主よ、ともに宿りませ

冬の到来、日の短さに寂しささえ感じます。ふと、こんな讃美歌が口をつきました。「日暮れて 四方(よも)は暗く 我が霊(たま)は いと寂し 寄る辺(べ)なき 身の頼る 主よ、ともに宿りませ」・・・(讃美歌39番、1節)。この原曲(Abide with me)の作詞者は、ヘンリー・ライトという英国教会の司祭です。19世紀前半、彼はイングランド西北のブリックハムという漁村の小さな教会に牧師として仕えました。ただ生来病気がちの人で、喘息と気管支炎には終始苦しんだそうです。二十数年の働きの後に、彼は転地療養のため、その漁村を離れることになりました。最後の説教は、はうようにして説教壇をのぼったといいます。この讃美歌はその直後に書き上げられました。それから三週間ほど後、療養先のフランスのニースで、彼は54年の生涯を閉じます。亡くなる直前に、天を指さし、「平安(peace)」、「喜び(joy)」と静かにささやいて召されて行ったとのことです。命日は11月20日。季節感としたら、ちょうど今頃の感覚でしょうか。 「人生(いのち)の 暮れ近づき 世の色香 移り行く とこしえに 変わらざる 主よ、ともに宿りませ」(2節)。いみじくも今日、こんな光景を目にしました。先週、鮮やかな紅(くれない)と黄金色の燃えるように美しい色を呈していたキャンパスの坂道の木々・・・それが、茶色く変色し、静かな音を立てて葉を落としている。来週にはみんな散っているかも知れません。まさに諸行無常・・・。しかし、その時に私たちは新たな教会暦に入るのです。アドヴェント、そしてクリスマス、新たな命の希望を待つ季節の訪れです。本来なら散り果てて行くしかない者に、永遠の命が与えられたことがそこに示されます。だから、私たちは如何なる時も「平安」と「喜び」をもって歩んで行けるのです。 讃美歌39番、原詩の最後はこうなっていました。「生きる時も、死ぬ時も、主よ、常に私と共に在って下さい」(in    life, in death, O Lord, abide with me.)と。感謝


☆11月25日説教「計らい」要約:
「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。・・・」(ヘブライ人への手紙11:23)
モーセが生を受けたのは、ヘブライ人がエジプトで奴隷の地位へとおとしめられた苦難の時代でした。しかし、悲しみと嘆きに満ちたその「最悪の時」こそが、実はモーセが未来に備えるために、神が選ばれた「最善の時」だったのです。悪をも善に変えて下さる神さまの大きな「計らい」が絶えずある・・・私たちもそれを覚え、如何なる時も「信仰によって」未来を見つめて歩んで行きましょう。
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by aslan-simba | 2012-11-22 21:25 | Comments(0)

追悼の月

暦の上では既に冬、朝晩と昼間の寒暖の差が大きく感じられます。風邪などひかれませんようお祈りします。 さて、11月は死者追悼の月。いみじくもこの時期、喪中ハガキが届き始めます。そこであらためて厳粛な事実に気づかされるのです。人はいつか身近な者たちを天に送らねばならないということを・・・。また、亡くなった方々に思いを馳せる時、そこに思慕の念と同時に、後悔の思いも抱かされるのではないでしょうか。「あの時、ああしてあげればよかった・・・」と。 ノーマ・マレックという女性が、十歳のわが子を亡くした時に詠んだ「最後だとわかっていたなら」(原題Tomorrow Never Comes) という詩があります。「あなたが眠りにつくのを見るのが 最後だとわかっていたら わたしは もっとちゃんとカバーをかけて 神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう・・・あなたは言わなくても 分かってくれていたかもしれないけれど 最後だとわかっていたなら 一言だけでもいい 『あなたを愛してる』と わたしは 伝えただろう・・・」(長い詩なので、そのほんの一部を抜粋しました)。この詩は2001年の9.11同時多発テロの折に、アメリカ国内で巾広く知られるようになり、多くの人々がその言葉に慰められたと聞きます。ちなみにマレックは、八年前に64歳で他界しています。人は自らもやがては死を迎えねばならないのです。 ただ、私たちは御国の約束を知っています。召された死者たちは今、神共にあって、私たちを天上から見守ってくれているのです(ヘブライ12:1参照)。そんな彼らと御前において再会できる日が、いつか来ることを心に留めておきたいものです。 今日、不思議な経験をしました。学校のキャンパスから駅までの坂道の色づいた木々を見上げながら歩いていた時、懐かしい犬のなき声が耳元に響いた・・・ような気がしたのです。そうだ。三年前まで我が家にいたアスランという名の犬が天に帰って行ったのも、死者を覚えるちょうどこの月のことでした。

☆11月18日説教「憐れみ」要約:
「主はこの母親を見て、憐れに思い・・・」(ルカよる福音書7: 13)
「憐れに思い」・・・神さまは私たちと共に在って苦しみ、悲しんで下さる。私の心が張り裂けそうになる時、神の御心も張り裂けんばかりに苦悩される。そのようにして、神は私たちをどこまでも憐れんで下さるのです。この神の憐れみは、私たちを完全に救うまで止みません。私たちの罪の一切を赦し、すべてを回復し、すべてを新しくし、私たちの目から涙を完全にぬぐい取ってくださるまで・・・

★11月18日(日)は礼拝後12:00からバザーを行います。是非、お越しください。礼拝は10:30~です。
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by aslan-simba | 2012-11-17 10:25 | Comments(0)

Church Bazzaar

11月18日(日) 正午~午後2時 <桃山栄光教会バザー>を行います。是非、お立ち寄り下さい。
現状は小さな教会ですので、規模はミニバザーということになりますが・・・・。もっとも、今は小さくとも、大きな希望に溢れる教会です。出来れば午前10:30からの礼拝もご一緒しませんか。お気軽にどうぞ。お待ち申しあげております。
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by aslan-simba | 2012-11-11 17:05 | Comments(0)

枯れ野に花咲く

朝夕はめっきり冷え込む季節となった。立冬の朝、何気なく手にした書物に芭蕉の句が載っていた。「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」(旅の途上で病床に伏していると、これから行く先の枯野のさまを夢にまでみる)。大阪で病死する彼の最後の句、元禄7年の旧暦10月の作という。詠まれた時節としては、新暦なら今頃のことだろう。ただ病のゆえか、そこに登場するのは美しい紅葉の姿でも、菊の香りでも、豊潤な実りでもなく、枯れ野である。この句から浮かんでくるのは、鉛色の空とすべてがついえ、生気を失った枯れた原野の風景だけ・・・それが、最後の行き先だと考えると、何とはなしに寂しい思いになる。しかし、そこにこそ、風雅と高尚を求めて歩んだ「孤高の旅」の帰結があったのだろう。「わび」「さび」の真骨頂ということかもしれない。思えば、芭蕉には「野ざらしを 心に風の しむ身かな」(行き倒れになって白骨を野辺に晒す覚悟をしての旅だが、風の冷たさがこたえるこの身である)という旅立ちの句があったではないか・・・などと素人考えを頭の中出色々と巡らせてみる。 ところで 「孤高の旅」といえば、聖書にはそのような旅人が数多く登場している。ヘブライ書は旧約の信仰者たちの姿を「彼等はみな信仰を懷きて死にたり、未だ約束の物を受けざりしが、遙にこれを見て迎へ、地にては旅人また寓(やど)れる者なるを言ひあらはせり」(11:13文語訳)と語る。そして、その行き先を「天の故郷」(16節)という。つまり「人生とは神のみもとへと赴く旅」なのである。勿論、私たちの人生もそうである。ならば、旅の途上出会う困難や苦痛も、いつかは良き思い出に変わるはずだ。 以前、芭蕉のことを「蛙、ホタル、カラスの日常の様子を詩にできた彼ほどの詩人は、欧米にはいない」と、ある米国人学者が評していたのを思い出す。身の回りの自然の中に風雅を見る、このような日本的感性も大事にしながら、我が信仰の人生の旅路を歩き続けたいものだ。その時、人生の「荒れ野に花咲く」(イザヤ35章参照)。芭蕉の「枯れ野」の夢の先にも、この希望があったのかも知れない・・・


☆11月11日説教「信ぜよ」要約:
「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコによる福音書
5:36)
主イエスの御言葉は何を意味しているでしょうか。それは、人間の目にどれほどの絶望が見えたとしても、万事休すということではない。なおそこに「信じる」という選択肢が残されている、ということなのです。聖書箇所はキリストの蘇生の奇跡を伝えています。主があえて奇跡を起こされた時、そこには大切なメッセージがあります。それは私たちがキリストと共にあるなら、死さえも終わりではないということ、絶望ではないということなのです。
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by aslan-simba | 2012-11-08 22:21 | Comments(0)

急に寒くなった。つい先日までは夏の延長のような気でいたが、そろそろ冬支度の時期だ。カレンダーはもう11月・・・待降節から始まった教会暦では、一年のサイクルの最後を迎えている。あらためて時の流れの早さを覚える。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ 消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(方丈記)と。 「時」・・・地球が一回自転をすると一日、新月から次の新月までが一カ月、地球が太陽の周りを一周して一年・・・私たちはその時の中に生きているのである。 古代ギリシア人は、この時の流れを死と結びつけ、毎日子供を産んでは、次々にその子供を食べて行く怪物クロノスの姿でイメージした。日々、新たな時が出ては次々に亡くなって行く・・・つまり、生まれる事は滅びる事、有から無への流れこそが、クロノスのありようなのである。 また、ギリシア語には時を量的に測るこのクロノスと共に、もう一つの時を示すカイロスという言葉もある。それは「質的な時」・・・時計ではかるような量的時間を超える時、つまり人生における特別な時間を意味するのである。すなわち、かけがえのない貴重な体験に与る時・・・私たちにとってそれは、神が共に下さることを具体的に示す「神の時」と述べて良いだろう。 私たちは、やがてはクロノスの量的時間の流れの中、諸行無常の理どおりに死んで行く。夏の日に輝いた若葉が深まりゆく秋に紅葉し、散り行くように。しかし、それは永遠の命に入るというカイロスの時なのである。教会暦で、この11月は「終末節」、「死者の月」とも言うが、それは間違いなく希望の月、完成の月であり、「神の時」への感謝を示すのである。


☆11月4日聖徒の日説教「天への備え」要約:
「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ人への手紙4:10‐11)
 聖書がいうシャーローム(平和・平安)とは、神が共にあって、命満ち溢れる状態に生きることです。神は私たちを鍛錬され、シャロームをこの身にもたらして下さいます。そこで私たちは清められ、何が大切であるかを知らされ、神の国への備えに与らせて頂くのです。
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by aslan-simba | 2012-11-01 21:18 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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