<   2012年 10月 ( 4 )   > この月の画像一覧

ハロウィーンと宗教改革

10月31日、ハロウィーン・・・これは、元々はケルト人の一年の終わりのお祭りだった。後にカトリック信仰が彼らの中に入り、すべての聖人を追悼する11月1日「諸聖人の日(All Hallows)」の前夜祭(eve)として、Halloweenと呼ぶようになったそうだ(但し、正式な教会暦の行事ではない)。 10月31日・・・プロテスタント教会暦では宗教改革記念日、世にいう宗教改革の発端の日だ。今から495年前、1517年10月31日の正午頃、ドイツ北部のヴィッテンベルグ城教会に「免罪符」についての神学論議を呼び掛ける「提題」が貼りつけられた。提起したのは司祭で大学教員のマルティン・ルター。翌日の「諸聖人の日」を意識したものだった。免罪符には、実は聖人たちの功徳のおすそ分けの意味が込められている。つまり、それを買うことで聖人の遺徳に与り、死後の煉獄の苦しみから解放されると言われていた。その時代、地獄に行くほどの大罪を犯してはいないが、さほど功徳は積んでいない一般人が死後天国に行くためには、まず煉獄に行き、業火で魂の徹底浄化が図られねばならない、と理解されていたのである。 こんな話もある。ルターが昼間から泥酔し、道端に横たわっていた男に、「そんなことをしていたら御心に適わない。自分が死んだ後のことを考えなさい」と注意すると、呂律の回らない舌で男は「これがあるから、大丈夫・・・」と免罪符を見せたという。ルターが、「こんな男にも御言葉を届かせる努力をしよう」と更なる使命に目覚めた瞬間でもあった(徳善義和『マルティン・ルター』参照)。 というわけで、10月31日はハロウィーンのお化けカボチャ(ジャック・オー・ランタン)やキャンデーだけではなく、謹厳実直なルター博士の顔も思い起こしたい(同日、北ドイツでは、ルターの顔を描いた「ルターキャンディー」を配る教会もあるのだとか)。もちろん宗教改革の大切なメッセージ「人が義とされるのは信仰のみによる」(ローマ3:28・ルター訳)ことも銘記しつつ・・・。


☆10月28日説教「隠された宝」要約:
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13:44)「いのちより大切なもの」、主イエスの言葉によれば、それは「天の国」=「神の国」=「神の支配」のことです。その「神の支配」は畑に隠された「宝」、肉眼では見えません。ただ、そのような現実の只中に「宝」を見出し、見えなかったものが見えるようになり、神の支配があることを知らされる人がいます。そう!それは他ならぬ私たちなのです。私たちはそのように招かれているのです。
[PR]
by aslan-simba | 2012-10-26 07:15 | Comments(0)

人生の年輪

ここかしこに秋の気配が感じられるようになった。外へ出るのが楽しみな季節。京都は本当に四季の美しさに恵まれている。そんなことに感謝しながら、近所の神社の裏道で立ち止まり、うっそうとした木々を見上げた。 あとひと月もしたら、そこに見事な紅葉がみられる。それが葉を落とすと冬が来る。厳しい寒さに耐える木々は来年の春に、また新たな芽をふき、成長し、若葉、青葉の時を迎えて行くのである。 この年ごとのサイクル、しかし、それは単なる繰り返しではない。木々は常に新たな年輪を幹に刻み、成長を続けているのだ。旧約聖書のヨブは語る。「木には望みがある。たとい切れらても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。 たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す」(ヨブ記14:7―9、新改訳)と。さらに「しかし、人間は死ぬと、倒されたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか」と付言する。苦難の只中で語るヨブの思いは熾烈だ。自然の木々と比べ、人の生涯は何と果敢無いものか、と訴える。 ただ、私はそうは思わない。どこまでも「人には大きな望みがある」と述べたい。人も日々の時を積み重ねて、年ごとのサイクルを経ながら、人生の年輪をひとつひとつ心の内に刻んでいる。勿論、順調な時も不遇の時もある。ちょうど木々の年輪の幅が日当たりによって広くなったり、狭くなったりするように。それでも、主イエスが共にあって、人生の年輪を刻ませ、私たちを受け容れて下さっているのである。だから、この一度の人生の四季も大切に思い、感謝をもって更なる年齢を重ねつつ、御国へと向かおうではないか。


☆10月21日説教「真実の神」要約:
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(コリントの信徒への手紙一1:8―9)
真実なる神が、私たちを主イエスとの交わりへ招き入れて下さいました。私たちの内に信仰を下さったのは、「真実なる神」なのです。その御方が、「救い」を必ずや完成して下さいます。私たちに必要なことは、最後までこの御方の真実に寄り頼むこと、そして忍耐強くあることなのです。
[PR]
by aslan-simba | 2012-10-19 07:36 | Comments(0)

一輪の声

「花は黙って咲き 黙って散ってゆく そうして 再び枝に帰らない けれども その一時一處に この世のすべてを托している 一輪の花の声であり 一枝の花の真である 永遠に滅びぬ 生命のよろこびが 悔いなくそこに輝いている」(柴山全慶「花語らず」)。 先週、彼岸花を見た。今年は暑かったせいか、お彼岸の時期より開花が数日遅かった。曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも言われるこの花は、「これを見る者はおのずから悪業を離れるという天界の花」(大辞泉)という。そのように仏教的に意義深いメッセージを携えた花なのだろう。私は例年、赤または白のそのしなやかな姿に、初秋の到来を覚えて来た。今日、この花が秋風に揺られながら、最後の時を迎えていた。「曼珠沙華あっけらかんと道の端」(夏目漱石)・・・いよいよ、本格的な秋になったのである。 道を行けば、コスモスの姿にも出会う。「ポストのそばには赤いコスモスゆれていた」と、むかし流行ったフォークソングがふと口をつく。そして、そこかしこに懐かしい甘い香りが漂よっていることも感じる。金木犀(きんもくせい)だ。普段はあまり意識していなかった家々の庭先の木々に今、オレンジ色の小花のかたまりがつき始めている。 これら、うるわしい秋の花々、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」(マタイ6:29-30)という主の御言葉が心にしみる。そこに確かに「一輪の声」、「一枝の真」が示されている。さらに、それを通して「永遠のいのち」への招きの御声を聞くのは、この季節のゆえだろうか。有難いことである。


☆10月14日説教「賢いおとめ」要約:
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」(マタイによる福音書25:1)
主イエスは「結婚の祝宴」を譬えとして、私たちの未来を語られます。「あなたがたの未来には大きな喜びがあるのだ」と。 ただ、その喜びに与るか、与らないかは、私たちの過去によって決まるのではありません。これからどのように生きていくのかによって決定されるのです。主はそれを、「賢いおとめ」として花婿を待つのか、それとも「愚かなおとめ」になってしまうのかと比喩をもって問われます・・・どうぞご安心下さい。私たちは賢く生きるよう招かれています。
[PR]
by aslan-simba | 2012-10-12 07:42 | Comments(0)

いつも神在月

秋、十月。伝説によるとこの月は、日本中の神々が出雲の国(島根県)に出向き、会議を行う由。そこで人々の結婚や職業選択の「縁結び」などが話し合われるとのことである。そのため各地の神々は、不在となるので、暦は「神無月(かんなづき)」と称される。一方、出雲地方だけは神々が集合しているので、特別に「神在月(かみありづき)」と言われるそうだ。何ともおおらかな話ではないか。 その「神の月」の夜長に、私は「神の存在証明」を読んでいる・・・すなわち、11世紀の神学者アンセルムスの「神の存在論的論証」について調べているのである。古来、キリスト教文化圏においては、理性を根拠に神の存在を論理的に示そうと色々と試みられてきた。その代表格がこのアンセルムスの論証と述べてよいだろう。しかも、この影響力は未だに根強く、今日の神学や宗教哲学の世界のみならず、不完全性定理を発見した現代数学者ゲーデルにまで及んでいる。ちなみにその論証の内容は、「神」を「それ以上大きなものが考えられないもの」と定義し、結論は「神は事実において存在しなければならない」とする。その結論へと導くために何項目かの仮定とその仮定を否定する背理が列挙される。これを読み解いて行くのは、かなり難儀である。「よくもここまでやるなあ・・・」と思いもするが、何事も証明しないと気がすまないところが西洋の伝統だろうか。ただ私たちは特に論証せずとも、「見よ、わたしはあなたと共にいる」(創世記28:15)、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という神さま、イエスさまの御声を、信仰によっていつも心の内に響かせているのではないだろうか。そうだ!私たちにとってはこの月は勿論、一年中が「神在月」なのである。感謝


☆10月7日説教「恐れるな」要約:
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(マタイによる福音書5:13、14)
私たちは目に見えるものによらず、信仰によって人生を歩むことを許されています。だから、この世の言葉に一喜一憂するのではなく、この世の覆いの向こう側を語って下さる主の御言葉によって生きるのです。その時、「恐れ」は必要のないものとなります。
[PR]
by aslan-simba | 2012-10-05 07:38 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31