さもゆるみ、春の到来を感じるこの頃だが、いましばらくレント(受難節)の日は続く。このレントの後半から受難週にかけての時期、主イエスのエルサレム入城から開始される「受難物語」を読み、思いを十字架に集中させている。そして、新たな気づきと、厳しい現実を乗り越えて行くための、さらなる勇気を頂いている。 
 今朝はルカ福音書から聴いた。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。最後の晩餐の席上で、主がペトロに言われた言葉として記されている。あわせて、ペトロが三度に渡って主を否認することも、その文脈で予告されている(34節)。十字架を目前に、離反して行くこの筆頭弟子の今後を知りつつも、なお、その者のために心を込めて祈られ、励まされた主イエスが言われる。「あなたのために祈った」と。何と深く、また何と重い言葉ではないだろうか・・・。私たちの赦しのためにご受難を受けられた主、まさにその十字架の重みのある言葉ではないだろうか。自分に向けられた御言葉として、これを聴くときに、本当に熱いものが込み上げてくるのである。そう、私たち一人一人も、ペトロと同様に、今、主から祈られ、励まされていることを示されるのである。本当に有難いことだ。
 なおその後の、ペトロの手紙にも、このように記されている。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです」(ペトロ一5:7)。主に祈られている自分、神が心をかけて下さっている自分たち・・・・どうか、このことをしっかり銘記して、明日に向かって勇気と希望とをもって歩み出そう。御旨に応えるためにも・・・


☆3月24日説教「十字架の主」要約:
「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』、これは、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですかという意味である」(マルコ1による福音書5:34)、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤの信徒への手紙3:13)。
 十字架のキリストは私たちに代わり、神から見捨てられた。そのことのゆえに、私たちは決して、神から見捨てられないのです。この先、どんなに辛いことがあっても、苦しいこと、悲しいことがあっても、 神さまから見捨てられていない、神に愛され、赦され、救われている。私たちは、その「事実」を信じて、生きて行けるのです。御国への旅路を雄々しく歩めるのです。
感謝。
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by aslan-simba | 2013-03-21 17:55 | Comments(0)

おはぎの日

 レント(受難節)も後半に入った。三月も半ば、寒さも和らぎ、春の足音が確かに聞こえている。時折、ウグイスの声も耳にする。そろそろお彼岸の季節。お墓参りを考える人は多いと思うが、子供の頃、私にとっての「お彼岸」は、「おはぎ」の日だった。「おはぎ」は秋のお彼岸で、春彼岸には「ぼたもち」を食べる。そんなことを聞いたこともあるが、私の育った頃の東京では、春も秋もおはぎだったのである。 
 ところで、この「お彼岸」の「彼岸」という言葉だが、辞書によると「生死の迷いを河・海にたとえた、その向こう岸。悟りの境地。これに対比されるのが此岸(しがん)」とある。その「彼岸」の意味するところを、ある仏教者がこう述べていた。「本来、悩み、悲しみ、苦しみのない世界が彼岸。これは何もご先祖様や、亡なった人たちだけが行く場ではない。今の自分たちも命を輝かして生きる時、その場が彼岸となり、毎日が彼岸となる」と・・・ならば「彼岸」は、主イエスが「実に、あなたがたの間にあるのだ」と言われた「神の国」(ルカ17:21参照)の意味と重なるのではないだろうか。本当に興味深いところだ。 
 ともあれ、春彼岸は「春分の日」、秋は「秋分の日」を中心に行なわれる。なお、その「春分の日」とは、国の法律で「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」(祝日法第二条)と定められている。つまり「命の尊さを思う日」ということだろう。 
 思えば、このレントの時に、その「お彼岸」や「春分の日」のことも心に刻みながら、この命を真に生かすための十字架を憶えることがゆるされている。それは、この日本の地に生きる者の恵みかも知れない。有難いことである。そして、おはぎを頂けることも・・・。


☆3月17日説教「永遠の拠り所」要約:
「あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました・・・それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった」(ヨハネによる福音書17:12、18:9)
「失われない」とは「滅びない」ということ。それは、永遠の救いから洩れないという意味である。つまり、「主イエスの御手から失われない」ことは、たとえこの世の命が奪われようとも、なお確かな「永遠の命」が約束されているということなのである。
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by aslan-simba | 2013-03-15 07:50 | Comments(0)

春陽の期近し

 久しぶりに宇治川沿いの堤防まで出かけて、土手道を少しばかり歩いてみた。

 90年代末から2000年代の初め、この教会の近隣に住んでいた頃、この道が私にとっての「哲学の道」、いや「神学の道」だった。何か問題を抱えた時、説教の準備や論文作成に行き詰まった時、必ずと言ってよいほど一人でここを歩いた。さらには土手をおりて、整備されていない河川敷の藪を歩いたり、対岸の街を見つめながら、もの思いにふけったこともあった. あの頃の、あの懐かしい光景が、思い出と共に鮮明に甦ってくる。ただ不思議なことに、ここで人と出会った記憶はない。景色の中にあるのは、いつも自分だけだった。それだけ自らの内面を見つめる時が持てたという事だろうか・・・。

 あれから十年ほど後の今日もそうだった。誰もいない三月の初めの土手道、風はなお冷たく寒さは身にしみた。思えば未だレント(受難節)の時期・・・しかし、日差しは確かに春を告げていた。ふと以前知った「冬来りなば 春遠からじ」の原詩が脳裏をかすめた。If Winter comes, can Spring be far behind?・・・と。永久に続く冬はないのだ。

 今、人生の冬に遭遇している友に、光輝く復活の春が間近なことを告げたい。あわせてこんな詩の言葉もおくりたい。

  春の枝に花あり
  夏の枝に葉あり
  秋の枝に果あり
  冬の枝に慰あり

  花散りて後に
  葉落ちて後に
  果失せて後に
  芽は枝に顕はる

  嗚呼憂に沈むものよ
  嗚呼不幸をかこつものよ
  嗚呼希望の失せしものよ
  春陽の期近し

  春の枝に花あり
  夏の枝に葉あり
  秋の枝に果あり
  冬の枝に慰あり
  (寒中の木の芽 内村鑑三)

 そして、このことも忘れないで欲しい。余寒と孤独の傍らにおいても、キリストが共にいて下さることを・・・。



☆3月10日説教「十字架を負って」要約:
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコによる福音書8:34)
 十字架を負うということは、充実感や達成感などとは縁のない労苦です。しかし主は私たちに、そのような十字架を担ってこそ、「我に従え」と言われるのです。十字架を負う・・・それは人間のことだけを思っていてはできません。神さまを真剣に思い、主イエスの復活、そして私たち自身の甦りを信じない限りはできないのです。私たちの信仰が問われます。


☆東日本大震災を心に刻んで
3.11の時がめぐってまいります・・・
 被災された方々が今も抱える重い十字架を、このレントの時にあらためて覚えます。
 また召された方々、なおも行方不明となっている方々に思いを寄せます。
 主よ、確かな希望と平安、復活の力をお与えください。東北の上に、祖国・日本の上に、わたしたち一人一人の上に。
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by aslan-simba | 2013-03-06 07:28 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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