★桃山栄光教会では元旦祈祷会を行います。
2013年(平成25年)1月1日(火)10:30~11:30
牧師メッセージ「シメオンの賛歌」
祈りから始まる一年、きっと良い年になります。
どなたさまもご自由にお出かけ下さい。
皆さま方の上に、神さまの御恵みが豊かにありますように。
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by aslan-simba | 2012-12-31 11:15 | Comments(0)

お正月

今年も余すところあとわずか。ふと幼い頃、近所のおばさんたちが路上で「泣いても笑っても、もう今年も終わりね・・・」と語り合っているのを耳にし、素朴な疑問を感じたのを思い出した。「これから嬉しいお正月が来るのに、何で『泣いて』なのだろうか・・・」と。五十年ほど前の、ちょうど今頃だ。 当時、お正月が本当に楽しみだった。年の瀬は冬休みの宿題のかたわら、せっせと家の手伝いもした。「もういくつ寝るとお正月」と歌いながら。昭和三十年代の頃は、一般の家庭でも正月仕度に随分と手間ひまをかけていた。障子や襖を張り替え、小さな家の隅から隅まで雑巾がけしたものだ。父は大工道具を手にせわしなく動きまわり、母はおせちづくりに余念がなかった。  そして迎えた新年の朝、外にでてみると、そこに新鮮な世界が広がっていた・・・。 家々の門や玄関口に置かれた門松や玉飾が神々しい。見上げれば、明るい元旦の空の下、日章旗が静かにはためいている。不思議な静寂の空間に自分がいるように思えた。唯一にぎやかな歓声が響き渡るのは、街はずれの広場。そこで凧揚げや駒をまわしていた友達たちが、一緒に遊ぼうと声をかけてくる。心高ぶりワクワクしながら仲間に加わった。 美しく新しくなった町並み。そして自分たち自身も新たに成長したと信じていた。 大人になってから、そのような正月の感慨が、いつのまにか薄れていった。また、街の光景もいつしか年末年始の差がなくなってしまった。時代の流れだろう。しかし今年は、あの頃にも勝るような大きな夢と希望をもって、お正月を迎えてみたい。新たな年が、「心の底から笑える一年」となることを確信して。今日、こんな御言葉が与えられた。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか・・・」(イザヤ書43:19)。


☆12月30日説教「喜びあふれ」要約:
「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイによる福音書2:2)
マタイは東方の博士たちがメシアを求め、遠路はるばる旅した物語を語る。彼らは遂にベツレヘムの馬小屋で飼い葉桶にねむるメシア(キリスト)に出会い、「喜び溢れる」(10)のである。 私たちも、彼らと同じ喜びに溢れるため、真摯に礼拝に集いたい。ただひたすらキリストにまみえることを願い、キリストの祝福を求めて、祈りを共にしよう。そのとき、大きな喜びの内にある自分に、確かに気づくはずだ。


★桃山栄光教会では元旦祈祷会を行います。
2013年1月1日(火)10:30~奨励「シメオンの賛歌」
共々に幸多き一年となるよう、祈りを共にしましょう。
どなたさまも自由にお出かけ下さい。
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by aslan-simba | 2012-12-26 09:27 | Comments(0)

2012年クリスマス

今年一年の歩みをふりかえり、また新たな年へ希望の一歩を踏み出すにあたり、ヨハネの御言葉を頂きました。「言(ロゴス)は肉(サルクス)となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)・・・「神は人となった」という事ですが、ヨハネは「人」とせずに、「肉」と表現しました。宗教改革者カルヴァンはこういいます。「聖書が人間についてさげすんで語るとき、それを肉と呼ぶ。神の御子は多くの悲惨へと定められているその肉を身に受け取るほどに、ご自身を低められたのだ」と。そうです。神は身を挺してまで、私共を救おうと心砕いて下さったのです。ただただ勿体ないという思いが致します。何という憐れみ、何と大きな愛でしょうか・・・。「わたしたちは皆、この方のみちあふれる豊さの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(1:16)。私たちは今、この御恵みに与ったのです。その大きな御手の中にあるのです。だから恐れることはありません。今悲しんでいる者は慰めを受けます。キリストと共に歩む者は、揺るがぬ平安を受けるでしょう。涙をもって種をまくものは、必ず喜びをもって刈り取るのです。それが主を信じる私共の人生の歩みです。
Merry Christmas!


★クリスマスリスマスのご案内:
12月23日(日)午前10:30~11:30 クリスマス礼拝
          午後12:00~1:30 クリスマスのお祝い会。
12月24日(振り替え休日)クリスマス・イブ
          午後7:00~8:00 キャンドル・サービス
どうぞ、桃山栄光教会にお立ち寄りください。きっと良いことがあると思います。
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by aslan-simba | 2012-12-21 16:48 | Comments(0)

キリストの愛に触れよう

木々もすっかり葉を落とした冬枯れの季節の街、寒風が身を刺す。ふと、洗礼者ヨハネの言葉を思い起こした。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」(ルカ3:4―6)と。 そうだ!頭を高くあげよう。私たちの抱える「現実」の「荒れ野」に、よろこびと救いを告げる叫びが、今、高らかに響き渡っているからだ。「人生の荒れ野」には道が敷かれて、険しい谷はならされ、山と丘は低くされる。そして、主が来られる。そこに限りない憐れみが、救いを求める私たちに向かって、大きくひらかれるのである。主の思い、神の愛、キリストの愛の炎は、煌々と輝いている。この愛の炎に、しっかりと触れ、それに熱く燃やされながら、キリストを待ち望もうではないか。瞬きの詩人・水野源三さんはこう詠っている。「キリストのみ愛に触れたその時に キリストのみ愛に触れたその時に 私の心は変わりました 憎しみも恨みも 霧のように消えさりました  キリストのみ愛に触れたその時に キリストのみ愛に触れたその時に 私の心は変わりました 悲しみも不安も 霧のように消えさりました  キリストのみ愛に触れたその時に キリストのみ愛に触れたその時に 私の心は変わりました 喜びと希望の 朝の光がさして来ました」(水野源三)・・・キリストの愛に触れられる。だから夜がどんなに暗くとも、そこに喜びと希望の明るい朝の光が照らす。主がまた来られる。だからどこまでも希望がある。クリスマスを待つ私たちに預言者は告げる。「わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る」(マラキ3:20)・・・。


☆12月16日説教「聖霊の火」要約:
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません」(テサロニケの信徒への手紙一5:16-19)
「天の父」なる神さまが、子供たちである私たちに望まれるのは、いつも「喜び、祈り、感謝」に生きることです。そのために、神さまの霊は、私たちのただ中に働いておられるのです。共々にこの聖霊の注ぎを豊かに受けて、神さまの大いなる御業に与って歩もうでありませんか。そのために、私たちは教会へと導かれているのです。

★桃山栄光教会のご案内:
私共の教会は毎週日曜日午前10:30~礼拝を、水曜日午後2:30より~聖書を学び・祈る会を行っています。是非、お気軽にお出かけ下さい。お待ち申し上げております。
12月のクリスマス特別集会は次の通りです。
12月23日(日)午前10:30~11:30 クリスマス礼拝
          午後12:00~1:30 クリスマスのお祝い会。ネパール料理の予定です。
12月24日(振り替え休日)クリスマス・イブ
          午後7:00~8:00 キャンドル・サービス
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by aslan-simba | 2012-12-13 22:13 | Comments(0)

落葉の輝き

師走に入り、何かと気忙しい日々。今日、JR新田駅前のいちょうの木が、見事に色づいた葉を落としていた。宇治百選の名木のひとつ、樹齢180年を越える大木の、その姿は金色に輝き、まさに壮観の一言に尽きる。思わず足を止め、しばし見入ってしまった。また足下は一面、黄色いじゅうたんを敷き詰めたようだった。柔らかな日差しを浴びた落ち葉は黄金色の光を放ちつつ、時折、冬の風に舞っていた。 オーストリアの詩人リルケの「秋」という詩が脳裏を走る。「木の葉が散る,遠くからのように散り落ちる 空で遥かな庭園がすがれてでもいくかのように 否む身振りで 木の葉が落ちる そして夜には 重い地球の大地が落ちる すべての星から離れて 孤独の中へわたしたち みなが落ちる この手が落ちる そして他の人びとを見よ 万物に落下がある そのとおりだが 一人(ひとり)の方(かた)がいらして この落下を限りなくやさしく 両の手に受けとめる」(小塩節訳)と。 人生の季節の大団円を迎えるとき、私たちも、あのいちょうの木の葉のように美しい色に輝き、落ちて行きたい。・・・それを受け止め、支えて下さる神さまの御手があるからだ。クリスマスはまさにその象徴でもある。私たちを受け止めて下さるキリストが、おいでになるのである。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」(コリント一1:8)・・・この主の愛の御手の内にしっかり止まって、共々にこの先も御国への道を、希望をもって歩んで行こう。


☆12月9日説教「恵みの到来」要約:
「イエスは聖書を朗読しようとお立ちになった。『主の霊がわたしの上におられる。・・・主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、・・・主の恵みの年を告げるためである』・・・そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。』と話し始められた」
(ルカによる福音書4:18-21参照)
 主イエスはメシア(原語で「油を注がれた者」)として、「主の恵みの年」の到来を宣言するために来られ、言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。

★桃山栄光教会のご案内:
私共の教会は毎週日曜日午前10:30~礼拝を、水曜日午後2:30より~聖書を学び・祈る会を行っています。是非お出かけ下さい。アットホームな教会です。お待ち申し上げております。
12月の特別集会は次の通りです。
12月23日(日)午前10:30~11:30 クリスマス礼拝
          午後12:00~1:30 クリスマスのお祝い会。ネパール料理の予定です。
12月24日(振り替え休日)クリスマス・イブ
          午後7:00~8:00 キャンドル・サービス
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by aslan-simba | 2012-12-06 21:29 | Comments(0)

ベツレヘムの星

12月2日の桃山栄光教会で行われたフルート・コンサートで、大体次のような内容のお話をさせて頂きました。

 毎年、このコンサートでは、何かお話をすることになっています。今年は「クリスマスツリーの一番上の星は何」でした。何でしょうか・・・まあクリスマスツリーと言うのですから、イエス・キリストの誕生と関わっているはずです。
 聖書が伝える、このイエス・キリストの誕生の物語は、歴史的事実と超自然的出来事とが重なって描かれています。決して、単なるファンタジーの世界ではありません。ならば、その歴史的事実がわかるのはどこでしょうか。たとえば、聖書に「イエスは、ヘロデ王の時代、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書いてあります。このヘロデ王というユダヤの王様は歴史上の人物ですから、いつ、どこで、イエスさまがお生まれになったか、これでわかります。
 もう一つの超自然的出来事のひとつとして・・・これがお題の星と関わっているのですが・・・イエスさまがお生まれになったユダヤの国から遠く離れた東方の国の学者、いわゆる博士さんたちが空に輝くその不思議な星を見て、そこからメッセージを受けたということでした。この星は長い間、ひときわ明るく輝く大きな星だったと、聖書以外の古代文献にも記録があります。
 今でも、この星が何だったかと、話題になることがあります。もしご興味ある方があれば、インターネットで「クリスマスの星」あるいは「クリスマスツリーの星」などで検索できます。富山市科学博物館のホームページとかナショナル・ジオグラフィック・マガジンのニュースなど読んでみると面白いですよ。そういった記事を通して、よく言われるのは、紀元前7年に起こった木星と土星の大接近の出来事です。ちなみに、うお座の中で木星と土星が大接近すると不思議な光を放つそうです。
 それを、東の国の博士さんたちが見たのです。当時の天文学の学者は、星占いの先生でもありましたが、その星を見てピンと来たのです。何を分かったのか。・・・星占いの世界では、木星は世界の支配者の星で、土星はユダヤの星、でうお座は終末の時代、終わりの時代を意味するので、「この大接近はユダヤに終末時代の世界の支配者、救い主、メシアが登場を知らせている」と。そこで、その星を見た彼らは、その星に導かれ、世界の救い主、メシアを探しにユダヤの国にやって来ました。この星がひときわ大きく輝き。それが、動いて博士たちを導いてくれたのです。さて彼らがユダヤの国で最初に訪ねたのはヘロデ王の宮殿のあるエルサレムでした。しかし、そこには救い主はいませんでした。
 星はさらに動きます。博士さんたちが、やっとたどり着いたのは、ベツレヘムという古い町の郊外・・・聖書はそこのところをこう記しています。「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。どうでしょう。彼らがついに辿りついた、貧しい小さな家、しかもその馬小屋の中だったのです。そこに見たのは母マリア、夫ヨセフの下で、飼い葉桶に寝かされていた赤ん坊でした。しかし彼らはこの方こそ探していた救い主だと信じて喜びに溢れ、礼拝したのです。不思議な星に導かれてベツレヘムの地で幼子メシアを見つけた。だからこの星のことをベツレヘムの星とも言います。
 まあこんな風に、ベツレヘムの星はクリスマスに生まれた救い主イエス・キリストを指さしたのです。またベツレヘムの星はそれと同時に、象徴的な意味で、キリストそのものだという人もいます。これは特に強調しておきたいのですが、イエス・キリストは、この世界の闇、私たちの心の闇を明るく照らし、人生を照らし出す確かな光です。暗闇の中に輝き、ひとすじの道を示す明るく輝く星なのです。私自身、そう確信して、お話させて頂いています。
 というわけで、ベツレヘムの星に導かれて、人生の暗闇に輝くキリストという星に出会った。どうでしょう。日本にも信州の民話から出た「牛にひかれて善光寺まいり」の話がありますが、「星にひかれてキリストまいり」というのも、なかなかよい話ではないでしょうか。
最後に、このベツレヘムの星にまつわって、牧師で神学者の松田明三郎(まつだあけみろう)さんの書いた 「星を動かす少女」という散文詩を紹介し、お題にまつわる話を締めさせて頂きます。
「クリスマスのページェントで、日曜学校の上級生たちは、三人の博士・羊飼い・マリヤ・ヨセフなどそれぞれ人の目につく役をふりあてられたが、一人の少女は誰もみていない舞台の背後にかくれて星を動かす役があたった。『お母さん、私は今夜、星を動かすの。見ていて頂戴ね』。その夜、会堂に満ちた会衆は、ベツレヘムの星を動かしたものが誰であるか気づかなかったけれど、彼女の母だけは知っていた。そこに少女のよろこびがあった」。
 ベツレヘムの星の物語は、この少女の喜びの大切さをも、私たちに教えてくれている。そんな思いも致します。
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by aslan-simba | 2012-12-04 21:56 | Comments(0)

光あれ・・・


「初めに言があった」(ヨハネ1:1)、アドヴェント(待降節)やクリスマスの時期に読まれる聖句です。これは旧約聖書の「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)と対応しています。次に、神が「光あれ」と言われて、天地創造の御業が始まるのです。実はこの壮大な創造物語が記されたのは、紀元前六世紀でした。当時、イスラエルの人々は近隣の大国バビロニアに領土を奪われ、捕囚されるという大変な危機に遭遇していたのです。だからこそ、混沌の闇を切り拓く「光あれ」という神さまの御言葉が深く心に響いたのでしょう。現実の絶望的状況を打ち破り、救いの光が射し込んで来ることを、彼らは確かに信じました・・・。 しかし、イエス・キリストご降誕の紀元一世紀頃のユダヤも、なお「闇」のなかにありました。聖書の人々はローマ帝国という強大な国の統治の下にむなしく置かれていたのです。 もっとも「闇」は、聖書を担った民の、そのような過去の歴史状況を指すだけではありません。この21世紀の不安な世界、そこに生きる私たち一人一人をも、覆っているのではないでしょうか。ただ、ヨハネは私たちに告げています。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と。「光あれ」と語られた神さまは、争い、悩み、悲しみ、苦しみを抱え、「闇」の中に絡めとられそうになる私たちを、どこまで憐れんで下さるのです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1:3)・・・神はキリストの「いのちの光」をここに新たに下さいます。御子イエスの誕生こそが、まさにその徴(しるし)なのです。今年のクリスマス、喜びと感謝をもって、キリストを自らの内にお迎えしようではありませんか。


☆12月2日説教「忍耐」要約:
「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」(ヤコブの手紙5:11)
神は最後にヨブの経済的繁栄を回復された。しかしヨブにとって、より重要だったのは、真に神と出会えた事だった。その思いはヨブ自身の神への言葉に、こう表現されている。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:5‐6)と・・・
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by aslan-simba | 2012-12-01 10:27 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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